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 わたしは、かなりの間抜け面をさらしていたと思う。口が開いているのが自分でもわかった。どうふるまえばいいのか判断がつかず、わたしもまた立ちすくんでいた。
 突然、腕を引かれた。
 なぜ? と思う間もなく、強い力で部屋の中に引っぱりこまれたわたしは、ああ靴を脱がなきゃいけない、とそんなことを考えた。
「あんた、見たね」
 京野さんの顔は、びっくりするほど赤い色に変わっていた。相当怒っている。
「あの……」
 いつの間にか扉は閉められていた。
「あ、えっと、お、おしゃれですね、白髪のウィッグ。途中経過なしで白一色のほうがいいって感覚、わかりますー。わたしも将来はどうしようかと」
 京野さんが台所へと歩いていく。シンクの扉を開け、なにかを取りだした。
 え? 包丁?
 それを前に突きだして向かってくる京野さんの腰は、曲がっていない。
「どういうこと?」
「風呂場に行きな」
 京野さんが顎をしゃくって方向を示す。
「な? なんで」
「部屋を汚したくないんだよ。さっさと行きな」
 それは、わたしを殺すってこと? どうして。
「い、嫌です」
 ひとつだけわかったのは、京野さんはおばあさんじゃないということ。
 ちっ、と舌打ちが聞こえたかと思ったら、京野さんがこちらに突っこんできた。包丁を胸元で持ち、刃を向けている。
 わたしはかろうじてかわした。背中が食卓に当たる。
 京野さんとの距離はさっきより近い。京野さんが包丁を振りかぶる。わたしは横に逃げた。二の腕に、焼けたような痛みが走った。え、切られた? わけがわからなすぎて考えがついていかなかったけれど、本気なんだと実感した。
 逃げなきゃ。
 どうやって逃げる? ここは三階。窓は無理だ。玄関しかない。でも京野さんは玄関を背にしている。
 わたしは食卓をくぐって反対側に出た。
「助けて! 誰か!」
「向かいもあっち側の隣も空室だ。叫んでも聞こえないよ」
 京野さんが食卓を回りこんでこようとする。わたしは食卓の片側を持ちあげながら、京野さんのほうに押した。
 京野さんが、後退しながらたたらを踏む。食卓の上にあったものが、京野さんに降りかかる。しりもちでもついてくれればその隙に逃げられると目論んだけれど、京野さんは姿勢を低くし、両足を広げて踏ん張った。そのようすにふと、思いだす。
 もしかして最初に会ったときは、わざとしりもちをついたのでは。
 玄関への道は閉ざされた。
 これはもう。
 わたしは手あたり次第に物をつかんで、京野さんに投げつけた。包丁を持つ右手を狙う。京野さんは首元のスカーフをはずし、右手に巻きつけた。わたしの狙いがばれたのだ。
 わたしは背後を確認しながら、じりじりと部屋を奥へと進む。最近ぐっと寒くなってきたからか、こたつが置かれている。
 そうだ、こたつ。
 京野さんが両手で包丁を持って脇を締めた。突っこんでくるつもりだ。
 来た。
 わたしはこたつの天板を持って、京野さんに打ち当てた。京野さんのうめき声がしたけれど、そのまま天板を押していく。むこうずねを蹴られた。痛いけれど我慢して、なお押した。ふっと軽くなったと思ったら、京野さんが横から回りこんできた。包丁で刺されそうになったところを天板で防ぐ。
 京野さんが回りこんだせいで、彼女の背後が壁になった。これはいけるかもしれない。そのまま天板を押していった。天板の面と壁で京野さんを挟むような形にして、なお力を加える。天板はガタガタと揺れた。京野さんの顔も手も、天板の向こう側。出ているのはパンツ姿の脚だけだ。また蹴ってきたが、空を切る。わたしは足でこたつ布団をたぐりよせ、京野さんのほうへと押しやった。
「苦し……」
 くぐもった京野さんの声がした。
「包丁を捨てて!」
「押さないで」
「捨てて!」
 天板の向こうでなにかをこする音、続いて振る音がしたのちに、包丁が落ちてきた。こたつ布団の上に落ちたので、足で端をめくりあげて包丁にかぶせた。
「苦しい。早くっ」
