午前一時を過ぎた。ようやく昼間の暑さの名残りが、夜風に流されていった。
 滝沢征司は、駐車場に駐めた車の助手席から、十メートルほど先にある店の入り口を見つめている。ビルの一階に入っている古い造りのスナックだ。
 店を見張り始めて三時間ほどたつが、客の出入りはおろか周囲には人影もない。
 地下鉄の神谷町駅から五十メートルほど離れた裏通りだ。明かりが点いているのは、滝沢が見つめている店だけだ。
 六本木から地下鉄でわずか一駅だが、この辺りはビジネス街で、夜になると街が息を殺したように静かになる。高層のオフィスビルと古刹が並ぶ独特の雰囲気を持った街だ。
 店の中には、最近勢力を伸ばしている半グレグループのリーダーとその女がいる。
 ジャケットの内ポケットでスマホが震えた。滝沢が身を置いているコンサルタント会社『秀和』の所長、来栖修からだった。
 視線を店の入り口から外さず、スマホを耳に当てた。
『滝沢さん、事情が変わりました』
 いつもの丁寧で落ち着いた口調だ。
『警察が動き始めました』 
「どういうことですか」
『岩瀬がフィリピン行きのチケットを取っていることがわかりました。飛ばれると面倒なので、裏が取れている恐喝で、今夜中に逮捕という方針になったそうです。もうしばらくすると警察が、そちらに向かいます』
 岩瀬というのが、店の中にいる半グレのリーダーだ。脱法ドラッグの販売から始まり、最近は振り込め詐欺を組織的に行っているという話もある。一ヶ月ほど前に六本木で若者向けのバーを開店させた。悪事で稼いだ金で正業を始める、典型的な半グレのやり方だ。
 岩瀬が連れている女を警察に渡さない。それが滝沢たちの今回の仕事だ。警察の着手はまだ先という情報があったので、比較的余裕をもって行動していた。
『急ぎケリをつけてください』 
 来栖が当たり前のように言った。
「無茶なことは、言わんでください」
『いつも通り、やり方はお任せします』
 来栖は、さらりと言って電話を切った。
 滝沢は、スマホに向かって舌打ちをすると、別の場所で店を見張っている霧島冴香に、合流するようにと連絡した。
「面倒な話になったみたいだね」
 運転席の矢沢翔太が、二十六歳には見えない童顔を向けてきた。元警察官だが交番勤務の経験しかない。基本的な逮捕術は身に付けているが、半グレとの格闘の場で頼りにするつもりはなかった。運転だけをしっかりしてくれればいい。本人もそれを承知している。
 窓をノックする音がした。顔を向けると霧島冴香が腰をかがめてこちらを見ていた。
 今日もスタンドカラーの黒のライダースジャケットに黒のパンツ。足元は黒のライダー用のミドルブーツだ。滝沢より八歳下の二十八歳で陸上自衛隊の元隊員だ。それ以上の経歴は知らない。
 滝沢は、来栖から聞いた話を二人にした。目は店の入り口に向けたままだ。
「店の中に何人いるかもわからずに、突っ込めって言うんじゃないでしょうね」 
 冴香が鋭い目をむけてきた。
 岩瀬は、イギリス人の父親と日本人の母親のハーフで、身長は百九十センチ近くあり、体重も百キロを超えている。レスラーかラグビー選手のような鍛え抜かれた身体をしている。喧嘩の強さと凶暴さでリーダーの地位についた男だ。
「じゃあ、僕が見てきますよ」
 翔太が軽い調子で言った。
「店は、まだ明かりが点いているんだ。飲む場所を探している感じでドアを開けても、警戒されないでしょ」
 客を装って中を覗くことは、滝沢も考えた。それを翔太に任せて大丈夫だろうか。
「滝さんが行ったら、あいつら警察が来たと勘違いして、逃げ出すか、開き直って飛びかかってくるかのどっちかだよ」
 翔太が笑いながら言って車を降りた。
「冴香ねえさん、行きましょう」
 翔太が冴香の前に立って言った。
「カップルの方が自然でしょ」
 翔太の言葉に冴香が頷き、並んで店に向かった。
 滝沢は、車を降りて店の周辺に視線を走らせた。
 二人が店の前に立ち、いったん顔を見合わせてからドアを引いた。翔太が身体を半分店に入れると、ぴったりくっついている冴香も顔を中に入れる格好になった。
 翔太が何度も頭を下げてドアを閉めた。二人並んだまま足早に離れていった。 
