葛飾区の本田消防署、上平井出張所に異動になったばかりの若手消防士・大山雄大。大型の台風が関東に接近する中、所内は、救助を要請する警報音が鳴りっぱなしだった。大山が所属する第二隊は、冠水した駐車場で車の下に入り込んだ年輩の女性の救助に駆けつけるが……

 


 通行止めで平和橋通りに車はいない。井上さんは一気にアクセルを踏み込んだ。冠水した駐車場の車の下に人が入って出られなくなっている一刻を争う現場だ。あっという間に我が上平井消防出張所が見えてきた。
「ウチが転戦ってことは、出払っているってことですよね。出場要請がそれだけ出ているってことですか?」
「一番近いからだろう」
 通報を受けた通信指令センターの通信員は、要請に応じて最適な隊を出場させる。人命救助の場合は本来、必要な資材を積んだ消防車と特化した訓練を重ねた隊員で構成された特別救助隊を出場させる。だが一刻を争う場合、一番現場の近くにいる隊をまず出場させる。現場に一番近いのは上平井消防出張所だ。所に待機していたところで、やはり出場指令は掛かっただろう。
 出張所を横目に、ポンプ車は住田隊長のアナウンスと共に交差点を左折する。
「今年に入って三回目か」
 菊ちゃんが苦虫を噛み潰したような顔で言う。
 荒川、中川、新中川を擁する葛飾区は何度も水害に見舞われてきた。現場の五丁目×番地は中川から五百メートル強の位置にあり、かつては何度も水被害をこうむった。その名残なごりは築年数が二十年を超えた家の外壁に残っている。水に浸かった箇所は浸かっていない箇所と明らかに色が違う。だが川岸の改修工事がされてからは水害はなくなった──はずだった、昨年までは。
 今年に入って冠水したのはすでに三回目だ。川の氾濫ではない。原因は都市型水害だ。
 都市部は地表がアスファルトやコンクリートで舗装されているので、水を浸透、吸収することが出来ない。では雨水はどこに行くかというと下水管や雨水管だ。だが集中豪雨などで下水処理能力(五十ミリメートル/時まで)を超える水が流入した時や、河川が増水した場合、容量オーバーになり溢れ出る。
 現場の周辺に今年になって二棟の賃貸集合住宅が建てられた。単身者用の二階建て八部屋のアパートと、家族向けメゾネットタイプ三部屋のコーポだ。葛飾区は最近、通勤にも便利、生活もしやすい、他の区よりも家賃は低めということで人気がでてきたらしく、あっという間にすべての部屋に人が入った。イコール、単身者用で八人、メゾネットは夫婦で計算して六人、合わせて十四人、人口が増えた。人間が一日に使う水の量はおよそ二百五十リットルといわれている。十四掛ける二百五十──面倒臭い。とにかく一日に下水管に流れ込む水量が一気に増えた。そこに大雨が降れば、もうお分かりだろう、水が噴き出す。
「五丁目×番地ってことは」
 五代が言い終える前に井上さんが「坂本さかもと薬局を過ぎて右折、突き当たり手前を左折」と答えた。さらに「現場近くで道路状況を見て停められるところに停める。今のうちに現場位置の確認をしておけ」と続ける。
 あの周辺は道が細く一方通行が多い。駐車場が冠水したのなら、当然、道路も冠水している。車が通れば波が立つ。巨大なトラックレベルの消防車が通ろうものなら、波の大きさはかなりのものになる。その波で近隣の住宅に被害が出た場合、その家が水災保険に入っていればそちらでどうにかまかなえるだろうが、入っていない場合は自腹でどうにかしていただくしかない。
 ご納得いただけない気持ちは分かる。実際、被害額を請求されたこともある。ただ人命救助のための緊急出場だから、こちらが賠償金を支払うことはまずない。そうなると被害に遭った住民は泣き寝入りだ。
 都民の安全を守るための活動をしているのに、都民に被害を及ぼすなど、可能な限り避けなければならない。だから井上さんは現場ではなく、その手前で停めようとしている。つまり、冠水した道路を歩いて現場まで行く。だから現場の位置を今のうちに把握しておかなくてはならない。
 直進して左に坂本薬局が見えてきた。ここまで道路上に水はない。坂本薬局を過ぎて右折して突き当たりのYの字を左折。機関員でもない俺が、なぜここまでこのあたりの道を知っているかと言うと、この先が都内ではなかなかお目にかかれないクランク──直角の狭いカーブが交互に繋がっている道路──だからだ。
 イメージ出来ない? 自動車免許の教習所にあるかくかくしたアレと言えば分かると思う。技能検定や修了検定で必ずテストされる課題の一つだが、教習所では運転技術を試すためにわざわざ作っているが、我が上平井消防出張所の管区内にはナチュラルにある。道が狭く通りづらいだけに、いざ出場指令が掛かったときに活動が難しい場所として覚えておかねばならない場所だ。だから俺も知っている。現場は二つ目のカーブの先のはずだ。
 井上さんが右折する。道幅が狭く、道の両端の電柱は窓を開けて手を伸ばせば触れるくらい近い。それまでの車体を叩く雨音と明らかに違う音が聞こえてきた。タイヤが水をかき分けているバシャバシャという音だ。
