「あんたその財布、どうするつもりだい」
 思いのほか大きな声が出てしまい、自分で自分に驚く。
 そのうえ、手まで出ていた。男の腕が枯れ枝のようだったせいもある。簡単につかめてしまったのだ。
 夕方のうちでも早い時間だったためか、スーパーマーケットは空いていた。駐車場付きの大きなスーパーが少し行ったところにあるので、古くて小規模なこの店には徒歩と自転車の客しか来ない。乾物かんぶつの棚と調味料の棚が向かいあう通路にも、男と被害者の女、そしてあたししかいなかった。
「あっ、わたしの財布!」
 かがみこみながら商品を見ていたジャケット姿の女が素早く振りかえり、明るい黄色の長財布をもぎとる。
「盗ったの? 盗ったのね? 盗ったんでしょう!」
「いや、あ」
「この泥棒! 中は開けたの?」
 四十代ほどの女は早口でまくしたて、男の反論を許さない。色を失った男は七十歳前後、くすんだ肌に落ちくぼんだ目をしていた。
「ひ、……拾った」
「嘘。落ちたら音がするはず。泥棒! 泥棒です! 誰かぁ!」
 女の大声すぎる大声にあたしまでひるみ、つかんでいた力が緩んでしまった。とたん、男が腕を強く引く。あたしはよろけてたたらを踏んだ。踏ん張りきれると思ったが、結局しりもちをついた。
「くそっ、ばばあ。おまえのせいだ」
 捨て台詞を残し、男が逃げた。あんなじじいにばばあ呼ばわりされたくはない。
「おばあさん、だいじょうぶですか」
 女が手を差しだしてきたが、棚板をつかんで立ちあがる。
 店の出入り口あたりで怒声が聞こえたと思ったら、どうしましたと今ごろになって、店員が足早に寄ってくる。
「財布を盗まれたんです。このおばあさんが声をかけてくれて取り戻したんだけど、犯人には逃げられてしまって。紺色のジャンパーを着た七十代ぐらいの男でした。走って追いかければ間にあうと思います」
 女がぽんぽんと説明する。
「それで財布は無事なんですね」
「待って、中身を…………ある。無事です。ねえ追いかけてくださいよ」
 店員の確認に、女が出入り口を指さしながら答える。その方向から、別の店員が息荒くやってきた。
「あ、店長いた。すみません、逃げられました。自転車で来ていたようです」
 追いかけてはいたようだ。それはそうかもしれない。店から走って逃げる客などいれば、不審に思うのが普通だ。
「そこに置かれているカゴは、おふたり、どちらかのものですか?」
 もやしとにんじん、割引シールの貼られた塩鮭の入った足元の買い物カゴを見て、最初の店員――店長が訊ねてくる。女とあたしの両方が首を横に振った。
掏摸すりのものだよ。その人の背後に近寄ったと思ったら、そっとカゴを床に置いたんだ」
 あたしはそう言った。
 じじい、カゴを持ったままでは、動きづらかったとみえる。
 掏摸とは言ったが、本物の掏摸なら、きっとあたしなんかの目に留まりはしない。斜めがけにされて背中側に回っていた女の鞄は口が開いていて、目立つ色の財布が丸見えだった。これは危なそうだと思っていたら、あのじじいが手を伸ばしたのだ。やたらびくびくして、出来心でつい、といったようすだった。
「被害はない、ということでいいんですかね。あの男、荷物は持っていないようでした」
 追いかけていった店員が、店長に向けて確認するように訊ねる。
 なに言ってるんですか、と女が目をいた。
「わたしは財布を盗られそうになったんですよ。そのおばあさんなんて、転ばされたんだから。やだ、わたしったら自分のことばかり。おばあさん、お怪我は? どこか痛いところはないですか」
「怪我はしてないよ」
「レントゲンを撮ってみたら骨折してるってこともありますよ。『いつの間にか骨折』って言葉、聞いたことないですか? 念のため病院に行ったほうがいいと思います。ご家族は近くにいらっしゃいますか。なんならわたし、お連れしますよ」
 女がかん高い声で騒ぐ。正直、面倒なことになったと思った。
「どこも痛くないよ。それじゃああたしは、買い物に戻るから」