 しばらくして、二人が反対方向から戻ってきた。
「入って左がカウンター。右側には、四、五人が座れるボックス席が三つ壁沿いに並んでいるわ。岩瀬と女は、一番奥の壁際のソファーに座っている。手前のテーブルにスキンヘッドの男が一人。あとはカウンターの中にバーテンダーが一人」
 冴香が続けた。
「手前の男はガタイだけで喧嘩をするタイプ。街中での喧嘩なら負け知らずだろうけど、しょせんその程度。バーテンダーは何もできないと思って大丈夫」
 こういう時の冴香の判断は信用していい。
「岩瀬はスマホに向かって、早く来い馬鹿野郎って怒鳴ってたよ。早くしないと仲間が増えちゃいそうだ」
 翔太が補足した。仲間が集まったら手出しするのは無理だ。
「岩瀬は俺が相手をする。手前の男は冴香に頼む。翔太は裏口から入ってバーテンダーを黙らせてから女の身柄確保」
「ちょっと待って」
 冴香が声を上げた。
「岩瀬は私がやる」
「どういうことだ」
「岩瀬の相手は、滝さんじゃ難しい」
 冴香が表情も変えずに言った。はったりや意地で動く女ではない。
「冴香はもう一人を倒してから、俺を援護する。それでどうだ」
「間に合わない。私なら、最悪でも滝さんがもう一人を倒す間くらいは、相手ができる」
「わかった。そうしよう」
 滝沢は、二人の肩を叩いて歩き出した。
 裏口から翔太が入ったのを確認して、滝沢は冴香と店のドアを引いた。
「今日は休みだ」
 スキンヘッドの男が、滝沢たちを追い払うように言うと、カウンターの中のバーテンダーに顔を向けた。
「鍵かけとけって言っただろ、馬鹿野郎」
 スキンヘッドが怒鳴り声を上げ、手元にあったガラスの灰皿をバーテンダーに投げつけた。バーテンダーが首を引っ込めるのと同時に、後ろの棚の酒瓶が派手な音を立てた。
 滝沢は、構わずに店の中に進んだ。
 スキンヘッドが立ち上がり近づいてきた。
「聞こえねえのか」
 額がくっつくほど顔を寄せてきた。その目が滝沢の後ろに立つ冴香に向いた。
「おめえ、さっきの」
 言葉が終わる前に至近距離から、思いっきりアッパーカットを入れた。男の頭が後ろにのけ反った。倒れない。右の拳がしびれるほどの頑丈さだ。素早く男の頭を抱え込むようにして、鼻のあたりに額を叩き込んだ。鼻の骨がつぶれる感覚が伝わってきた。
 冴香が脇をすり抜けて岩瀬に向かって行った。
 スキンヘッドが両手で顔を押さえて二、三歩後ずさった。
 カウンターの前のスツールを両手で持ち上げ、男の側頭部に叩き込んだ。男はテーブルに身体をぶつけ、そのまま崩れるように床に倒れた。
 店の奥に顔を向けると、岩瀬と冴香がテーブルをはさんで向き合っている。冴香も女としては背が高い方だが、大人と子供がにらみ合っているようだ。
 滝沢がスキンヘッドの身体を飛び越えるのと同時に、岩瀬が目の前のテーブルを蹴り倒した。冴香が左に跳んだ。岩瀬が冴香に飛びかかるように右のパンチを放った。
 冴香が身体を開いてパンチをよけた。懐に飛び込み、右腕を斜め上に突き上げた。冴香の伸びた指が岩瀬の太い首に深く食い込んだ。岩瀬が濁った声を上げながら喉を押さえて前かがみになった。冴香は、素早く腕を引くと、身体の回転をきかせて岩瀬のこめかみに肱を叩き込んだ。岩瀬の顔が弾かれたように横を向いた。冴香は、わずかに身体を沈めて、岩瀬の左膝にローキックを入れた。岩瀬の足が内側に、くの字に曲がった。
 一瞬の間を置いて岩瀬が悲鳴を上げて倒れ込み、膝を抱えてのたうち回った。
 店の入り口近くに目をやると、翔太が女の腕を後ろにねじり上げて壁に押さえつけている。レザー風の短いスカートから伸びた長い脚が、小刻みに震えている。バーテンダーは、カウンターの中で倒れているのだろう。
 冴香がポケットから出したプラスチックの結束バンドで、女の腕を後ろ手に縛った。女は何が起こったのかわからず、派手な化粧で覆われた顔を恐怖でこわばらせている。
「行きましょう」
 冴香が声をかけてドアに向かった。息は全く乱れていない。
 店を出て数歩進んだところで、後ろから車の走ってくる音が聞こえた。
「声を出したら殺すよ」
 冴香が女の耳元で言った。女は黙ったまま、冴香に引きずられるように歩いている。
