柳後雄は読み終えた古雑誌を二階にある書斎の前の廊下に積み上げている。処分すべきそれを冬子はこっそり女中部屋に持ち帰り、布団のなかで読んでいた。ところどころ切り抜かれているし、最新の号ではないのが残念ではあるものの、この家にいれば読むものには不自由しないのが至福だった。
雑誌の頁をめくりながらとろとろと眠りに落ちるのがつねだったが、この夜は違った。偶然開いた頁に載っていた短い小説を読み終えたときには、眠気など吹き飛んでいた。
――なんてすごい小説なのだろう。冬子は雑誌から顔を上げて、震える息を吐いた。揺れ動く感情の機微がていねいにすくい上げられていて、しかもそれが冬子と同じ年ごろの娘のすがただったのだから、かつてないほど身近に主人公の存在を感じた。たおやかだが凜とした力強さを持つ、こんな小説が自分に書けたら、もう死んでしまってもいいのではないか。
桶谷和葉、というはじめて知る名前の書き手は女性のようだった。いったいどんなひとなのだろう。この広いようで狭い東京のどこかで暮らしているらしい和葉に想いを馳せる。会って話をしてみたいし、ぜったいに会いたくない。相反するふたつの気持ちが冬子のなかに渦巻いた。嫉妬できる立場ではないことぐらいわかっているけれど、胸をかき乱す感情は否定できない。女であってもこうやって世に出られるのは希望であると同時に、自分には力量も機会もないと失望させられた。
寝ようと眼を閉じたが、いくら寝返りを打っても眠気はおとずれなかった。目蓋が熱くなり、涙がひとつぶ流れる。
――さきを越されてしまった。
焦燥が指のさきまで充満して震えが走り、噛みしめた奥歯がぎりりと鳴る。まだ一作も書き上げたことのない自分なんて、張りあう資格すらないのに。
寝るのを諦めて布団を出た。となりの布団で寝息を立てているきよを起こさないよう、足音を忍ばせて部屋をあとにする。台所を通り、勝手口から外へ出た。寝間着の衿をかき合わせ、またたく星を見上げる。夜の澄んだ空気が頭のなかにこもった熱を冷ましていく。手水鉢の水を両手ですくい、ぴしゃっと顔にかけた。
――とりあえず、いま書いている高等小学校の思い出話を、最後まで書き上げよう。小説になっているかどうかは完成してから判断すればいい。そう決意して、鼻を啜る。
後架に寄って用を足してから台所に入ろうとすると、さっき通ったときはだれもいなかったそこにひとの気配を感じた。少し前に近所で泥棒騒ぎがあったことを思い出し、一瞬身をかたくしたが、洋燈の明かりにぼうっと照らされている丸髷を見て力を抜いた。
「奥さま」
冬子は柳後雄の妻である由喜に声をかける。
由喜の手には湯呑みがあった。はっと顔を向けた由喜が手で湯呑みの中身を覆う前に、なかに透明な液体が入っているのが見えた。水かと思ったが、由喜の目もとがとろんと赤らんでいるのを見て、違うとわかった。
「……呆れたでしょう。女がお酒を呑むなんて」
諦めたように言ったその顔は能面のようで、いつものにこやかな面持ちとは別人のようだった。
「いえ……うちの祖母もよく呑んでおりましたから」
「おばあさま? 年老いた女が呑むのはまた違うでしょう」
祖母の狭い部屋にただよう甘いような香りを思い出す。火鉢で燗をした酒を、眼を瞑ってありがたそうに啜る、しわだらけの横顔。「ああ、うまいわ」感に堪えずつい出た、という声。あまりにもおいしそうに呑むものだから「冬子にもひと口ちょうだい」と幼い冬子がねだると、「大人になって、結婚して子生んで育てて家守って、それからうんと年取ったら、呑んでもいいがね」と言われたことをよく憶えている。
成長してからは、酒を呑む祖母の幸福そうな顔を見るたび、たまらない気持ちにさせられた。長く生きて務めを果たして、その褒美が独りで酒を呑む時間だと思うと、やりきれなかった。
「もう寝るわ。お前も早く寝なさい」
「はい、奥さま。おやすみなさいませ」
