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 数日後の夕方、買い物から戻り、集合郵便受けを覗いてから階段を上っていたところだった。扉のそばにパンプスを履いた足が見えたので不審に思ったら、あの女だった。
「こんにちは、野々部です」
「なんで」
 そう訊ねると、野々部は笑いながら小さな紙の手提げ袋を突きだしてきた。
「お礼です。なにがお好きかわからなかったので、わたしの好きなものにしました。豆大福。ここのお店、すごく美味しいんですよ」
 そういう意味ではない。なぜこの部屋がわかったのかと訊いたつもりだ。とはいえ答えは聞かずともわかった。このあいだ、野々部はあたしが部屋に入るまで見ていたのだろう。
 いや、見張っていたのだ。
 どうして。
 なんの狙いで。
「必要ないって言っただろ」
「それでは気が済まないんです。実はあのときお金を下ろしたばかりで、財布にけっこう入っていたんですよ。……あ、謝礼は要らないって言われてからこれ告白するの、ずるいですね。すみません」
 そんなことはどうでもいい。
「わかったよ。もらっておく。どうもありがとう。それじゃあね」
 要る要らないと、ごたごた話を続けるのは面倒だった。冷たい風も吹いている。さっさと帰ってもらおうと、そんな気持ちで受けとった。だいたいなんでこんなにしつこいんだ。気味が悪い。
 鍵を取りだしても、野々部は帰ろうとしない。
「まだなにか?」
「おひとりぐらしですか?」
「あんたになにか関係あるかい?」
「ここの団地、人が少ないじゃないですか。いざというときに頼れる方はいらっしゃるのかなと思って」
「心配してもらわなくてもだいじょうぶだよ。健康には自信がある」
 それ、と野々部が、人さし指を立てた。
「過信は禁物ですよ。わたし、仕事柄いろんな人とお会いするんですが、突然死って本当に多いんですよ。これから寒くなるでしょ、ますます増えます。朝、布団から出てすぐのトイレ、お部屋と脱衣所とお風呂、どれも温度差があるから要注意です」
「わかってるよ」
「このあいだ、不意のお電話がありました。契約者さんのご遺族でした。わたしの名刺があったけど、保険証券は見当たらない。息子は保険に入っていたのかって。まだ四十代、働き盛りだったんですよ。なのに急に亡くなったんだとか。独身でマンションにひとりぐらしだったから、地方に住むご両親が飛んできたそうです。逆縁はつらいですね。慰めているうちにわたしまで悲しくなってきて、人生って突然終わるんだなって、泣きそうになっちゃいました。最終的には保険証券も見つかって、手続きもできたんですけど」
「あんた、セールスに来たのかい?」
 野々部を睨む。
「そういうつもりでは。ちゃんとお礼に伺いたかったし、親切には親切で報いるべきだと思いました」
「もうじゅうぶんだから。それに保険にも入らない。七十を過ぎてるんだよ」
「だいじょうぶですよ。今は八十歳でも入れる保険があります。うちの青山平成保険でも扱ってますよ。掛け捨てじゃありません」
「やっぱりセールスじゃないか。入らないよ」
 目的がわかって、少しほっとする。保険外交員には、どれだけの数の契約を取らなくてはいけないというノルマがあるのだろう。それにしても八十歳でも入れる保険だなんて、ばかにされたものだ。よほど金に余裕のある年寄りからむしり取りたいとみえる。
「話の流れで紹介しただけですよー。本当に、なにかお役に立ちたくて」
「必要ないって言ってるだろ。あんた自分で、しつこいと思わないのかい」
 野々部が、しょげた顔になる。
「実はわたし、二年前に離婚したんですよね」
「はあ?」
「浮気されちゃったんですよ。でもって相手の女が、今、元の夫と一緒に暮らしてるんですよね。それも以前わたしたちが住んでいた家でですよ。ひどいと思いません?」
 たしかにひどいが、だからといってなぜ、いきなりそんな身の上話をはじめるのだ。あたしにアドバイスなど求められても困る。
