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3(承前)
「八、九、十」
 菊ちゃんのカウントの声を聞きながら三人目の五十代のおばさんは五代が、四人目のロマンスグレーの爺さんは俺が抱えて外に出す。ようやく人がいなくなった玄関に俺と五代が上がる。
 玄関にはずぶ濡れの白髪の小柄な女性が仰向けに横たわっていた。水に浸かって化粧が落ちてしまったらしく顔色が悪い。その横に菊ちゃんは膝を突き、カウントに合わせて両手で女性の胸の中央を押している。女性の身体は菊ちゃんに押されるがままに揺れている。
 その向こうに二人女性がいた。白髪交じりのショートヘアの女性は途方に暮れた顔でその場に正座していた。もう一人は身を乗り出して「お母さん、お母さん、しっかりして!」と、横たわる女性に声を掛け続けている。発言内容からして傷病者の娘だ。
 顔を上げた菊ちゃんと目が合う。その眼差しの深刻さに、俺はきびすを返して玄関から外に出て「AED(自動体外式除細動器)!」と、怒鳴った。
 近くにまで来ていた住田隊長が、背後を振り返って「AEDを持ってきてくれ!」と繋いでくれた。
 この道路状態では救急車も家の前まで来られるかは分からない。救急隊員も徒歩で来るしかない。手ぶらで来て必要な物を取りに往復している時間の余裕はない。
「他には?」
 玄関の中に戻って菊ちゃんに訊ねる。
 口と口を合わせて菊ちゃんは女性の体内に息を吹き込んでいた。二度の息を吹き込み終えて口を離す。女性の胸に上下動は見られない。
「お願い、助けて。ねぇ、お母さん、目を開けて」
 娘の悲痛な声は止まらない。
 顔を上げた菊ちゃんとまた目が合った。その目に絶望の色が浮かんでいるのに気づく。俺はただ突っ立っていることなど出来なかった。
「五代、来い!」
 怒鳴ってから路上まで階段を飛び越えるようにジャンプする。高い水しぶきに続けて大きくばしゃんと音が立つ。
「どうした?」と、家の前に着いた住田隊長に聞かれて「俺の方が早い」とだけ応えて、来た道を駆け戻る。左右に大きく水しぶきを上げながら、とにかく進む。二つ目の角を曲がったところで水しぶきを上げながらAEDを持って近づいて来る救急隊員が見えた。小柄な人影だ。今日の本署の救急隊であれだけ小柄ならば一人しかいない。森栄利子もりえりこだ。
「寄越せ!」
 怒鳴られた森の動きが止まる。
「俺の方が早いし、菊川さんがいる。戻って搬送先を探せ。五代はスクープ持って来い!」
 足下の見えないこの状態では車輪付のストレッチャーは扱いづらい。傷病者を乗せて搬送しようにも、路上に何かあってぶつかったりしたら傷病者に危険が及ぶ。傷病者の身体を左右からすくい上げるために二分割出来る構造の手運びタイプのストレッチャーの方が救急車まで確実に早く運べる。
 言葉が足りていないのは俺でも分かる。だが森は意図を汲んで「お願いします」と言ってAEDを突き出してきた。つかんだ俺はすぐさま来た道を戻り始める。
 ──早く、早く。
 頭の中に、横たわる女性の生気の無い顔と、菊ちゃんの絶望した目が浮かぶ。
 激しく降りつける雨と足下の水が、少しでも早く現場に戻りたい俺の邪魔をする。
 ──ふっざけんじゃねぇっ!
 水ごときに負けてたまるかと、ひたらす足を動かす。もはや身に降り注ぐ水が、雨なのか自分が撥ね上げている水しぶきなのか分からない。二つ目の角を曲がる。家まであとわずかだ。
 入り口を塞ぐように立っていた住田隊長が場を空けてくれた。階段でつまずかないように、最後はひときわ高く右足を上げてから下ろした。防火靴の裏が、がつっと硬い物を踏みしめる。左足を水から引き抜き、上半身から飛び込むように玄関の中に入った。
「二十七、二十八」
 人工呼吸を続ける菊ちゃんの顔は真っ赤で息も上がっている。その横に俺はAEDを置いた。すぐさま電源を入れ、袋の中からパッドを取り出す。菊ちゃんがマウストゥマウスを終えて、顔を引き上げるのを待って、女性のTシャツをたくし上げた。菊ちゃんがパッドを右胸の上と左脇の下に貼りつける。
「チャージ完了。離れてっ!」
 菊ちゃんの声に、俺は両手を顔の横まで持ち上げる。ばしっと何かを強く打ちつけたような音と同時に女性の小柄な身体が跳ねた。菊ちゃんがすぐさま胸骨圧迫を再開する。
 一からカウントが始まり、三十までひたすら続ける。その間、女性の身体は菊ちゃんが揺さぶるままにしか動いていない。
「二十九、三十!」
 菊ちゃんが女性の口に息を吹き込む。その瞬間、胸が少しだけ盛り上がったように見えた。二度の人工呼吸を終えて、菊ちゃんが顔を上げる。女性はぴくりとも動かない。
「車の下から出したときにはもう」
 それまで口をつぐんでいた白髪のショートヘアの女性が言いづらそうに言った。
「うるさい、黙ってて!」
 娘が女性を怒鳴りつける。
 菊ちゃんはカウントを取りながら、また胸部圧迫を再開する。
 認めたくはない。だが俺の目で見た限り、女性はすでに亡くなっていた。菊ちゃんも分かっているのは、涙が盛り上がり真っ赤に充血した目が表していた。それでも菊ちゃんは胸部圧迫を続ける。この状況で俺たち消防士は死亡宣告をする立場にない。救急車に乗せ、モニターで心停止を確認し、心肺蘇生を行っても波形が完全に静止した状態が続いても死亡宣告はしない。その役目は搬送後の病院が行う。
 胸部圧迫と人工呼吸をさらにワンセット終えた菊ちゃんが、顔を上げて女性を見下ろす。女性は微動だにしなかった。
 再び胸部圧迫を菊ちゃんが始めようとする。
「止めて」
 それまで叫び続けていた娘がぼそりと呟いた。はっとしてその場の全員が娘に目をやる。