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 実資が見た夢の話である。
 一条院内裏焼亡の少しまえ、実資の夢に、二年前にせんした天台てんだい宗の覚運僧かくうんそうが現れて、「主上の命が今年で尽きる」と告げたという。
 聞きながら、紫式部は口のなかが乾いた。
 この夢について、紫式部はすでに知っている。
 覚運は道長に天台の教えを説き、事あるごとに仏事を任されていた。一条天皇にも教えを進講している。夢とはいえ、そのような人物の言葉は、重い。重すぎるがゆえに、紫式部は夢告の内容を彰子に聞かせないように気を配っていたのだった。
 実資も、これまで彰子の耳に入れないようにしていてくれたはずだ。
 あえてその実資が、かの夢告に触れたのである。
「ゆえに、こう思うのです。──今年は、主上に対して『重く慎み御すべし』とされた年だが、此度の火災によって主上の禍が転じたのではないか、と」
 もともと巧言こうげん令色れいしょくとは無縁であり、年をとって気難しくなってきたとも言わされている実資だ。彰子へのご機嫌とりやただの慰めではなく、自らの本心として「禍は転じた」と考えているのだろう。
「そのように考えても、よいものでしょうか……」
 彰子の声が揺れている。
「はい。私も以前、新築したばかりの邸に引っ越した夜に、火を出しました。牛車ぎっしゃに乗ってその場から出ましたが、日記などは守ったものの、邸は燃えるに任せました。なぜなら、こう思ったからです。『この火は天がくださった火。いま人の力でみだりに消してしまえば、さらなる禍となって返ってくるかもしれない。ゆえに、この天の火が邸を焼きたいなら、存分に焼かせるべきだ』と」
「なかなかふつうはそこまで思い切れません」
 彰子が答えたが、その声に多少笑いを堪えるような雰囲気があった。
「ただ、おかげさまでその後、私は主上にお仕えする仕事を続けられています。やはりあのときの天の火が、邸をすべて焼くことでわが身への禍を転じてくれたと思っています」
 そうあってほしいと、紫式部も祈る思いだった。

