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 あの女の目的は、家に入りこむことなんじゃないか。
 親切を装ってあたしに近づき、あたしに寄生する。たぶん、そうだ。
 まずは敵を知らなくてははじまらない。あたしは行動を起こすことにした。普段とは違う化粧をする。昔の服を引っぱりだした。何年ぶりかで、低いがヒールのある靴を履いた。チャンキーヒールと呼ばれる安定感のある太いヒールなので、久しぶりでも転びはしないだろう。
 野々部が押しつけてきた名刺はまだ持っていた。印字された青山平成保険の住所を確認して出かける。
 このあたりには、昔、勤めていたことがあった。とはいえしばらくぶりだ。街のようすはすっかり変わっていた。知らない店がたくさんあって、角を曲がり損ねてしまう。普段見ている風景との違いに、めまいがしそうだった。
 青山平成保険は大きなビルの数フロアを借りているようだ。昼時とあって多くの人がビルから出てくるが、誰がどこの社員かはわからない。
 目の前のバス停でバスを待つふりをしながら、人波を根気よく眺めていると、聞き覚えのあるかん高い声がした。野々部だ。耳につく声が、今はありがたい。
 野々部は、三人の女と一緒に歩いていた。野々部と同じ年頃がひとり、十ばかり上と、十ばかり下の三人だ。スーツやジャケットなどかっちりした服装に、同じようなネームホルダーを首からかけているところを見ると、同僚のようだ。野々部の声が一番通っている。この時間にみんなが揃うのは珍しい、せっかくだからリッチに食べよう、なにがいいかな、などと話をしている。
 ちょうどいい。同じ店に行って彼女たちの話を盗み聞きしよう。野々部があたしに気づくことはないはずだ。あたしは昔、演劇をしていた。無名の劇団だが、舞台にも立っていた。そのときつちかったメイク術は衰えていない。
 野々部たちはいくつかの店を覗いたあと、外の黒板でメニューをたしかめて、コンクリートビルの一階だがあか煉瓦れんがの壁を模した外観の洋食屋に入っていった。あたしも同じ黒板をちらりと見た。複数書かれたメニューはどれも千円前後、普段の食費から考えれば高いが、なんとかなる範囲だ。野々部たちもそうなのだろう、リッチが千円の時代なのだ。
 野々部たちが案内されたテーブルのそばの、カウンター席が空いていた。しめしめとあたしはほくそ笑む。これなら背中を向けて座ることができる。より安心だ。
「うちの社名変更の噂だけどさ」
 野々部ではない誰かの声がした。
「青山平成保険じゃあ古いもんねえ。もう令和だし」
「そんな理由で社名変更しないでしょ。明治も大正も昭和も、会社名についてるよ」
 あははは、と野々部が笑いながら答えている。
「そういうことじゃなくて、どうやらフレア生命と一緒になるみたい」
「青山平成フレア生命保険? みっつもくっつけるの?」
「銀行であったね。元の三社の名前を並べてつけてるの。今はひとつ減ったけど」
 と野々部。
「違う違う。フレア生命に吸収合併されるらしいって。だから名前はフレア生命だよ。でなきゃ、まったく新しい名前になる」
 えー、と女たちが口々に、沈んだつぶやきを発する。
「吸収合併か、厳しい現実だなあ」
「どうしよう、わたし……」
 野々部が、さらに意気消沈した声で言う。
「どうしたのよ。フレア生命になにか悪い印象でも? 業界大手だよ」
「もうすぐ契約更新なんだよね。吸収合併ってことは、うちの立場が弱いわけでしょ。人が増えるからたぶんリストラがある。更新せずにこの機会に切るのが、一番いいタイミングじゃない。あ、いいっていうのは、会社にとって、ね。わたしにとっては最悪」
「あー、でも野々部さん、がんばってるし」
「そうそう。野々部さんは親切だし、なにごとにも親身になってくれるって評判だよ。上にも伝わってるよ」
「そうはいっても実際の契約数が……、あー、どうしよう」
「決まったわけじゃないから」
 女たちが野々部を慰めている。
 野々部は離婚しているという。子供はいない。これで仕事までなくしたら、寄る辺なき存在になる。新しいパートナーを見つけられたら生きていくのも楽になるが、そう簡単な話ではない。きっと恋人もいないだろう。いれば年寄りに向かって突然、友達になりましょうなどとは言わない。地縁が必要だなんて、なにかにかぶれたような衝動を持ちやしない。