「でも転ばされたんですよ? 傷害罪じゃないですか!」
 怪我もしていないのに傷害罪になんてなるんだろうか。
 やっかいごとはごめんだ。あたしは軽く頭を下げて、そのまま背を向けた。
 待ってください、とさらに女の声がしたと思ったら、前に回りこんできた。
「ちゃんとお礼を言っていませんでした。ありがとうございます。これ、わたしの名刺です。なにかあったらご連絡ください」
 突き返すのもどうかと思い、そのまま受けとる。
 まだなにか言おうとしている女のそばを、先ほどの店長が早足ですり抜けていった。あっ、と女がつぶやいて、店長を追う。警察を、とか、ほかの被害が、などといった言葉が聞こえる。なにかとおおげさな女だ。
 やれやれと思いながら、手ばやく残りの買い物を済ませ、家路についた。晩秋ともなれば日が落ちるのも早い。学校帰りの自転車とすれ違った。この道は自転車の往来が激しい。暗い道でひっかけられるなんてことがあったら、大変だ。
 スーパーからあたしの住む団地へは徒歩十分ほどだ。低層の古い団地だが、棟はいくつかあるので、部屋まではもう少し時間がかかる。
 コンクリートのヒビが目立つ階段を上り、きしむ扉を解錠して中に入り、内鍵とドアチェーンをかけて、エコバッグを床に置く。ああ疲れたと、あたしは腰を伸ばした。
 帽子を取り、下駄箱の上に置いた鏡を覗いて、髪を整える。
 老いた顔がこちらを見ていた。いつも首元に巻いているスカーフは、年寄りの必須アイテムだ。しわやしみ、たるみが年齢を表すデコルテを、うまく隠すことができる。自分がこんな恰好をするようになるなんて、二十歳のころは想像さえしなかった。
 下駄箱の反対側はすぐ台所になっている。落ち着かないつくりだが、せめてもとマメに掃除をしているので、清潔は保っている。いまどきの間取りに改装をする団地もあると聞くが、ここは古いまま。もっと古くなれば、建て替えの話が出るだろうか。高層の建物にすれば住む人も増えるし、それを期待する人もいるだろう。けれどあたしとしては、困る。世の中、自由に動ける人ばかりではない。
 食材をしまい、エコバッグを畳もうとしたとき、名刺の存在を思いだした。
 保険会社のものだった。営業二課という部署名だけ入り、肩書きなしで、野々部ののべめぐみという名前。保険外交員だろう。
 きゃんきゃんと子犬のようにうるさい女だった。そういえば顔立ちも、小さくて丸い目と上を向いた鼻が、マルチーズやポメラニアンといった小型犬に似ている。よく考えれば、あの女の財布がられたところで、あたしにかかわりなどなかったのだ。鞄から財布が抜きとられる瞬間を目の前で見て、驚いてつい反応してしまったが、今ではあの男のほうに同情する気持ちが湧く。もやしは安い野菜の代表格で、にんじんは一袋三本入りの目玉品だった。そのうえ塩鮭には割引のシールが貼ってあった。きっと生活に困っていたのだろう。あたしも同じものを買っている。



 次の約束まで間があった。わたしはいつものスーパーに向かうことにする。必要なものだけさっと買って、いったんアパートに戻ろう。普段は仕事が終わってから買い物に行くので、割引品はあっても野菜が売り切れていることがしばしばある。以前これくらいの時間に利用したときは、割引品と野菜の両方が残っていた。
 そのかわりトラブルに巻きこまれたんだけど、と思いながら歩いていると、見覚えのあるベージュの帽子の女性とすれ違った。薄手のコートにだぼっとしたパンツ姿。両肩にエコバッグをかけ、少し腰を曲げて歩いている。
 あのおばあさんだ。
 買い物を優先すべきか恩義を果たすべきか、天秤はすぐに傾いた。回れ右だ。人との縁を大切にすることが仕事につながると、会社でさんざん教えこまれていた。
 それにあれは、紀ノ国屋のエコバッグだ。Kのロゴマークをローマ字で書かれた店名で囲む特徴的なデザインで、高級スーパーマーケットとあっていい値段で売られている。ちょっとしたステイタスだ。なにかのオマケでもらったわたしのエコバッグとはわけが違う。