「これ以上は」
「停車しろ。菊川、大山、五代、下車して現場へ」
 住田隊長の声に井上さんがブレーキを踏む。完全に停車するのを待って、ポンプ車からすぐさま降りた。路上に溜まった水がばしゃっと撥ねる。思った以上に水は出ていた。消防靴どころか、すねの半分まで水に浸かる。三十センチ弱はある。現場まで走れば十秒も掛からないはずなのに、溜まった水が邪魔をする。強い雨が叩きつける中、片足七百グラムある本革製の防火靴で水をかき分けながら現場を目指してひたすら進む。
 突き当たりを左折したところで、「来た! あっちです」と、人の怒鳴る声が聞こえた。道に隣接した住宅の玄関口に立つ中年女性が腕を伸ばして指している。
「あっちです、早く!」
 女性の前を一礼して通過する。右に曲がったそのとき、「お母さんっ! お母さんっ!」と女性の金切り声が聞こえた。正面の住宅とその周辺の住宅がドアを開けていて、漏れ出る灯りでそのあたりだけ明るい。冠水した道路にびしょ濡れになりながら数人が立っていた。
 水をかき分けて近づく俺たちに気づいたTシャツにハーフパンツの老人が、こちらを向いて「こっちだ!」と、怒鳴った。
「お母さん、しっかりして! お母さん!」
 女性の金切り声はドアの開け放たれた家の中から聞こえる。出場指令では車の下に女性が入って出られないと言っていた。ならば車の下から出すことはできたのだろう。こうなると、俺たち特消隊ではなく救急隊の領域となる。
「救急は?」
 振り向いて背後に怒鳴る。
「本署が来る!」
 答えたのは住田隊長だ。第一出場指令のときには出払っていた本田消防本署の救急隊も、俺たちと同じく転戦だ。
「お母さん、目を開けて! お母さん!」
 女性の叫び声は止まない。救急隊の到着を待っている状況ではないのが分かる。玄関には人だかりが出来ていた。近隣住人だろう。「消防です」と怒鳴って近づいていく。声に気づいて玄関を埋めていた近隣住人が振り向いた。すぐに場を空けてくれるかと思いきや、そうはならなかった。道路から玄関まで数段階段があるらしく、濁った水で下がまったく見えずに足下がおぼつかないようだ。
「上平井消防です」
 再度怒鳴る。
「足下に気をつけて、場所を空けて下さい」
 斜め後ろの菊ちゃんがはっきりと伝えたのと同時に「どいて! どいてよっ!」と中から女性が叫んだ。その声に、玄関に溜まっていた人達が、慌てて家の外に移動しようとする。だが階段が見えないからだろう、先頭のけっこう高齢の爺さんが足を踏み出せずにまごついていた。俺と菊ちゃんと五代の三人は、家の前に着いたはいいが、集まった近隣住人のせいで中には入れない。第二隊唯一の救急救命士の資格持ちの菊ちゃんに早く要救助者対応に取り掛かって貰いたいが、人が邪魔で近づけない。
 大した高さじゃないし、腹括って飛び込め! と怒鳴りたいのは山々だが、これで怪我でもされたら本末転倒。だとしても、とにかく場所を空けてもらわなくてはならない。
 大股で爺さんに駆け寄り、「動かないで。下ろします」と言って、爺さんの胴を抱き上げて地面の位置まで下ろした。ばしゃんっ! と大きな音と水しぶきが立つ。その歳になって他人に抱え上げられるとは思っていなかったのだろう、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で、その場に立ち尽くしている。──いや、だから、邪魔だっての。
「屋内に避難して!」
 俺の声に爺さんはようやく動き出した。──まったく手が掛かる。さあ次だと振り向くと、二番目の毛の薄いぽっこりお腹の出たおじさんが飛び降りようとしていた。階段はあっても五段くらいだ。多分、大丈夫だと思う──が、やはり怪我をされたら困る。このおじさんも抱えて運ばねばなるまい。また「動かないで」と言ってから、おじさんの胴を両手で抱える。空いた隙間から菊ちゃんが家の中に入って行く。
「車の下から出したときには」
 金切り声と違う女性の声が聞こえた。
 ──ときには。ときにはって、ことは……。
「代わります。一、二、三、四」
 あのカウントは胸骨圧迫──心臓マッサージだ。
 呼吸が止まってから三分で脳障害が始まり、そのまま呼吸の再開がなく十分を過ぎると人は脳死する。だから呼吸停止になったら、ただちに胸骨圧迫と人工呼吸を開始しなくてはならない。胸が五センチ程度沈む強さで一分間に百から百二十回のリズムで三十回繰り返したら、人工呼吸用のマウスピースを使用して口から息を吹き込む人工呼吸を二度する。それをひたすら繰り返して呼吸の再開を促す。ただ俺たちは特別消火中隊だ。水槽付ポンプ車に救急救命用の資機材は装備していない。なので人工呼吸用のマウスピースもない。だが一刻を争う状況に、菊ちゃんは躊躇することなく人工呼吸を開始する。
 ──どれだけ経った? まだ間に合うのか?
 一刻を争う事態だ。