由喜は空になった湯呑みを流しに置き、台所を出て行った。冬子はその後ろすがたを見つめる。新しい時代になって三十年近く経つのにかたくなに日本髪をやめようとしない由喜の、きっちりとひとすじの乱れもなく結い上げられた丸髷を。とはいえ、清国との争いを機に復古の風潮が起こり、ここのところ束髪への風当たりは強くなっていた。冬子も知らない男にすれ違いざま「若い娘が西洋にかぶれて」と憎々しげに吐き捨てられたことがある。せっかく開け放たれた窓が閉じられるような、時代が逆戻りしてしまう息苦しさを感じていた。
板の間に腰を下ろし、由喜の置いた湯呑みを見つめてため息を吐く。良妻賢母の鑑のような由喜のべつの顔を見てしまったことを、うまく消化できなかった。
私も結婚したら家庭を守りながら台所でこっそり酒を啜る女になるのだろうか。そしていつか老婆になり、祖母のように酒を人生の慰めとする日が来るのだろうか。どう足掻いても、終着駅はそこにしかないのか。将来を想うと、さきほどの決意もしぼんでいく気がした。
急に気温が上がったせいか、きよが手入れをさぼりがちなせいか、糠床が消毒薬に似た異臭を放つようになり、新しく仕込まなければいけなくなった。
「おい、廊下にあった雑誌を知らないか」
台所できよを手伝って米糠に塩や昆布を足していると、珍しく柳後雄が顔を覗かせた。
「もう捨ててしまいましたよ」きよが糠をかき混ぜる手を止めずにすげなく答える。冬子は動揺を隠し、大豆を掴んで樽に入れた。
「切り抜いて手もとに置いておきたい小説があったんだがな。しかたがない、本になるのを期待するか」
「いったいどの小説ですか」
声を聞きつけて野尻も顔を出した。
「桶谷和葉女史の短編だよ」
どきんと心臓が跳ねた。あの雑誌は女中部屋の冬子の長持のなかにある。
「なるほど、桶谷和葉ですか」
「お前、いま『文學時代』で連載している『かざぐるま』は読んでいるか?」
「いえ、まだ読んでいません」
「女の書くものだからと侮っちゃいけない。まだ途中ではあるが、間違いなく傑作になるだろう」
「べつに侮っちゃいませんよ。生活に関しては女のほうが玄人だ。私なんて糠床の材料すら知りません。人間の営みを活写すること、それが小説の肝なのだから女に書けないって道理はないんじゃありませんか」
「うむ、そりゃそうだな」
いつのまにか冬子の作業の手が止まっていた。耳をそばだて、ふたりの顔を食い入るように見つめる。野尻がその視線に気付いた。
「冬子さん、どうかしたかい?」
怪訝そうに訊ねられて、いえ、なんでもありません、と首を振る。柳後雄も口髭を指でしごきながら冬子を見やって、少し考えるような顔をした。柳後雄は内弟子で最年長である漣と七つか八つしか変わらないのに、はるかに立派で大人に思える。この家にやってきてから、柳後雄にこんなにしっかりと見つめられたのははじめてかもしれない。心臓が激しく高鳴った。そもそも私の名前を知っているのだろうか。敬愛する先生の眼差しにどぎまぎしていると、柳後雄は視線を外し、野尻の肩に手をやって台所から出て行った。
捨て漬け用の野菜屑を埋めて、糠床の仕込みが終わった。午前中に洗い張りをして縁側に干しておいた着物のようすを見るため外に出る。玄関のほうから話し声が聞こえてきた。
「おれたちに共通しているのは、田舎の出であること、大学に行っていないことだ」野尻が演説をぶっているようだ。
「どれも不利なことばかりじゃないか。江戸っ子で帝大中退の先生の弟子がこれでは情けない」と藤川の声。
「なあに、温室で育てられたご大層な西洋の名がついた花よりも、雑草のほうが強いんです。柳後雄門下の名を文壇に轟かせよう」
「雑草はいいが、野尻、まずきみは正しい語法や仮名遣いを習得しないと。中学を途中で辞めたとはいえ、いまのままではものにならない。柳後雄先生はそこのところは厳しいぞ。一にも二にも文章の錬磨、それが先生のご信条だ」漣が年長者らしくその場を引き締める。
冬子は縁側にまわり、板に張っている木綿の布地に触れた。反物に戻して水洗いして糊付けを施した着物はぱりっと乾いている。陽射しが心地良いので、部屋へ運ばずにここで仕事をしようと決めた。張り板から布を外していく。
