最初から読む

 

 火事が一段落つくかつかないかのいま、彰子にいらぬ心労をかけないかという心配が、紫式部の心をよぎる。
 いまは黙っているのと、話してしまうのと、どちらが彰子のためになるだろうか。
 彰子はただひたすらに一条天皇を支えるために生きている。その一条天皇の理想は民草を幸せにする政にある。その理想をすばらしいと思い、かけがえのない方と信じるから、彰子は己のすべてを懸けて一条天皇を補佐していた。
 そんな一条天皇が喜ぶことをひとつでも多くしてあげたいというのが彰子の願いであり、だからこそ敦康親王を東宮につけたいと考えているのだ。
 ならばここで話を先送りにするよりは、早めに話してしまったほうがいいだろう。何よりも失われた二代御記は戻ってこないのだし。
 紫式部は声を落とした。
「畏れながら──此度の火災で二代御記が失われたのが、はたしてたまたまだったかどうか、と」
 彰子は微笑んだまま聞いている。
 近くにいたので聞こえてしまったらしい小少将の君と大納言の君が、少し離れた。他の女房たちが聞き耳を立てないための牽制である。
「続けなさい」
「根拠はありません。ただ、左大臣さまの狙いは摂政・関白となること」
 左大臣は実務上の最高職務であったが、それは律令の範囲内でのことである。
 律令はわが国では大化たいか改新かいしんのあとの大宝たいほう律令りつりょうを初めとするが、それはとうの律令を真似たものだった。
 当然、わが国の実情に沿わないところが出てくる。
 それを補うために、律令に定めのない官職──令外官りょうげのかんを制定する必要が生まれた。
 たとえば、天皇をひつする蔵人たちであり、摂政・関白である。
 蔵人たちが天皇の秘書団であるのに対して、摂政・関白は具体的に天皇の補佐として政を行う。幼い天皇の補佐をする場合が「摂政」であり、成人した天皇の補佐をする場合は「関白」となる。
 摂政・関白は実権として最高権力者と言えた。
 自らの娘を天皇に入内じゅだいさせて皇子を産ませ、その皇子を幼いうちに天皇に即位させ、自らが外戚として幼い天皇の後見人となる。このようにして天皇が幼いうちは摂政として、長じては関白として権力を振るうことを藤原貴族たちは一生の志としている。
 彰子が脇息にもたれて上体をくつろがせる。臨月間近のお腹がやや苦しそうだった。
「しかし、主上が理想としている醍醐天皇と村上天皇は、天皇親政を旨としていた」
「中宮さまのおっしゃるとおりです。ゆえに、あえて火災から避難するときに運び遅れた振りをして焼失させた──というのは、物語書きの考えすぎでしょうか」
 紫式部が最後の言葉を自信なさげにつけくわえると、彰子が声に出して笑った。
「ふふ。紫式部は相変わらず、いとをかし」
「お、畏れ入ります」
 変な汗がにじむ。
 冬の陽射しが思いのほか暑い。中宮御座所から見える庭の木々も赤や黄に色づき、はらりはらりと落葉していた。
 彰子は紅葉を愛でるような表情のまま、
「あながち、うがちすぎとも言えないかもしれませんね」
 と紫式部に同意した。
「このようなときにお耳に入れまして、まことに申し訳ございません」
「いいえ、大丈夫。私もちらりとは考えましたから」
 との彰子の言葉に、紫式部はどきりとした。
「も、もちろん、主上を織部司へお連れしたのが左大臣さまではないと思いますので……」
「左大臣が直に置いていかせたわけではないにせよ、左大臣の常日頃の言動と野心を知っている者たちが忖度そんたくしたかもしれませんね」
「……はい」
 紫式部は軽く視線を庭に泳がせた。
 紅葉の庭を、黄色い蝶が飛んでいる。いまの季節にも蝶は飛ぶのか……。
「主上は火事が起こるたびに大御心を痛めています。なぜ私の治世にはこんなにも火がついて回るのか、と」
「ああ……」紫式部は嘆息した。
 これは一条天皇の治世だからとは言い切れない問題もあると考えていたからだ。
 平安時代は火事が多く、また盗賊も多かった時代なのだ。
 しかし、一条天皇は七歳で即位し、すでに在位二十三年。平安京においては醍醐天皇の在位三十三年余りに次ぐほどの御代となっている。これだけ長く在位していれば、火事や盗賊だけではなく、干ばつや疫病もあった。
 けれども、それもすべて自らの不徳のゆえと自らを省み、戒めるのが、一条天皇というお方なのだろう。
 彰子が続けた。
「私の入内のときも、そもそも長保ちょうほう元年六月の内裏の火災のせいで、一条院を里内裏としたものでした」
「一条院の東側、東北対でしたね」
「話に聞いていた内裏とは違いましたけど、祖母である東三条院さまがお使いになっていた場所だと思えば、父も気安げで少しは安心したものです」
 とはいえ、これは一時のことである。
 火災から再建された内裏に翌年の長保二年十月十一日に、一条天皇は還御かんぎょしていた。
 ところが、である。
「入内して二年たった長保三年の冬。十一月にまたしても内裏に火の手があがりました」
「かなりひどい焼け方だったと……」
「せっかく還御されたばかりなのに、主上の御座所がまったく使えなくなってしまいました」
 一条天皇はいったんしきのぞうへ移り、彰子は敦康親王を連れて土御門第に戻るほどだった。
 その後、一条天皇はまたしても一条院内裏へ入っている。
 一条天皇にはなぜこんなにも火の気がつきまとうのかと、道長ら貴族たちが頭を悩めてしまった。
「それから二年たって、主上は内裏に還御されました」
「ひとりの主上の御代に二度も火事による遷御せんぎょがあればもう十分だと思うのですが、さらに寛弘二年、あなたが出仕する直前にも火災がありました」
「はい」
 紫式部は寛弘二年の大晦日に出仕し始めることになった。普通に考えれば異常な日程だ。これには紫式部が人前に出るのを苦手とする性質が多分に影響していたのだが、内裏自体も大変なありさまだったのである。