「近くには住みたくないでしょ。誰だってそう思いますよね。だから心機一転、この街に引越してきたんです。でも地縁っていうんですか、そういうのがないんですよね。子供がいないから、そっちのつながりもないし。そこにきて契約者さんの突然死でしょ。わたしも四十代、今、四十四歳なんですけど、他人事とは思えなくなっちゃって。人の縁を大切にしたいと考えるようになりました。この地域の友達を増やしていきたいんです」
 じっとりとした目で、野々部が見てくる。
 その標的があたしということなのか。冗談じゃない。
「あたしは友達など増やすつもりはないね。誰かほかを当たってくれ」
「そんなこと言わないでくださいよ。頼りになりますよ、わたし。こう見えて力持ちだし、配線関係なんかもひととおりできます。そうそう、そこもポイントなんです。わたしが頼るほうになっちゃいけないと思うんです。寄りかかっちゃうから。人に親切にしていたら、巡り巡って親切が返ってくるんです。なんか、ことわざにありましたよね。情けは人のためならず、でしたっけ。あれは、人のためにならないって意味じゃないんですよね。他人じゃなく、結局は自分のためになるっていう――」
 やめなさいというつもりで、あたしは聞こえよがしの溜息をついた。
「ぺらぺらとよくしゃべるね、あんたは」
「すみません。よく言われます」
「あたしはそういうの、苦手なんだよ。ほどこしも受けたくない」
「ほどこしじゃないですよ。それに人生の先輩として、多少はわたしも頼りますし」
「人生の先輩だって?」
「はい。わたしこの先、働いて、自分の食い扶持ぶちをまかなって、運が良ければ年老いていくと思うんです。おばさんは未来のわたしの姿でしょ」
 運が良ければ年老いていく。
 それはあたし自身も思っていたことだ。人生をまっとうできないものはいっぱいいる。老人になるまで生きているのは、幸運なことなのだ。
 この女を、近づけちゃいけない。
「いざというときに頼りになる人はいる。あんたの手は必要ない」
「どなたですか? おひとりぐらし、ですよね」
 あらかじめ洗濯物を見ていたのか、スーパーで購入した品物から類推したのか。たぶんそのあたりだろう。ここで嘘をついても無駄とみた。
「一緒に住んじゃいないが、息子がいるよ」
 アメリカに行ったきり、音信不通。でもそんなことまで知らせなくてもいい。息子がいる、は、夫がいる、という嘘より効果がある。老人夫婦の世帯だなんて言おうものなら、この女は親切ごかしにますます距離を詰めてきそうだ。
「そうなんですか。安心しました」
「だからもうお帰り」
「はい。でも友達にはなりましょうよ」
 何度、必要ないと言ったらわかってくれるのだろう。この女、真の目的はなんなんだ。



 冷えてきた。
 団地の中階段は、「中」と称していても野ざらしだ。二枚の玄関扉が向かいあう踊り場の床もコンクリート敷きで、足元から寒さが伝わってくる。そういえば朝、ストッキングにするかタイツにするか迷ったのだった。タイツにしておけばよかった。夕方になって風も冷たさを増したし。
 おばあさんがスーパーに行くのは、だいたいこの時間だろうとあたりをつけた。玄関のそばで待っていたら、ちょうど帰ってきた。そこまではよかったのだけど、どうしてこうも頑固なんだろう。将来への不安を覚えない人に営業するのは難しい。このおばあさん、あまりのんきそうには見えないのに。
 とはいえ、息子がいることはわかった。おばあさんが無理でも、そちらに営業をかければいい。七十を過ぎているというおばあさんの年齢から見て、息子はたぶん働き盛り、保険もひとつは入っているだろう。そこからの乗り換えや追加を図るのだ。結婚はしているのだろうか。家族がいるなら提案できる商品が増える。そのためにはまず、おばあさんと仲良くならなければ。
 そう思って、友達にはなりましょうよ、と笑顔で頼んだら、険しい表情になった。
