「玄関番? まだ増えるのか? この狭い玄関に?」
ゆう後雄ごお先生はご邸宅を明治宮殿かなにかだと思っておられるらしい」
「やれやれ、いまに柳後雄先生の弟子だけでベースボールができるようになるぞ」
 憎まれ口ではあるが、「柳後雄先生」と発するとき、ふたりとも口内で飴玉を転がしているような甘い響きがある。西洋風の不思議な名前であるという理由だけではないだろう。客間や茶の間を挟んだ女中部屋にまで届く彼らの会話に耳を傾けながら、宮島みやじまふゆはそう思った。当代きっての文学者の住まいであるのに、横寺町よこてらまちにあるこの家は古ぼけていて質素で、しかも借り家である。
 尾形おがた家の子どもらは外へ遊びに行き、あるじの柳後雄は二階の書斎にこもっている昼下がり、玄関のほうから聞こえてくる会話に耳を傾けるのが、冬子のひそかなたのしみだった。
「何人でやるんだ、そのベースボールとやらは」
「九人。そんなことも知らないのか。文学の知識だけでは小説は書けないぞ。先生もいつもおっしゃっているじゃないか」
 話しているのはさざなみ藤川ふじかわである。ともに住み込みの弟子だ。
 冬子は「柳後雄先生」こと尾形柳後雄の長女であるももの着物の肩上げをしていた。子どもらしい折り鶴とまりの柄の着物はりんで、ふんわりとあたたかい毛織物の肌触りは冬子にとってまだ馴染なじみがない。黙々と二本取りの二目落としで縫っていると、布に手の脂が吸い込まれ、指さきがかさついていく。満年齢で十七歳と若いわりに乾燥症なのだ。針も黒ずんでいて滑りが悪く、突き刺すのに力が必要で、指貫をめた右手の中指が痛む。こういうとき、実家の母や祖母は髪に手をやってびんけ油を指や針に移していたが、冬子は東京に出てきてから桃割れをやめてそくはつにしたので、髪に油を使っていない。いまはイギリス結びにしている。長い三つ編みをくるくると後頭部に巻きつけて留針で固定した髪型だ。
 日本髪をやめてから洗髪がらくになって頭皮のできものが消え、髪の崩れを気にせずに眠ることができ、油の重く甘ったるい香料につきまとわれることもなくなり、いいことずくめだと思っていたが、こんな弊害があったとは。冬子は針をはぎれでしごいて磨き、また着物の生地にぷつんと刺す。そのとき、女中部屋のふすまが音を立てて横に引かれた。
「おい、使っていない布団はあるか?」
 そう言った漣の顔を見上げる。華奢な肉体に白い肌、浮世絵の美人画のような女性的な顔立ちに反し、強い口調だ。とはいえ怒っているわけではなく、これが漣のつねであることを知っていた。彼を見るたび、高等小学校時代の親友だった勝ち気な少女を思い出す。着物の裾をからげて近所の男の子と相撲を取っていたその親友も、先月親の知人の家に嫁入りしたらしい。
「客間の押入にお客さま用の布団が入っているので、ひと組持っていきますね。新しい玄関番さんがいらっしゃるんでしょう?」
「どうしてそれを?」漣はげんそうに片眉を上げる。
「お話しされているのがここまで聞こえてきましたので」
「なるほど。……それと机が必要だな。座布団も」
「机でしたら先生が最近買い換えたので、古いほうを」
「先生の机?」漣の眼が鏡のようにきらりと光った。「それはいけない、私がもらおう。新入りには私がいま使っているもので充分だ」
 漣は廊下に出て藤川を呼び、机をしまっている納戸へ向かった。冬子は客間の押入から布団と枕を下ろして抱え、玄関と土間続きになっているとりつぎの間へぱたぱた足音を立てて運ぶ。「失礼いたします」と声をかけて取次の間に入った。この部屋はたったの二畳で、そこに一畳ほどの板の間がくっついているとはいえ、三人の男が寝起きするには窮屈きわまりない。
 信心深い漣が運び入れたばかりの机に向かって手を合わせて眼を閉じ、なにごとか口内で唱えはじめた。冬子は隅に積み上げられている布団の上に運んできた布団を載せる。部屋を見まわした。昼間は住み込みの弟子たちが机を並べて原稿用紙や書物と格闘し、夜は机を壁に立てかけて布団を並べて眠る部屋を。隅には書物が積み重ねられ、くずれからは汚れた原稿用紙があふれ、どこからかみずまりで寝そべって濡れた犬のようなにおいがただよっている。
「どうだい、むさ苦しい住まいだろう。こんなところに長くいたら、冬ちゃんだって髭が生えてしまうぞ」
 漣とは対照的なのんびりとした声音。藤川に話しかけられ、冬子は彼の顔を見上げた。面長の顔はどこか間延びしていて、弓なりの眼はつねに笑っているようだ。冬子の二歳上の十九歳。漣はさらに彼の四つ年上の二十三歳である。藤川はこの家でいちばん年が近いということもあって、よく冬子に話しかけてくれる。
 冬子はあいまいに笑みを返したが、この部屋は自分の殺風景な女中部屋よりもはるかに魅力的に見えた。彼らと机を並べて原稿用紙に向かい筆を持つ自分を一瞬想像しかけて、やめた。