 今月はまだ一件も契約が取れていない。ここから縁を作るのだと、わたしはすがる気持ちで追いかけた。
「野々部です。覚えてますか」
 駆け寄って隣に並ぶと、おばあさんが驚いたようすで距離を取る。
「先日はありがとうございました。おばあ……、いえ、その後、お身体の具合はだいじょうぶでしたか」
 帽子の下が白髪だったので、先日はついおばあさんと呼んでしまったが、あれは失礼だった。いくらおばあさんでも、女性にかけてはいけない言葉だ。心なしかよそよそしかったのは、そのせいかもしれない。
「なんともありませんよ。ご心配なく」
 ぼそぼそと、おばあさんが答える。
「よかったです。ねえ、聞いてくださいよ。あれから大変だったんですから。あの店長、警察に連絡するのは面倒だと思ったみたいで、全然取りあってくれなかったんですよ。たしかにわたしはお金を盗られずに済みました。けど今までも同じような被害に遭った人がいるかもしれないじゃないですか。だから防犯カメラを警察に提出したほうがいいですよ、って言ったんです。なのにわたしたちがいたあの通路は撮っていないから無理だって突っぱねられちゃって。でも出入り口には確実にカメラがありま――」
「あのね」
 おばあさんがストップをかけるように口を挟む。
 早口になっていただろうか。あれもこれも説明しなきゃと思うとついそうなる、悪い癖だ。
「なんでしょうか」
「あたし、急いでいるんだよ。のんびり歩いているように見えるかもしれないけど、ただ、足が遅いだけでね。このあいだは目の前で財布が抜きとられたから、びっくりして声をかけたけど、そのあとなにがあったかなんて、教えてくれなくていいから」
 おばあさんは、前を向いたまま話す。
「でも、突き飛ばされたじゃないですか。あれはひどいですよ。あ、そういえばわたし、あのとき傷害罪って言ったけど、調べたら違ってました。ああいったケースは暴行罪みたいです。怪我をさせたら傷害罪で、怪我をさせなくても暴力的な行為をした場合は暴行罪になるそうです」
「年寄りに難しい話をされてもわからないよ。……あたしはこっちだから。はい、ごめんください」
 おばあさんが四つ角の手前で、右のほうを指さす。わたしもこちらなんです、とすかさず返した。
「お会いできてよかったです。きちんとお礼をしていないのが、ずっと気になってたんです」
「わざわざ追いかけてきて、ありがとうって言ったじゃないの」
「お礼って、そういう意味じゃありませんよ。わたし、財布の中に、運転免許証も健康保険証も入れてたんです。あとキャッシュカードに、クレジットカードも。盗まれたら大変なものばかりです。それを救ってくださったんですから。知ってます? 拾得物には五パーセントから二〇パーセントの謝礼が発生するんですって。だからわたし、お礼をしないといけないって思ってて」
 おばあさんが小さな溜息をつく。
「必要ないよ。それに拾ったわけじゃないだろ。じゃあね」
「待ってください。せめてお荷物を持ちます」
 おばあさんが両方の肩に下げていたエコバッグは、持ち手が薄手のコートにくいこんでいた。ペットボトルの醤油が顔を出している。
「重いでしょ、一リットルのお醤油。今日安かったんですか?」
 そう言いながらエコバッグの持ち手に右手を伸ばすと、おばあさんが迷惑そうな表情になった。もしかしたら財布でも入れているのかもしれない。これはいけない。おばあさんから見えるように掲げ持つ。
「安かったよ。もういいから、あんたも買いに行けばいい」
「わたしお醤油、買ったばかりなんですよ。わー、残念」
「買ったばかりなのに、どうして訊くんだい」
「こんなにお荷物があるのに重い醤油を買ったってことは、安かったのかなって。わたしもつい、安さに惹かれてあれもこれもってカゴに入れちゃうんですよね。それで帰り道にひいひい言いながら運ぶの。カゴに入れてるときに重さぐらいわかるのに、なんでだろ。あ、自転車。わたしも自転車があるといいんですけどねー」
