大それた夢を抱いていることが気恥ずかしく、それに話したところで一時の気の迷いだとあしらわれるだけだとわかりきっていたので、それまで冬子は親にまったく相談していなかった。ひとり娘が漢詩や短歌に親しむことを「武家の娘にふさわしい教養を身につけるように」と歓迎していた父だが、女中となると話はべつである。
「東京で女中奉公をするだと? 三河吉田藩士の娘が東京の田舎者の世話をするわけにゃいかん。宮島家の恥さらしだ」
士族とはいっても、御維新が起こる瀬戸際のころに株をお金で買っただけで、代々続いた由緒正しい武家とは違うじゃありませんか。冬子はそう反論したかったが、火に油を注ぐだけなのでぐっとこらえた。遊郭では食いつめた士族の娘が木連れ格子の向こうにずらりと並んでいると聞く。宮島家は土地や建物をいくつか受け継いでおり、父にはそれらを運用して家族を養う才覚があったが、慣れない商売に手を出して失敗した士族の話はちまたにあふれている。過去の身分にすがって生きていける時代ではない。武家の矜持なんて生きるのに邪魔なだけだ。
柳後雄と帝大の国文科で同級だったという人物が身近に見つかり、彼に説得をしてもらうと、権威に弱い父はようやく軟化した。満年齢ではたちになるまで、という期限付きでしぶしぶ東京へ出してもらえることになった。家のことは母と祖母にまかせきりで米を研ぐことすらしてこなかった娘に女中など勤まるわけがない、どうせすぐに帰ってくるだろう、という読みがあったのかもしれない。はたちになって帰郷する日までには婿を見つけておくから、戻ったらすぐに結婚すること。それが父の出した条件だった。家付きのひとり娘である冬子には、婿を取ってこの家を存続させる役目がある。
柳後雄の家に住まい、日々の雑用に追われているうちに半年が過ぎた。仕事の合間に小説をしたため、機会を見て先生に添削していただこうと計画して上京したのに、まだ結末まで書き切ったものはひとつもなく、内容も日記に毛の生えたようなものだ。陽が暮れるたび今夜こそ書かなければと焦るのだが、たいてい昼間の仕事で疲れ果てて寝てしまう。そもそも小説とはどうやって書くものなのか、冬子にはまったくわからなかった。珍しくすらすらと書けていても、これはほんとうに小説なんだろうかと考えると筆が止まって一字も進まなくなり、逃げるように違う内容のものをいちから書きはじめる、ということを繰り返していた。敬愛する柳後雄の家で暮らせば書けるだろうと楽観していた過去の自分の浅はかさが恥ずかしくなる。このままではあっというまに、なにも成せずに約束の三年が経ってしまう。
縁側の床を雑巾がけする手を止め嘆息していると、藤川に話しかけられた。
「冬ちゃん見たかい? 野尻の左肩を」
「肩?」
「女の顔の刺青が入っているんだ」
「まあ、刺青が……」
冬子はそれまで刺青の入った男などかかわったことがなかった。刺青なんて荒くれものの証。いまや外国人から向けられる奇異の目を意識したお上によって禁じられている。青ざめた冬子の緊張をほぐすように、藤川が笑顔をつくった。
「いや、博徒やらなんやらではないよ。ここに来る前、放浪生活を送っていた時代があって、そのときに度胸試しで入れたらしい」
「下手な墨だ。あんなものを肌に彫られて、私だったら腕を切り落とすだろう」
いつのまにか縁側に出ていた漣がそう言ってふんと鼻を鳴らした。
「まあ、あいつが小男でよかったよ。刺青が入っていて大男だったらこっちが萎縮してしまう」
「小柄ではあるが、私たちとは違ってそれなりに逞しいじゃないか。このあたりの坂で鍛えている車夫には劣るが」
「それにしても野尻がおきよさんに挨拶したときは傑作だったなあ。おきよさん、眼を白黒させてさ」藤川がくつくつと思い出し笑いをする。
あの日、野尻は冬子にしたのと同様に、遅く起きてきた老女中のきよにも「あなた」と呼び、うやうやしく名乗ったのだ。
「ていねいを通り越して無礼とは言えないかい、あれは」
「無礼かどうかはさておいて、書生らしからぬ世慣れた雰囲気がある」
「とにかくいままでの柳後雄先生の弟子とは肌合いの違う男だよ」
「酒も女も存分に知っているようだな、君とは違って」
「こら、冬ちゃんの前だぞ」
顔を赤くした藤川があわてて漣の羽織の袖を引っ張る。そこへ外出から帰ってきた野尻が庭からすがたを見せた。
「みなさんお揃いでひとの噂ですか」
「きみの慇懃と無礼について話していたんだ」
「家が商売をやっていましてね、門前の小僧じゃないが、骨の髄まで客あしらいが身についているんです」
ほがらかにそう言った野尻の顔を見上げると、彼の後ろの木に咲いた桃色が眼に飛び込んできた。
「あら、もう桜が!」冬子は立ち上がってはしゃいだ声を上げる。
「桜?」
「ほらあそこに」
「ああ、あれは梅だよ。まだ二月だ、桜には早い」と藤川に正された。
「桜と梅の見分けがつかない女がいるとはな」
漣の声のつめたさに冬子は背を縮める。その背にさりげなく手が置かれた。野尻の手だ。ぽっと背が熱を持つ。
「女だからって花に興味がなきゃいけないっていう道理はないね。おれたちだって、小説なんていういくら読んでも腹の膨らまないものに取り憑かれているじゃないですか。同じ男であっても、うちの親父から見たら酔狂どころか愚行にしか見えないらしい。現におれは理解してもらえず廃嫡されてしまった」
「小説が原因で?」
「いや、厳密には放浪生活で愛想を尽かされてというのが正しいな」
「野尻、きみはいまいくつだ?」漣が口から煙管を離し、眼を細めて野尻を見た。
「二十一です」
「すると藤川の二個上で私の二個下か。ちょうどふたつずつ年が離れている三兄弟みたいなものだな」
ここにいる私もちょうど藤川さんの二個下です、三兄弟ではなく四兄妹と言えないでしょうか。冬子は胸のうちでそう問うてみる。くちびるをぎゅっと閉じて彼らの顔を見ていると野尻と眼が合った。
「冬子さん、ちょっとおいで」と呼ばれる。なんだろうと訝しく思いながら、沓脱ぎ石に置いてある下駄を履いて庭に出た。
「椿と山茶花の違いは知っていますか?」
野尻はつやつやとした葉の木を指した。赤い花がいくつも咲いている。
冬子は首を左右に振る。
「木についている花や葉よりも地面を見たほうがわかりやすい。花びらがばらばらに散るのが山茶花、首ごと落ちるのが椿だ」
「首ごと落ちる……」
恐ろしげな言葉に背すじがぞくりと震えた。そういえば祖母が言っていた。椿は首ごと落ちるから不吉だと。だから武士の家には植えてはいけないと。
「つまりこれは椿だな」
野尻は落ちたばかりとおぼしき鮮やかな赤い花を拾い上げた。黄色い花芯は花粉をいっぱいにつけて乱れている。花についた土を払い、冬子のイギリス結びの髪に挿した。眼鏡の奥の眼はまっすぐに冬子を見つめている。ぽってりと咲く可憐な花と、首が落ちるという血なまぐささ。目の前のやさしい男と、肩に入っているという女の顔の刺青。冬子の薄っぺらな胸はよくわからない感情でいっぱいになって、ただうつむいて地面に散らばる花を見る。熱を持って赤くなっているであろう耳とうなじが彼から見えていることが恥ずかしかった。