 車は店の前で止まり、何人かが降りて店に入って行ったようだ。
 翔太が運転席のドアに手をかけるのと同時に、店から数人の男が飛び出してきた。
「てめえら、ちょっと待て」
 男たちが怒鳴りながら走り寄ってくる。
 翔太が運転席に飛び込み、滝沢と冴香は女を押し込みながら後部座席に滑り込んだ。
 エンジンをかけ駐車場を飛び出した。滝沢の予想に反して翔太はハンドルを右に切り、男たちに向かって行った。クラクションを鳴らしてアクセルを踏み込んだ。男たちが左右に飛んでかろうじて車をよけた。停まっている車と建物の間は車が通れるぎりぎりの幅だが、翔太はスピードを落とすことなくすり抜けた。
 五十メートルほどで交差点に差しかかった。
「街中で追いかけられたら面倒だからね」
 翔太が笑いながら言った。
 滝沢が後ろを見ると、奴らの車は狭い道でUターンに手間取っているらしく、こちらに車体の側面を見せている。
「あんたたち、こんなことしてただで済むと思ってんの」
 女が震える声で言った。
 冴香が女に目隠しをして髪を掴んだ。
「黙っていたら危害は加えない」
 女は、肩を震わせたまま黙り込んだ。
 滝沢は、スマホを出して来栖に連絡を取った。
「お客さんの身柄は確保した。今から約束の場所に連れていく」
『お疲れさまでした。あちらには連絡しておきます』
 それだけ言って電話は切れた。
 誰も口を開かないまま、車は渋谷を抜けて三十分ほどで世田谷区内の住宅地に入った。しばらくすると、大きな構えの神社が見えてきた。その隣の屋敷が目的地だ。
 立派な門構えの屋敷の前に、ダークスーツの男が二人立っていた。門には大久保と書かれた表札が掛かっている。
 男たちに先導されて車は敷地内に入った。都内の一等地だというのに、玄関の前に車を止めるスペースがある立派な造りだ。滝沢は車を降りて二人の前に立った。
「お嬢さんを、お連れしたよ」
 冴香が女を連れて車を降りてきた。目隠しと手を縛った結束バンドはそのままだ。
 男の一人が滝沢を睨みつけた。
 もう一人の男が女に駆け寄り、腕の結束バンドをほどいて目隠しを取った。女は男の顔を見て安心したのか、その場に座り込んで泣き声を上げた。
「じゃあ、確かに渡したぞ」
 滝沢は、何か言いたそうな男に声をかけて車に乗り込んだ。
「危ない割には、つまらない仕事だったね」
 翔太が自嘲気味に言って車を発進させた。 
 今回の仕事の依頼主は、大久保隆司。五十二歳で当選四回の与党代議士だ。祖父の代から閣僚に名前を連ねる、名門の三代目議員だ。政治家としての実力がどの程度なのか、滝沢は知らない。
 女は大久保の娘だった。半グレグループに警察の手が伸びそうだという情報を得た大久保が、娘を連れ戻すように依頼してきたということだ。娘が半グレの一員として逮捕でもされたら、政治生命が終わってしまうと考えたのだろう。
 滝沢たちが身を置く秀和の仕事には、こんなものも含まれる。時には、政治家や企業人のスキャンダルを探るような仕事もあった。世の中の役に立つとは言い難いが報酬は大きかった。それで自分を納得させていた。
 車は渋谷の街を走っている。この辺りは聞き込みでよく訪れた。そんな日々があったことが嘘のようだ。
 警察を辞めて二年がたつ。警視庁捜査一課の刑事。警察官になった時からあこがれていた職場で、自分の信じる正義を実践していると自負していた。だがその仕事が原因で家庭と人生を狂わせ、今は正義とは縁遠い世界で仕事をしている。
 窓の外に目を向けた。車は六本木の街に入っている。事務所には十分ほどで着くはずだ。事務所にバイクを置いている冴香を降ろしたら、滝沢は自宅の近くまで送ってもらうことになっている。
 窓の外を派手なネオンが流れていく。金曜日の夜とあって、午前二時を過ぎても人通りは多い。華やかなネオンの中を、肌を露出した若い女性たちが歩いている。大久保の娘と同じくらいの年格好だ。これを平和な街というのなら、それに文句をつけるつもりはない。
 滝沢は、シートに背中を預けて目を閉じた。 

 

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