 これはますます問題だ。
 パートナーはなにも、恋人でなくてもかまわないのだ。利用できる人間さえいれば、それでいい。生きるためのお金は、働かなくては得られない。働くためには仕事が必要だ。けれど年金なら、定期的に入ってくる。運良く老人になれたものに。
 やはり野々部は、あたしに寄生するつもりだ。
 ああ、あのとき声をかけなきゃよかった。財布ひとつで、しかも他人の財布で、こんな面倒なことに巻きこまれるなんて。後悔先に立たずだ。
 このまま野々部が、あたしを諦めてくれるならいい。先日きつく言ったから、あたしに寄生するのはやめるかもしれない。別の人間に狙いを変えてくれないだろうか。
 そうでないと、あたしも覚悟を決めないといけない。



 やっぱり安い部屋にしておけばよかった。
 わたしは自分の部屋で、電卓を手に計算を繰り返していた。無収入の状態で何ヵ月持ちこたえられるかのシミュレーションだ。離婚したときの慰謝料を切り崩すしかないが、もらったのは雀の涙だ。今の仕事の契約が終了になるなら、早めに次を見つけなければいけない。けれど契約や派遣で食いつなぐと、結局は更新のタイミングで仕事をなくしてしまう。歳も歳だから、仕事は限られていくだろう。ここは苦しくても腰を据えて、正社員になる道を探さなくては。
 ここのところ暖房を控えているが、その程度では足りない。あとは、と、まだ白い壁を見つめる。築年数は浅く、三階建てのアパートながら出入り口はオートロック付き。防犯面を重視して選んだここは、量販店の安い家具でまにあわせるわたしには贅沢だったのか。
 削れるのは部屋代ぐらいだ。二年前に越してきたから、こちらも契約更新の時期がきている。あの団地に移ろうか。
 二年前に決心していればその分の家賃が浮いていたのに、と思うと悔しいけれど。
 そうとなれば調べなきゃと、不動産屋に連絡をした。団地は空室が多く、いろいろ選べるようだ。間取りは古いけれど、新たに貸し出す部屋のメンテナンスはしっかり行っていると不動産屋は強調する。とんとん拍子に話は進んだ。
「野々部です。今度こちらに引越してくることになりました」
 挨拶の品物を顔の前で掲げ、そう言って京野さんの部屋のインターフォンを鳴らすと、扉は薄く開いた。ドアチェーンがかかっている。
「……引越しだって?」
 はい、とわたしは笑顔を作る。
「またとんでもない口実を考えたものだね。いいかげんにおしよ」
 扉の隙間から、京野さんが睨んでくる。
「口実だなんて。本当に引越してくるんです。借りたのはこの五号棟の部屋なので、荷物の搬入でご迷惑をおかけするかもしれないでしょ。先にご挨拶をしておこうと思って。あの、これお渡ししたいので開けていただいていいですか」
「いらないよ」
「そんなことおっしゃらずに、こちらを」
 と言いながら、持ってきた箱詰めの蕎麦を扉の隙間から差しいれようとしてみる。入らない。扉の向こうで京野さんが、てのひらで押さえていた。わたしは位置をずらして押しこもうとする。
「ああもうっ」
 苛立いらだったような声がして、乱暴に扉が開けられた。
「なにが狙いだ?」
 京野さんは険しい表情をしていた。わたしはよりいっそうの笑顔に見えるよう、口角を上げた。そういえば、帽子をかぶっていない京野さんと会うのははじめてだ。きれいな白髪をしている。
「狙いなんてないですよー。もともとわたし、この団地と今住んでいるところと、どっちにしようかなって悩んでいたんです。防犯の面を考えてあっちにしたんですけど、やっぱり安いところがいいなって。節約したいんです」
「同じ棟にする必要なんてないじゃないか」
「知ってる人がいるほうが安心ですし、安全性も増すじゃないですか。京野さん、これからよろしくお願いします」
 京野さんが、茫然として立ちつくしている。
「……なんで」
「え?」
「あたしはあんたに名前を教えた覚えはないよ」
 ……失敗した。たしかに教わっていない。先日トイレを借りたとき、ダイレクトメールの宛名を見てしまったのだ。でも、それは言っちゃいけない。
「えーっと、不動産屋さんで伺って」