 日の出とともに冬子は勝手口から外に出た。たま砂利じやりを下駄で踏み鳴らしながら水を汲みに井戸へ向かう。普段の炊事は尾形家に長年いる老女中のきよがおもに担っているのだが、きよは朝に弱いため朝食は冬子の仕事だ。藤川のいびきが庭に出ても聞こえてくる。
 夜半に降った雪が庭のあちこちに残り、陽光を浴びてきらきらと輝いていた。冷えた早朝の空気にはどこかやわらかさがある。すうっと音を立てて深呼吸をした。白湯を口に含んだときのように、からだの芯がほどけていく。きのうまでとは明らかに空気が違った。
「早くにごめんください」
 ふいに門のあたりから男の声がした。
 朝のひかりを背負っておぼろにかすむ声の主を見ようと、冬子は寝ぼけた眼をこらす。型崩れしたやなぎごうを担いだ小柄な男があさもやのなかに立っている。男の眼鏡のふちが光った。
「今日からここに置いてもらうことになっている、じりごんと申します」
 野尻さん、と冬子はぼんやり名を繰り返す。前日の漣の話を思い出し、はっとわれに返って会釈をした。
「ようこそいらっしゃいました。先生はまだお目覚めになっていらっしゃいませんが、どうぞお上がりください」
「あなたは?」
 そう訊ねられて面食らった。質素な木綿の着物にたすきをかけて、前掛けをしている自分はどこからどう見ても女中だろうに、「あなた」とは。「おい」とか「お前」とか「きみ」とか「冬ちゃん」とか、尾形家にいる人びとはそれぞれ違う呼びかたをするが、あなたと呼ぶ者はいなかった。
「私は……この家の女中でございます」
「そんなことはわかっていますよ。名前をいているんです」
「冬子といいます」
「名字は?」
「宮島です。宮島冬子」
「その音の響き、愛知のひがしかわの出でしょう」
 くちびるに微笑を浮かべて男は言った。東京で暮らして半年が経ち、すっかりお国訛りも消えたと自負していたのに。指摘されて頬が熱くなる。
「……はい、とよはしから出てきました」うつむいて答えた。
「やはりそうか。私ははんのあたりです」
 そのとき、ふわりと風が起こった。そのにおい、肌触り。外に出た瞬間から感じていた違和感が、鮮やかに正体をあらわす。
 ――あ、春。
 ふたりの呟きが重なった。一拍置いてから顔を見合わせ、同時に笑う。

 尾形柳後雄はもちろん本名ではない。門の表札には尾形へいろうと書かれている。柳後雄という名は、ヴィクトル・ユウゴオというフランスの小説家から拝借したらしい。
 高等小学校に通う時分から、冬子は近所に住む書家に書道と漢籍を習い、地元の短歌結社に入って会報誌に短歌を発表していた。結社の主宰の家で歌会があった日、書棚に差し込まれた一冊の本がふと気になって手に取ったのが、運命の導きだった。
「尾形柳後雄といってね、最近流行している小説家だ。知っているかい?」
 いつのまにか背後に立っていた主宰に訊ねられ、冬子は首を左右に振った。それまで小説というものをほとんど読んだことがなかった。
「気になるなら貸してあげよう。時代が変われば書かれるものも変わる。旧幕時代の戯作とも西洋の真似ごととも違う、独自のものがやがて花開くだろう。これから日本の文学は面白くなるぞ」
 帰宅した冬子はさっそく本のページを開いた。風雅な文語体の文章に陶然としていると、そこに差し込まれる会話は話し言葉で、だれかの喋ったことをそのまま書き写したようでどきりとするほどなまなましい。一行ごとに色合いが変わる文章に幻惑されているうちに、思いも寄らない結末に辿り着いた。目眩を感じながら本を閉じ、部屋を見まわす。全力で走ったあとのように、胸が激しく鳴っている。部屋の空気も、窓から見える風景も、そして自分自身も、本を読む前とは違っているように思えた。架空の人間であるはずの登場人物の気配をいつまでも胸の内側に感じ、ふとしたときに、物語の結末のあとどうなったのか考えてしまう。
 物語に描かれていたのは、男と女の複雑で哀切な情愛の世界だった。たぶん自分は一生素手で触れる日は来ないだろう。血が噴き出すような激しい愛憎は、かたい家の娘である私には無縁のこと。遠くない将来、親のお墨付きを得た男と見合いで夫婦となり、子を産み、育てる。あらかじめそう決まっている。味わうことのない果実とわかっているからこそ、冬子はちゅうちゅうとはしたなく口のまわりを汚して果肉をむさぼるように、文章にたんできした。
 尾形柳後雄の小説を立て続けに読んだあとに、ほかの現代の小説家の作品も読んでみたが、柳後雄が紡ぐ小説のめくるめくうつくしさと残酷さに及ぶものはなかった。それまで情熱を込めて取り組んでいた漢詩や短歌がとたんに色褪せて見えた。五言絶句やら七言律詩やら五七五七七やらの形式に押し込められずに、自由に伸びやかに文字を綴ってみたい。いつか尾形柳後雄の作品のように色鮮やかな小説を書いてみたい。願わくは尾形柳後雄に弟子入りして彼のもとで学びたい。
 短歌結社の仲間に尾形柳後雄と面識のある者がいて、彼に言づけを頼んだところ、女の弟子は取っていないという返事が返ってきた。その代わりと言ってはなんだが、ちょうど女中が辞めて困っているらしい、という話を聞かされた。