 京野さんがれたように叫ぶ。わたしは力を緩めず、なおも天板で彼女を圧迫する。
「ダメです。殺されかけたんですよ」
「もうなにもしない」
「じゃあ手を上げてください」
「押すのをやめてくれないと、上がらない」
「無理すれば上がるんじゃないですか」
 やがて、うめき声とともに京野さんの両方の手が、天板の上にゆっくりと出てきた。右手にはスカーフが絡みついている。
 わたしは自分の身体で天板を押しながら、京野さんの手をつかむ。その拍子に天板が落ちた。床ではなく、京野さんの足の甲にだ。悲鳴があがった。
 なんとか、絡みついていたスカーフで京野さんの両手を縛ることができた。抵抗されて、前でしか縛れなかったけれど。京野さんは疲れたのか、しゃがみこむ。
「いったいどうしてこんなこと」
 訊ねるも、京野さんはわたしを睨みつけるだけで口を開こうとしない。
 やっぱり京野さんは、七十を過ぎたおばあさんではない。首周りの皺が少なかった。髪が黒い。なにより動きが機敏だ。
「警察呼びます」
「やめて。ここから出ていくからやめて」
「そんなわけにいきませんよ。包丁で刺してきたじゃないですか。怪我だってしたし」
「あんた、財布のことであたしに恩義を感じてるんだろ」
「そういう問題じゃないでしょ」
 わたしも京野さんを睨む。
 睨みあいになった。しばらくそうしていたら、京野さんがふっと視線を逸らした。思わずそちらを見てしまう。
 頭突きをされた。
 おなかのあたりを突かれたせいで息が詰まり、よろけてしまう。見れば京野さんは、不自由な手のまま押し入れを開けていた。上段の奥からなにかを引っ張りだしている。鞄だ。
 待ちなさいと叫ぼうとしたら咳きこんでしまった。
 そのすきに京野さんは、逃げていった。



 わたしは警察を呼んだ。
 スーツ姿に腕章の人と制服の人が何人かやってきた。状況を説明したが、警察官はわたしの話に納得がいかないのか、たまに不思議そうに目を見開く。なぜ突然そんなことになったのかと訊ねられたが、こちらが知りたい。
 部屋を調べるよと確認され、京野さんの部屋なんだけどと思いながらもうなずくしかなく、一度説明した状況をまた最初から別の人に語った。そのときだ。
 うわあ、という驚きと恐怖が混じったような叫び声がした。
「こ、これ。衣装ケース」
 なんだなんだと、わたしから聞き取りをしていた人まで浮足立つ。
 京野さんと格闘した部屋から、制服の人がその人を呼びにきた。わたしもついていく。押し入れの前で、何人かがしゃがみこんでいる。
「あなたは見ないほうがいいです」
 ひきつった顔をした制服の人が、わたしを止めた。
「なぜですか?」
「……死体が入っているんです。干からびてミイラ化した死体が」

 あとのことは、ネットと週刊誌に教えてもらった。
 わたしは被害者だというのに、警察は詳しい話をしてくれなかったのだ。
 押し入れから見つかった死体は、京野悦子だった。あの部屋の借り主だ。死亡推定時期は、はっきりとはわからないようだ。五年前に夫を亡くしているので、それよりはあとらしい。生きていれば今年、七十五歳だったという。
 ではわたしが京野だと思っていた女性は誰なのか。
 花岡はなおか朋美ともみ、というそうだ。年齢は五十八歳。若いころは、小さな劇団に所属しつつ、会社員をしていた。バブル期の終焉とともに会社が倒産し、劇団もなくなり、結婚はしたものの長くは続かず、その後は派遣やアルバイトで生活をしていた。
 週刊誌の取材に応じた朋美の友人が、最後に彼女に会ったのは三年前だと語った。無職になったばかりで、仕事を探していると言っていたそうだ。その後はスマホだけでつながっていたが、連絡はほぼ途切れていた。住んでいる場所もそういえばもう知らない、都内か周辺の県だろうと、その程度の認識だったという。友人は多くなかったと週刊誌は報じていたが、本当なのか、ほかの人に取材できなかったのかはわからない。
 京野悦子も友人が少なかった。鬼籍に入る人が増えたというだけでなく、夫の死後、生活が変わって、縁が切れていったのだ。
