漣が雑誌に発表した小説が評論家の賛辞を浴びた。その翌月に発表した小説は堂々と巻頭を飾り、前作以上の評価を得て、一躍新進の若手として文壇で注目されるようになった。冬子も雑誌を購入し、それらの小説を読んだ。あの毎日顔を合わせている漣さんの頭のなかにはこんな世界が、と驚きながら、ぞくりとするほどうつくしく残酷で凄みのある小説に夢中になった。
なによりも冬子の気持ちを揺り動かしたのは、柳後雄の影響がありありと窺えたことだ。幽玄で格調高い地の文と俗的でなまなましい会話の鮮やかな対比や、段落ごとに視点ががらりと変わる芝居のような構造、狂気と紙一重の恋慕により引き起こされる悲劇。話の筋こそ違うが、冬子が最初に読んだ柳後雄の作品と魂の部分でかたく結びついていた。
――漣さんも私と同じ小説を読んで弟子を志したんだ。私たちは遠く離れた場所で同じものを読んで胸を震わせ、まだ見ぬ柳後雄先生に想いを馳せ、自分の将来を託そうと決意したんだ。
三人の内弟子のなかで最もとっつきづらいと感じていた漣が、急に身近に思えた。彼と語らいたかった。柳後雄作品の素晴らしさについて、はじめて読んだときの世界が変わるような体験について。だが、突然女中にそんな話をされても面食らうだけだろう。漣に話しかけることはしなかったが、その日から、寝る時間を削って柳後雄の初期の小説を原稿用紙に書き写した。文章の息遣いを追いながら、同じものを読んできたであろう三人の弟子たちとも通じあうような心地がした。
残りの内弟子ふたりも漣の活躍に発奮したようだった。ある日、冬子が女中部屋にこもって自分の袷の着物を夏向けの単衣に仕立て直していると、襖の向こうから「冬子さん、入っていいかい?」と声をかけられた。野尻の声だ。どうぞ、と答えると襖が開けられて、上気した顔の野尻が入ってきた。
「聞いてくれ、新たな筆名を決めたよ。くきしゅんめいだ」
「くき? 植物の茎ですか」
「いや、違う」
野尻は筆書きした紙を懐から取り出して見せた。――九鬼春明。あまり巧くはないが勢いのある筆致で書かれた文字を見て、ぞくりと厭な寒気が背すじを走る。
「鬼だなんて……野尻さんに似合いません」
「だったら似合う男になるまでだ。胸中に九つの鬼を飼う、修羅のような小説家におれはなる」
「なにもそんなに恐ろしい名前をつけなくても。野尻権兵衛、充分に素敵な名前じゃありませんか」
そもそも、柳後雄も漣も藤川も、名字は生まれ持ったものをそのまま名乗り、下の名前だけを変えている。筆名のつけかたなんてまったく知らないけれど、野尻ひとりだけこんな大仰な名前を使うのはおかしくないのだろうか。
「野尻も権兵衛も気に入らない。野の尻とはなんだ。いまにも野糞を垂れそうじゃないか。権兵衛は百姓の名前と相場が決まっている。野尻権兵衛なんて名前の男が書いた小説、だれが読みたい?」
「私は読みとうございます」
「そんな世辞はいらないよ。九鬼春明、これからはこの名で生きていく。この名で世間と対峙する」
「野尻さん……」
「いいか、もう二度とおれをその名で呼ばないでおくれ」
その晩、冬子は夢を見た。野尻が巨大な青鬼に頭から呑み込まれる夢だ。鬼のぬらぬらと光る青い肌の下には赤い血管が幾筋も透けていて、それがびくびくと痙攣するように激しく脈打っている。大きな双眸はどろりと濁り、ひしゃげたくちびるから覗く歯は黄色く尖っていた。嗤っているのか、怒っているのか、泣いているのか。表情は冬子の知っているいかなるものとも違っていた。筋骨隆々とした腕で無抵抗の野尻を掴んだ鬼は、彼を頭からばりばりと音を立てて咀嚼し嚥下した。そして激しく身震いすると、浮き上がっていた血管はつるりと消えて、晴れやかな笑みを浮かべた野尻の顔になった。それを物陰で息を殺してただ目撃することしかできなかった。
つめたい汗を全身にかいて飛び起きると、外はまだ仄暗かった。布団から上体を起こしたまま、胸を押さえて荒い呼吸を整えた。
漣の身内に不幸があり、しばらく郷里の金沢に帰ることになったので、送別会が開かれた。内弟子以外の門下生や編輯者なども尾形家に集まり、賑やかに宴は催された。冬子と由喜ときよの女三人は料理や酒を運ぶため、客間と台所を息つく間もなく往復した。