 翌日、土御門第を訪問する者があった。陰陽師・賀茂光栄である。
 光栄が来ているという話が紫式部の耳に届き、「会えるなら少し話を聞きたいもの」と思っていると、局の簀子に人の気配がした。
「どなたかいらっしゃるのですか」
 と問うと、笑う声がする。
「ははは。おおいのかみ・賀茂光栄だよ」
「陰陽師・賀茂光栄さまですね」
 紫式部が御簾を少しあげようとすると、「寒いだろうからそのままでよい」と光栄が制止した。
 光栄、御簾越しにわかるほどにくたびれた衣裳を着ている。烏帽子えぼしもゆがんでいた。陰陽師として当代一の名をほしいままにし、きちんとした官職に就いているのだから財がないわけではあるまい。よく言えばものにこだわらない性格であり、悪く言えばだらしがない。
 ただ、その外見にだまされてはいけないのが陰陽師である。
「一条院内裏、全焼とは、大変だったのぅ」
「私は土御門第にいただけなので、いまのお言葉は中宮さまへのお見舞いと受け取らせていただきます」
「中宮さまへのお見舞いは左大臣を通じてお伝え申し上げたから、そのままに受け取ってもらっていいのだが……。まあ、火事というのは多くの人の心に傷を残すものよ」
「左大臣さまは、どのようなご用件だったのですか」
 簀子にあぐらをかいた光栄が、頭をかいた。
「なにゆえに主上に火がついて回るのか、占え、と」
 紫式部の全身が耳になる。「それでなんと」
「倹約をもって身を慎むべし──陰陽寮おんようりょうと同じ答えよ」
「まことに?」
 光栄がにやりとするのが御簾越しにもわかった。
「どのような答えなら、満足だったかな?」
「…………」
 ある意味で見た目どおりの食えない答えだ。
 光栄があくびしながら、「まさか、主上が神鏡に対立する星だなどとは言えまい」
 紫式部は耳を疑った。
「いまのは──まことですか」
「さあ。占いなど話半分で聞いておくものよ」
 少し苛立つ。
「真面目に答えてください」
「私は真面目に答えているぞ」
 主上がそのような星を持っているのかと聞き返そうとして、紫式部はやめた。危なすぎる。
 火事の原因はさまざまだ。火の不始末や落雷などだけではない。意外に多いのが「放火」で、そのうえ犯人が見つからずじまいも多かった。放火によって、その御代──あるいは政権担当者の摂政・関白や大臣たち──への不満を暗に示す。ときとして火事は政治的手段に用いられていたからこそ、一条天皇の苦悩は一層深いのだ。
 そこへもってきて、「主上は三種の神器に対立する人物だ」などと噂されれば、真偽や真意よりも批判が先走るだろう。
「いまの話、左大臣さまのお耳には?」
「入れるものかよ」と光栄が肩を揺らした。「まあ、あと数十年、主上の御代が続かねばはっきりせぬしな」
「主上の御代は、あと数十年は続くのですか」
 光栄の笑いが止んだ。「さすが、紫式部どの。うかつなことは言えぬな」
「どうなのですか」
「わからぬ。そもそも占いとは川下りの指南のようなもの。地形や川の様子を教えることはできても、川下りをする当人の腕次第でいかようにも変わるものだ」
 わかりやすいたとえである。だが、紫式部は粘った。
「光栄さまの見立てはどうなのですか」
「人間の寿命を定めるたいざんくんの神に聞かねば、わからぬよ。ただはっきりしているのは、人は必ず死ぬということだけじゃ」
 逃げたな、と思ったが、これ以上の深入りはやめた。主上の寿命を推し量るのは、それだけで不敬だろう。
「ところで、賀茂光栄さまは以前、言霊についてご教示くださいました」
「真剣に陰陽師の修行をしてみる気になったかね?」
「まさか。私は名もなき女房です。物語を書くことでしか、中宮さまにお仕えできない女房です」
「……あまり自らを低くしなくてもよいと思うがな」
 紫式部は少しうれしくなった。
「その物語での言霊の力についてお聞きしたいのですが……。たとえば物語のなかで『火事』を取り上げることで、現世に先回りしてその火を封じられましょうか」
 光栄の動きがはたと止まった。冬の風が御簾を押す。光栄はかしいだ烏帽子も表衣もそのまま、身体だけ居ずまいを正した。
「それは──おそらく難しいだろう」
 無理だろうと思っていたが、あえて聞いてみたのだ。落胆はない。
「言霊といっても、できることとできないことがあるのですね」
「言霊でも、できることとできないことがあるのだよ。たとえば、おぬしが私に今日はこれこれのものを食べると言葉なり文字なりでいましめても、私はそれを容易に破れる」
「そうですね」
「物事を事前にすべて定めてしまうのは難しいということさ。火事もそう。まず、誰がそれを起こしているかわからなければ、その者を止めるのは難しい。また火事を起こしたい者が大勢いた場合は、こちらも大勢の念を集める必要がある。おぬしの場合は読み手が多くいるので、そこはなんとかなるかもしれぬが」
「読み手が多ければ、相手を絞り込めなくても火事を抑えられますか」
「相当の儀式を行えば、ある程度は。だが、どれほど厳重に門を閉めていても、内側から開く者がいればひとたまりもない。それに、天が下さる火もある」
 光栄が乗り気ではないのが伝わってくる。しかし、ここまで教えてくれただけでも破格のことだと満足すべきだろう。
 御簾の隙間から冬風が忍び込んでくる。
 紫式部は、かすかにため息をついた。
「私に何ができるのでしょうか」
 すると、光栄が答えた。
「おぬしにしかできぬことが、ある」
「『源氏物語』ですか」
「それもひとつだが、まだある」
「それは──?」
「国母の女房となることよ」
 そう告げた光栄の声には、いつのまにかいつもの笑みの色が含まれていた。

 

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