「あんた、それ以上しつこいとストーカーだよ」
「いやだ、ストーカーってそういうものじゃないですよ。昔だったらなんて言うんだろう、つきまとい? どこまでもうしろをついてきたり、家を見張っていたり、行く先々に現れる人のことですよ」
「似たようなことやってるじゃないか。このあいだはスーパーの帰りにここまでついてきて、そのまま見張っていたんだろ。今日は今日で、突然現れた」
「そんなあ。このあいだはお礼が言いたかっただけ、今日はお礼の品をお渡ししたかっただけです。見張ってなんていませんよ」
「ともかく帰ってくれ。これももういいよ。毒でも入っていたら怖い」
 おばあさんが、豆大福の入った手提げ袋を押しつけてくる。
「やあだ。入ってるわけないじゃないですか。なんだったら一緒に食べましょう。それなら安心でしょ」
「そんなことを言って家にあがりこむ気だね。そうはさせないよ。帰りなさい」
「わかりました。帰ります。でもそれは召しあがってください。本当に美味しいんですよ」
「いらないよ。豆大福は嫌いなんだ」
 このあいだ、好き嫌いはないって言ってたくせに。
 なんて言うと余計に怒らせてしまうので、手提げ袋を受けとった。おばあさんは扉の前で立ったままだ。
「中に入らないんですか? 寒いでしょ。今日、風が冷たいですよね。わたし、タイツ穿かなかったの、失敗だったって思ってるところです」
「あんたが帰るのを待っているんだ。扉を開けたとたん、うしろから押し入ってくるかもしれないだろ」
 さすがに噴きだしてしまった。
「強盗や痴漢じゃあるまいし。犯罪じゃないですか。それに女同士ですよ。ああ、女同士の恋愛もあるけど、わたしにそういう気持ちはないです」
「あたしもないよ。けどあんたがなにものか、わかったもんじゃない」
 おばあさんは怖い顔をしたままだ。仕方がない。退散しよう。
「それじゃあ失礼します。……あの、本当に召しあがらないんですか」
「いらない」
 わかりましたと頭を下げ、わたしは階段を下りていく。……あれ、痛い。おなかが痛い。冷えたせいだ。しかも下腹に音が鳴って……
 わたしは一階分だけ下りて、下の階の扉の前でうずくまった。でもそうしていたところで、痛みは去らない。左右の扉を順に眺めた。表札は出ていない。出していないだけかもしれない。おばあさんの部屋も出ていなかった。人が住んでいるのかいないのか、インターフォンを鳴らさないとわからない。とはいえ、どの扉を叩けば開く確率が高くなるのかといえば。
 わたしは階段を上った。おばあさんの部屋のインターフォンに手を伸ばす。
「あんた、いいかげんにしなさい。本当にストーカーだね」
 扉の向こうから声がする。
「違うんです、おなかが。トイレを貸してください」
「今度はトイレ作戦かい」
「本当ですって。お願い。見えてますよね、扉にドアスコープありますもんね。わたしの顔、わかりますか。苦しんでますよね」
「ほかを当たりなさい」
「お願いです。誰も見ず知らずの人にトイレなんて貸さないですよ」
「あたしだって見ず知らずだよ」
「お願い……」
 まったく、という声がしてレバーハンドルが動いた。扉がきしみながら開く。
 わたしは腰をかがめて中へと入る。怒った顔のおばあさんに導かれてトイレを借りた。水を流しおえてほっと息をつく。
「ありがとうござ――」
「さあ帰って」
 トイレから出るとすぐ、おばあさんが背中を押してきた。
「ご迷惑をおかけしました。でも、どうしてそんなにかたくなに――」
「人間嫌いなんだよ。放っておいてくれ」
 おばあさんの力は思ったより強く、わたしは瞬く間に外へと押しだされた。おばあさん――京野きようの悦子えつこさん。玄関の下駄箱の上に置かれたダイレクトメールが見えてしまった。
 わたしはそこで気がついた。
 京野さん、もしかしたら認知症の初期症状が出ているのかもしれない。認知症は怒りっぽくなると聞くし。息子さんはそのことに気づいているだろうか。ちゃんと治療しているだろうか。