神経質で衛生観念に独自のこだわりのある漣の頼みで、ぐらぐらに燗して風味も酒分も飛んだ徳利を冬子が布巾で包んで持っていくと、柳後雄の弟子の田村叢生という四角い顔をした男が庭に出て柳の枝を一本手折っているところだった。
「客舎青青、柳色新たなり」
山から下りてきた熊のような田村は朗々とした声で吟じ、もったいぶった動作で柳の枝を漣に渡した。
「君に勧むさらに尽くせ一杯の酒。王維ですね」
冬子は知っている詩句につい嬉しくなって、続きを言いながら漣の前に徳利を置く。
そのとたん、騒々しかった客間が静まりかえった。全員の視線が冬子に集中する。出しゃばった真似をしてしまった、と後悔が押し寄せて、全身が発火しそうなほど熱くなる。
「……ほう。お前、漢詩の心得があるのか」
柳後雄がやや厚ぼったい目蓋を上げ、不思議な色気のある切れ長の瞳で冬子を見つめた。
「郷里にいたころ、地元の先生に教わっておりましたので」
消え入りそうな声で答え、空になった徳利と皿をかき集めて足早に台所へ下がった。
宴の開始から三時間ほど経過すると、ようやく酒や料理を求めて女衆を呼ぶ声も収まった。
「朝から立ちっぱなしだったでしょう。片付けの時間までしばらく休んでなさい」と由喜に言われ、冬子は台所の板の間に腰を下ろした。手ぬぐいで額の汗を拭き、茶を啜る。ふう、と息を吐いたそのとき、客間から食器が割れる大きな音が聞こえた。なにごとかと覗きに行くと、野尻が膳をひっくり返して暴れている。猪口の破片が散らばり、甘鯛の照り焼きの食べ残しが畳にしみをつくっていた。顔を上げると、障子がびりびりに破けているのが眼に入る。
「なにがあったのですか」
被害が及ばぬよう遠巻きに見ている藤川に小声で訊ねた。
「なにって、これがなにも起こっていないんだ。なごやかに文学談義をしていたら、酔った野尻が急に暴れ出しただけで」
「これほどまでに酒癖が悪かったとは。猫が大虎になってしまった」と漣が冷ややかな眼差しを野尻に向けている。野尻は初対面であるはずの田村に絡んでいた。押さえ込むように田村の肩を抱き、耳もとでなにごとか喚いている。
「もともと猫というたちでもないけどな」と藤川。
「犬か、狸か、それとも鼠か? 野尻は」
「おい、野尻じゃない。九鬼春明だ。野尻と呼ぶと怒られるぞ」
「そうだった。九鬼春明、なんだってそんな面妖な名前をつけたのだろうな」そう言って漣はくつくつと笑う。
冬子は野尻――いや、九鬼春明の顔を見た。顔色こそ赤いが、先日夢で見た青鬼にそっくりな形相をしている。嗤っているのか、怒っているのか、泣いているのか。いつも眼が合うたびに口角にきゅっと微笑をつくる彼の顔とはまるで別人だ。
ようやく田村を解放した彼は、よたよたと二、三歩歩き、ふと立ち止まってあたりを見まわした。つぎはなにをしでかすのかと部屋じゅうの者が息をのんで見守っていると、眼を瞑り、ひっくり返った。
しんと静かになった部屋に柳後雄の大きなため息が響く。ややあって、地鳴りのようないびきが聞こえてきた。
九鬼さん、と呼ぶと恐ろしい字面が浮かんでしまうので、冬子は春明さんと呼ぶことにした。明るい春。それは彼とはじめて会った早朝の風景を思い出させてくれる。つめたい空気に混じるかすかだけど確かな春の香り、溶けかかった雪の輝き、逆光の陽射しを背負って立つ男の輪郭、予感に弾む胸――。
宴会の明くる朝、自分の醜態について聞かされた春明はひどく羞じ入り、師匠に迷惑をかけたことを悔いていた。午前中は具合が悪そうにしていたものの、午後になると机に向かい、猛然と筆を動かしはじめた。以来、来る日も来る日も取次の間にある自分の机にかじりつき、ろくに食事も摂らずに執筆している。
さすがにからだに悪いだろうからと夜に茶漬けを持っていくと、ありがとう、と原稿用紙から顔を上げずに礼を言われた。書燈に照らされた真剣な横顔をそっと眺める。下向きに生えた睫毛が繊細な影を目もとに落としている。薄いくちびるの隙間から、かたく噛みしめた歯が覗いていた。
