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3(承前)
「もう、止めて!」
 怒鳴った娘がゆらりと立ち上がった。肩を落とした猫背で廊下の奥へと歩いて行く。菊ちゃんの胸部圧迫のカウントが止んだ玄関には、外からの大雨が冠水した水に叩き付ける雨音だけが響いていた。
「あの」
 白髪のショートヘアの女性が恐る恐る口を開く。
「車の下から出したときにすでに息はしていませんでした。脈も手首と首で何度も確認しましたが、どちらもありませんでした。私では力が足りないかもしれないので、佐々木ささきさん、隣の隣のご主人に頼んで心臓マッサージをして貰ったのですけれど、皆さんが到着するまでの三分以上続けても息は戻らなくて」
 しっかりした話し方と内容に、その場の全員の目が女性に集まる。
「ですから芙巳子ふみこさんは、皆さんが到着される前にはもうお亡くなりになっていました」
 女性ははっきりと断言した。
 ──そこまで言える? 
 さすがに言い過ぎだろうと思ったそのとき、「私は隣の石井香苗いしいかなえと申します。退職しましたが医師でした」と続いた。
 元医師と聞いて話の信憑性がぐっと上がった。
「詳しく時間をお聞かせ願えますか?」
 菊ちゃんが聞き取りを始めようとしたそのとき、バシャバシャと水の撥ねる音が聞こえた。
「スクープ、持ってきました!」
 五代が畳まれたスクープを脇に抱えて現れた。傷病者が心肺蘇生をされず、ただ横たわっているのを見て、その場に呆然と立ち尽くす。
 気配を感じて振り向くと、廊下の奥から娘が戻ってきた。無言のまま、母親の近くにぺたりと座り、「これ」とカードを菊ちゃんに差し出した。国民健康保険証だ。
「母は1に丸をつけています」
 裏面の臓器提供の意思表示だ。1ってなんだったっけ? 自分でも丸をつけた記憶があるが、内容が思い出せない。
「心肺蘇生はこれ以上望まないということですか?」
 菊ちゃんが静かに訊ねる。
「望むも望まないも、もう死んでるじゃない」
 ぼそりと返された娘の答えに、息が止まった。母親を見つめながら娘が続ける。
「なんでもっと早く来てくれなかったのよ」
 言葉が胸を貫いた。空気を吐くことも吸うことも出来ない。
「何してたの?」
 娘が顔を上げた。焦点の合っていない目は瞳孔が開いていて真っ黒に見える。
「どうして助けてくれなかったの?」
 そのままゆっくりとその場にいる俺たち消防士を見回す。娘が俺を見たそのとき、目の瞳孔がきゅっと小さくなった。完全に俺と目が合う。次の瞬間、ぼんやりとしていた娘の表情が変わった。眉をひそめ噛みしめた唇をわなわなと震わせている。娘が口を開く。
「答えなさいよ、何してたのよ!」
 俺には答えることが出来なかった。その場の誰一人もだ。
「どうしてもっと早く来なかったのよ! なんで助けてくれなかったのよ!」
 娘が詰り続ける。哀しさからの怒りなのは分かっていた。その言葉が俺の全身に突き刺さる。
八重子やえこさん」
 とりなそうと肩に手を掛けて石井さんが娘の名を呼ぶ。邪険に肩を振り、その手を払う。石井さんは諦めずにまた肩に手を乗せて「八重子さん」と名を呼んだ。
 石井さんへ八重子さんが顔を向ける。怒鳴りつけようと口を開きかけて止まった。強く閉じた口元がわなわなと震えている。見開いた目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。八重子さんは言葉もなく、身を折って石井さんの膝の上に崩れた。石井さんも無言で背に手を当ててさすり始める。
 バシャバシャという水音に続けて「本田救急隊です」と、男の声が聞こえる。本田救急隊の平井ひらい隊長だ。うしろには森もいる。
「心肺蘇生は望まないそうです」
 菊ちゃんが平井隊長に伝えた。
「あとはこちらが」
 菊ちゃんが立ち上がって、「現着時にはすでにこの状態で──」と、状況の引き継ぎを始める。ちょんと肩を突かれた。住田隊長だ。外へ出ようとしている。帰所だ。
「行くぞ」
 小さく五代に声を掛けた。これ以上、俺たち上平井特消隊がここにいたところで何の役にも立たない。だが俺たちは今、出場中だ。通信指令センターは俺たちに新しい出場指令は出せない。それで救える命も救えない可能性があるなんて、今は考えたくない。
 呆然としていた五代が弾かれたように俺を見た。慌ててスクープを持ったまま、ついてこようとする。それでは意味が無い。
「スクープ」とだけ言って、階段を飛び越える。ばしゃんと大きな水しぶきが上がった。そのまま水をかき分けるようにぐいぐいと大股で前に進む。
 ──なんでもっと早く来てくれなかったのよ。どうして助けてくれなかったの?
 頭の中で八重子さんの声が繰り返されている。
 現着するまでの自分の行動を思い返す。どこかで時間をロスしていなかっただろうか? 何かもっと出来たのではないだろうか?
 冠水した水は相変わらず重くまとわりついて、足の進みを阻み続ける。
 ──水さえ出ていなかったら。
 水が出ていなかったら、もっと早く現着出来た。どころか、そもそもこんなことは起きなかった。というより、そもそも何がどうしてこんなことになった? 
 考えたところで仕方のないことが頭の中をぐるぐる回り続ける。二つ目の角を曲がった。水槽付ポンプ車が見える。足下に注意しながら、水をかき分けて進む。頭の中ではまだ八重子さんの声がこだましている。
 言い表せない感情が頭と身体の中で渦巻いている。叫び出しそうなのをぐっと堪えて前に進むことに集中する。腕を大きく振ってがむしゃらに足を動かす。無駄に暴れているだけかもしれないが、そうせずにはいられない。どうにかポンプ車まで辿り着いた。息が上がっている。深呼吸して息を落ち着かせているうちに住田隊長がやってきた。途中で追い抜いたことにすら、気づいていなかった。
 井上さん、五代と次々に戻ってきた。最後の菊ちゃんを待つ車内では、誰一人何も言わない。やがて後部座席のドアが開いた。車内に乗り込んだ菊ちゃんは「お待たせしました」とだけ言う。何か返さなくてはと思うが言葉が出て来ない。
「帰ろうか」
 住田隊長の声に、井上さんは無言でAVMの再出場可能のボタンを押し、アクセルを踏み込んだ。

 

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