「そういやきのう玄関で応対した編輯者が言っていたが、柳後雄先生、執筆にご苦労されているらしい」
「雑誌の連載も二号続けて休載されているじゃないか」
「なあに、柳後雄先生のご不調はいまにはじまったことじゃない。前の女中が辞めてから続いているんだ」深刻そうな声音で話す野尻と藤川に対し、漣がせせら笑う口調で言った。
「前の女中? 花ちゃんになんの関係が?」
「……藤川、鈍いお前は気付いていなかったか」
もっと話をよく聞きたくて、玄関のほうににじり寄ったそのとき、「お冬!」と由喜の声が響き、冬子はびくんと飛び跳ねた。
「どこにいるの? 髪結さんがいらっしゃったから、お前も結ってもらいなさい」
「奥さま、ただいま参ります」
洗い張りの着物はそのままに声のほうへ急ぐ。
いつもと同じ丸髷に結われた由喜のつぎに、冬子は髪結の勧めでいつもとは違う束髪に結ってもらった。髪を三つに分けて編むのはイギリス結びと同じだが、それを後頭部に巻きつけるのではなく、垂らしたまま折り曲げてリボンで結わえられている。新しい髪型が新鮮で嬉しくて何度も手鏡を覗き込んでしまう。
「おや、髪結が来たのか」
ようやく手鏡をしまって廊下に出ると、野尻に話しかけられた。
「マガレイトというそうです、この束髪」髪に手をやって答える。
「この束ねた糸のような部分が曲がっているから、曲がれ糸なのか」
折り込んだ三つ編みに野尻の手が触れた。そこに漣と藤川も通りかかる。
「いや、花の名前にマガレイトというのがある。そこから来ているんじゃないか」漣が腕を組み、考えながら言う。
「女の名前かもしれないぞ。『Little Women』というアメリカの小説があってね、四姉妹が出てくるんだが、その長女がマガレイトというんだ。もっとも僕は英語が駄目だから読んじゃいないが」と藤川。
「それにしてもあなたの顔立ちなら桃割れも島田も似合うだろうな」野尻にまじまじと顔を観察され、冬子の頬は熱くなった。
「厭だわ日本髪なんて。束髪に慣れたらもう、油にまみれた日本髪には戻れません。痒くなるんですもの」
「そういうものかね」
「野尻さんだって、似合うから月代を剃れって言われたらお厭でしょう?」
「はは、違いない」
桃割れも島田も似合うだろうと言われても、素直には喜べなかった。祖母はことあるごとに「冬子はべっぴんだ」と言ってくれるが、天保生まれでいまだにお歯黒をやめない祖母が言うところの「美人」なのだと思うと複雑である。なにせいまは明治、怒濤のような西洋化の波とそれにあらがう復古主義に日本全体が揉まれている最中なのだ。美人の基準だって江戸のころとは様変わりしつつある。
「しかし日本女性の美は日本髪にこそ宿ると私は思うんだがな。鬢付け油で黒々と艶めく髷、それを引き立てる鮮やかな鹿の子の手絡、鬢や前髪が描くなまめかしい曲線、揺れる花簪。日本髪の美と粋が時代によって失われるとしたら惜しい。どれほど西洋化が進んでも、私は洋装なんぞするものか」と漣は不満げだ。
翌日の昼下がり、洗濯ものを干していると、外出から戻った野尻が紙で包んだものを手渡してきた。
「これは?」
「開けてごらん」
包みを開くとパンが出てきた。まだほんのりとあたたかい。香ばしいにおいに鼻腔をくすぐられ、頬がゆるむ。
「今日は銀座に用があって行ってきたんだが、木村屋であなたの頭にそっくりなパンを見つけてね。その名も束髪パンというらしい」
「まあ、束髪パン……。こんなに手の込んだパンがあるなんて」
干し葡萄を練り込んだ生地を三つ編みにして焼き上げたパンは、確かに冬子の髪と似ている。
「さっさと食べて証拠を隠滅してくれ。おきよさんに『どうして私には買ってこないんだ』と騒がれたらやっかいだ。先生の子どもたちも食べたがって騒ぐだろう」
冬子はあわてて包みごとパンを袂に隠した。袖にかかるわずかな重みが、伝わってくるかすかなぬくもりが、こそばゆくてたまらなかった。