「先生の顔に塗った泥を落とすには、名声を上から塗りたくるしかない。柳後雄門下に九鬼春明あり、と言われるよう精進しなければ」春明は自分に言い聞かせるように呟く。
あるいは漣が留守のうちに彼に追いつこうと考えているのかもしれない、と冬子は想像した。兄弟子の活躍に内心穏やかではないだろう。
いっぽう冬子はというと、柳後雄に倣い、近所の相馬屋で背伸びして買い求めた西洋紙の原稿用紙に新しく書きはじめた小説は出だしの数行で止まってしまい、その後の展開はなにも思いつかない。完結させるつもりだった高等小学校時代の思い出話――親友とのある冒険の一日を描いている――は読み返してみるとまるで子どもの作文で、すっかり続きを書く気を失ってしまった。頓挫した原稿用紙ばかりが柳行李のなかに留まっていく。書いても書いても、いっこうに思い描くかたちにはならない。春明か藤川に見せて意見を仰ぐことも考えたが、言い出す勇気がなかった。小説に人生を賭している彼らに対し、自分なんかが……という引け目があった。互いに作品を見せあって口論している彼らが羨ましい。さらに敬愛する師からの助言ももらえるなんて。
あの夜の焼けつくような焦燥を取り戻さなければ。爪を噛みながら二階へ上がる。柳後雄の部屋の前の廊下に積み上げられている雑誌。そのなかから女の書き手の名前が載っているものをさがしていると、音を立てて正面の襖が引かれた。
「出やがったな、この雑誌泥棒め」
自分を見下ろしている柳後雄の双眸と眼が合う。一気に血の気が引いた。
「申し訳ございません!」
雑誌から手を離し、床に頭をこすりつけた。羞恥と後悔で涙が滲む。今日限りで暇を出されて、郷里に戻ることになるだろう。あとは嫁入りを待つ無味乾燥な毎日がひたすら続くだけ。
「いや、怒っているわけじゃあない」
柳後雄は冬子の肩に手を置き、顔を上げさせる。
「以前からここの雑誌が歯抜けになっていることには気付いていたさ。お前の足音と紙をめくる音にも」
気付かれているとは夢にも思わずに、いそいそと盗み続けていた自分の間抜けさに顔が熱くなる。柳後雄の顔をまともに見られなかった。
「先日の漣の送別会で漢詩の話をしていたな。ほら、王維の柳の。お前、文学に関心があるのか?」
「……はい」こくこくと頷きながら消え入りそうな声で答えた。
そもそも冬子が尾形家の女中になったのは、女の弟子を取っているかどうか知人を通じて訊ねたのがきっかけだったのだが、柳後雄は忘れているか、あるいは話が正しく伝わっていなかったのかもしれない。
「ここにあるのは古い号で、おまけに私が切り取ったり茶をこぼしたり鼻をかんだり尻を拭いたりしている」
「鼻を……?」
「いや、後半は冗談だ。新しい号が読みたいのなら自由に読めるようにしてやろう。部屋に入って好きに持っていきなさい」
願ってもみない申し出だった。弟子や妻子すら入れない書斎に出入りできるなんて。
「ありがとうございますっ!」冬子はまた床に頭をこすりつけた。
「その代わり条件がある」
「なんでしょうか」
「私の執筆を手伝ってくれないか」
「なんでもお手伝いいたします! お原稿の整理でしょうか? 清書でしょうか?」
自分の声が弾んでいるのがわかった。頬の肉が自然と持ち上がる。
「いや、そういうことではないのだ。……なかに入って話をしよう」
柳後雄は周囲を窺いながら冬子を室内に入れた。ぴしゃりと鋭い音を立てて背後の襖が閉められる。はじめて入る書斎は書棚に収まりきらない本が床のいたるところに積み上げられ、判別不明なほどに朱が入った原稿が散らばっていて、足の踏み場がなかった。冬子は本や原稿用紙や走り書きの紙を踏まないよう気をつけて歩きながら、部屋に充満している墨と本の香りを吸い込んだ。あのうつくしい小説群がこの混沌とした部屋から――。不思議な感動が胸にこみ上げた。机にはまだ墨がくろぐろと濡れている原稿が広げられている。まだ世に出ていない、たったいまこの世に生み落とされたばかりの柳後雄の文章。息を詰めて原稿に近づいた冬子の肩を柳後雄が抱く。
「弟子には頼めない、お前にしかできないことだ」
ひそめた声が鼓膜を震わせる。吐息まじりの低い声が囁く甘美な言葉に、脳がとろりと揺れる。