 抜き去っていく自転車を見ながら、あはは、と笑ったら、おばあさんは呆れたような表情でこちらを見てきた。一方的にしゃべりすぎただろうか。営業の基本は相手の話を聞くこと。なにげない会話のなかから相手のニーズを探り、最適な商品を提案する。でもどんな話題に食いついてくれるかわからないから、あれこれ話して取っ掛かりを探るしかない。
「……あのー、お名前を伺ってもいいですか?」
「どうして」
「だって話しづらいじゃないですか」
「おばあさんでもおばさんでも、好きに呼べばいい」
 つっけんどんな言い方に、やっぱりこのあいだの呼び方には気を悪くしていたんだと思った。でも面と向かって謝ると傷を深めてしまうから、なにもなかったふりをする。
「じゃあ、おばさんで。おばさんの好きな食べ物はなんですか」
「どうしてそんなことを訊くの」
「雑談ですよ。黙ったまま並んで歩くの、変じゃないですか」
「別に並んで歩かなくてもいいだろ。さあ、ここでさよならだ」
 おばあさんがエコバッグへと手を伸ばしてくる。どうして突然、と思ったが、団地の出入り口だった。昭和の時代に建てられた団地で、住む人もだいぶ減っていると聞く。その分家賃が安いから、わたしも引越し先の候補にしたけれど、使い勝手が悪そうだし、住人が少ないと防犯にも不安が残るし、とマイナスの面が気になってやめた。たしかエレベータもついていなかったんじゃないだろうか。
 紀ノ国屋のエコバッグとは落差があるなと思ったが、バッグは少しくたびれていたので、昔は店を利用していたといったところだろうか。たとえば夫を亡くしてひとりぐらしで、コンパクトに住もうと思うなら集合住宅のほうが楽だ。
「お近くまで行きますよ」
「必要ないよ」
「ここに住んでいる人に用があるんです」
 わたしは嘘をついた。嘘というより方便だ。だからこちらの方向に歩いていたんですよ、とつけくわえる。
「……ふうん。それならまあいいけれど。何号棟に?」
 そこまでは考えていなかった。どう答えればいいだろう。
「えーっと、約束してたのは。……待ってくださいね」
 考える時間をかせごうと、スマホを取りだすことにした。エコバッグを持っていないほうの手を鞄に突っこむ。先日の反省を受け、留め具がついた肩かけタイプのものに替えていた。左肩にかけた鞄を左手で探るのは難しい。肘を上げた姿勢でくねくねとしてしまう。
「いいよ、そこまでしなくても。別に知りたいわけじゃない。あんたの言う雑談だ」
「はい。あ、それでおばさんの好きな食べ物はなんですか」
 わたしはほっとしながら訊ねる。
「またそれかい。なんでも食べるよ。好き嫌いはない」
「じゃあお菓子に限定して。和? 洋?」
「着いた。本当にここでいい」
 おばあさんが五号棟の前で立ちどまった。再び手を出してくる。
「重いですよ。お部屋までお届けしますよ」
「承知の上で買ってきたんだよ。年寄り扱いしないでくれ。……年寄りには違いないがね」
「すみません」
 わたしは頭を下げる。ひったくるようにエコバッグを持っていかれた。
 それじゃあ、ともう一度頭を下げたが、おばあさんは建物の前に立ったままだ。わたしの方便を怪しんでいるのだろうか。仕方がないので、そのまま団地の奥へと進む。
 しばらくして振り返ると、おばあさんは五号棟の右側の階段を上っていた。建物は、ふたつの部屋の間に中階段を持ち、階段のある面にベランダを有している。四階建てでその階段がふたつあるので、一棟十六室となる計算だ。
 階段からの視線を感じた。こちらから階段のようすが見えるということは、向こうからも見えるということだ。わたしは慌てて向き直り、さらに歩を進める。
 もう室内に入っただろうと思ったころに振り向くと、三階の、右から二番目の部屋に灯りがついた。

 

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