 一般に、夫より妻のほうが、配偶者を亡くしたあと長く生きる。わたし自身セールストークでさんざん口にしてきたし、データ上もそうだ。残された女性はそれまでよりも元気に生きていく。ただし、一般に、データ上では、だ。そうではない女性だっている。悦子は、そうではないほうの女性だった。夫婦仲が良く、なにをするにも夫に頼っていた。夫の死後は意気消沈し、うつ気味だったという証言もある。友人が旅行に誘っても出てこなかったそうだ。そうやって、だんだん縁が切れてしまったという。これも週刊誌の話だが。
 息子はたしかにいた。アメリカ在住だけど。悦子の夫、つまり彼の父親の病気や死にあたって帰国が遅れたことや、遺産の相続などでもめて、その処理が終わってからは音信不通の状態だったという。夫婦の住んでいた家が、夫の遺産の大半だった。相続税が高く、売ってお金に換えるしかなかった。悦子はそのタイミングで団地へと居を移した。地縁が消えたのだ。団地は住人が少なく、悦子もほとんど外出しなかったという。いつから朋美が住み着いていたのかも、わからないようだ。
 とはいえ悦子には、会社勤めだった夫の遺族厚生年金があった。リタイアするまでの給与にも左右されるが、現在、七、八十代の人の厚生年金は、それなりに恵まれた額がもらえる。本人分ならある程度は豊かな暮らしができるし、配偶者が受けとる遺族厚生年金となって減額をされても、配偶者自身の老齢基礎年金と合わせれば生活に困らない。あの紀ノ国屋のエコバッグも、もとは悦子の持ち物だったのだろう。
 一方の朋美は、国民年金の支払いが何度か免除されていたという。所得が少ないと申請すれば、保険料を免除してもらえる制度だ。未納もあった。この三年は、まったく払われていない。
 どういうきっかけでふたりが知りあったかはわかっていない。けれど遺体の状況からみて二年前より以前、朋美の最後の就労が終わった三年前以降、そのどこかで朋美は悦子になりかわった。
 京野、いや朋美は、わたしに訊ねてきた。
 なにが狙いかと。
 自分の年金を狙っているのではないか、わたしが仕事を失うからだねと。
 彼女自身がそうやって悦子のもとに入りこみ、どこかでなりかわり、悦子のふりをして生きてきたからだ。同じことをされると思ったのだ。二年前から三年前というと、朋美は五十五歳あたり。仕事の選択肢の数も少なくなってきていただろう。公的な年金をもらうにはまだ間があるし、派遣やアルバイトだったのなら生活できる額がもらえるとも限らない。保険料免除や未納があったから減額もされる。個人で年金保険をかけているとは思えない。
 だから、悦子の財布に目をつけた。ただの女の財布ではない。潤沢な年金が定期的に入ってくる財布だ。
 朋美が捕まったのは、わたしが襲われてからなんと二週間も経ってからだ。
 劇団員のころに覚えたメイク術を生かし、別人にも見える顔で清掃員のアルバイトまではじめていた。その施設で痴漢騒ぎがあって警察が立ち入り、たまたま気づかれたのだという。捕まらなければ、彼女の名前さえもわからなかった。団地には、朋美自身の身元がわかるものがなにも残されていなかったのだ。当然、写真もない。捜査に使った写真は、わたしから聴き取ったモンタージュと、逃走中に映りこんだドライブレコーダーのものだったとか。
 殺人と死体遺棄の疑い、それが朋美の主たる罪だそうだ。年金の不正取得という詐欺行為や、わたしに対する殺人未遂も加わるはずだ。
 どうりで、とわたしは納得した。それは逃走用の鞄だって準備しておくだろう。わたしを殺すこともためらわない。
 朋美はたくましい。思ったより軽傷だった二の腕がすっかり治ったこともあって、わたしは怒るよりも感心してしまった。

 翌月、フレア生命が、青山平成保険との合併を正式に発表した。同日、わたしの契約は更新しないと通知された。
 新しい仕事をがんばって探そう。今、わたしは四十四歳。朋美とは違う。まだなんとかなる。
 それでも、とわたしは保険をかける。やがてやってくる将来のために。
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