「不動産屋が個人情報を漏らすものか」
「や、でも、ご近所さんはどんな人ですか、って話になって」
「どこの不動産屋だ。なんて担当者だ。文句をつけてくる」
「やだなあ、近くで暮らしていたらわかることじゃないですか。回覧板とかあるだろうし」
 京野さんが鋭い視線を向けてくる。
「まだ引越してないんだね?」
「え、ええ」
 わたしは怯む。京野さんの目つきはかなりきつい。
「じゃあほかの棟にしてくれ。この団地は空室がいっぱいある。好きに選べるはずだ。なにも同じところに住まなくてもいいじゃないか」
「えー、この団地古いから、少しでも安心したかったんですけど。京野さんこそ、なんでそんなにわたしを嫌うんですか」
「嫌いに理由は要らないだろ」
 それはそうだけど、そこまで嫌われることをしただろうか。
「わたし、れ馴れしかったですか? お節介だと言われたことはあります。親切のつもりなんですけど、親切すぎるって」
「親切なんてほしくないんだよ。放っといてくれ」
「そんな淋しいこと言わないでくださいよ」
「あんたはあたしに親切にして、取り入ろうと思ってるんだろ。うちに入りこもうとしているんだ」
「入りこむ? いえそんな、住むのは自分の部屋ですよ」
「狙いはあたしの年金だね。仕事を失うからだね」
 あれ? わたし、契約を切られるかもって話を京野さんにしたっけ? したかもしれないな。いろんなところでぼやいてたから。でも最後に会ったの、トイレを借りたときだよね。あのときはまだ、合併の噂は聞いていなかったような気がする。
 いやいやそれはどうでもいい。そんなことより誤解されている。
「年金を狙うだなんて、そんなつもりは全然ありませんよ」
「嘘をつくんじゃない」
「本当ですって。どこからそんな発想に」
 発想というより、正直、妄想だ。
「あたしはスーパーでちょっと会っただけだよ。なのにしつこくつきまとって。なんの狙いもないなんて、おかしいじゃないか」
「すごく感謝してるんですよ、京野さんには。財布の中に全財産が入ってたんですから。あ、全財産って言ったのは、キャッシュカードがあるからですよ。そりゃ暗証番号を知らなきゃ下ろせないけど、数字四桁でしょ、単純じゃないですか。偶然一致する可能性がなくもないわけで」
「そうやってまたぺらぺらと無駄にしゃべって、煙に巻こうとしてるんだね」
 どうしよう。誤解されたままになるのは嫌だ。でも京野さんは冷静さを失っている。やっぱり認知症じゃないだろうか。認知症のしゆうとめからお金を取ったって言われるんです、なんて愚痴ってきた契約者さんもいた。そっくりだ。
 早めに息子さんを紹介してもらおう。契約を取りたいのはもちろんだけど、単純に、心配だ。
 とはいえ、今日のところは退散したほうがいい。とりあえず方便を使おう。
「京野さん、わたしこのあと予定があるので失礼しますね。こちらは引越し挨拶です」
 持ってきた箱詰めの蕎麦を、改めて差しだす。
「だから引越しはほかの棟にしてくれと」
 京野さんは受けとりを拒む。
「わかりました。不動産屋さんと相談します。でもこれは受けとってください。お蕎麦です。生麺なので、賞味期限が数日なんですよ。すんごく美味しいとこのなので」
「要らないって言ったろ」
「引越しのご挨拶は必要ですよー。日本の文化じゃないですか」
 わたしは紙の箱を押しやった。京野さんも負けじと押しかえしてくる。わたしはさらに押そうとして――
 箱が上に飛んだ。
 京野さんの腰が少し曲がっているせいで、箱は彼女の額のあたりをかすめて、空中を舞った。
「あっ」
 わたしは慌てて手を伸ばす。そのはずみで、京野さんの髪をつかんでしまった。
 一秒もないはずなのに、スローモーションのように感じる。わたしの手には、京野さんの頭。違う。白髪のウィッグだ。そして箱詰めの蕎麦はコンクリート敷きの床に落ちた。
 なにが起こったのかわからないまま、京野さんの顔を見た。正確には頭を。
 京野さんの髪は黒かった。白髪交じりだが、いわゆるグレイヘアーと呼ばれる状態より、黒のほうが勝っている。その髪の下、京野さんは青白い顔をして立ちすくんでいた。

 

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