 彰子が話を続けようとしたところで女房のひとり、べん宰相さいしょうが近づき、告げた。
「大納言さまがお見舞いにいらっしゃったとのことです」
 藤原実資さねすけのことである。
 今年、権大納言から大納言となっている。
 官職は、宮中の警固を司る左右さう近衛このえのうち、右近うこん衛府えふの長である近衛こんえの大将だいしょう
 火事の見舞いに来るべき位置にいた。
 実資は道長と政治的に対立するところもあるが、最高の教養人のひとりにして、清廉潔白を好む人柄は賢人とも賞されるほどであり、天皇の忠臣だった。
 もともと藤原家は実資の系統であるののみや流が主流なのだが、政治的権力を道長の系統であるじょう流に奪われて久しい。しかし、父祖伝来の広大な所領と膨大な日記が、実資に政治的権威を与えていた。
 国の政治に律令と呼ばれる法が用いられているのは先に述べた。また、その法だけでは現実の諸問題に対応しきれないため、律令に定めのない令外官を定めたのも述べた。
 同様に、律令の適用について、儀式の次第についてなど、運用としての法の解釈が求められる。
 その解釈や運用、次第などの具体例を日記の形ですべて網羅し、知識として所有しているのが小野宮流の長である実資なのである。
 すでに五十三歳で、この時代では老人と呼ばれてもおかしくない実資だが、その彼が「そのようなことは先例がない」と口にすれば、それはただの老人の反発などではなく、律令の歴史すべての重みを込めた一言となるのだった。
 中宮・彰子へ参ずるため、参内と同じく束帯そくたいを身につけて実資がやってきた。
「一条院内裏の焼亡、心よりお見舞い申し上げます」
 簀子で深く頭を下げる実資の見舞いを、紫式部は彰子とともに御簾みす越しに受けた。急ぎの見舞いと言いつつ身につけるのも大変な束帯姿で来たところに実資の律儀さが感じられて、紫式部は好もしく思った。
 これが道長だったら、直衣のうし姿で慌ただしくやってくるのだろう。
「主上はいかがですか」
「ごく平生と変わらぬようにあえてお過ごしになっておられると、蔵人頭からは聞いています」
「敦康は……?」
「同じく変わらぬようになさりながら、妹の内親王殿下を慰めておいでとのことです」
 実資の言葉を聞いて、彰子が袖でそっと目元を押さえた。
 紫式部ももらい泣きするように胸が詰まる。
 一条内裏は全焼してしまった。
 その炎の荒れ狂うさまを目の当たりにして、まだ一日も経っていないのに、さほどに気丈に振る舞う一条天皇。またその父を真似るかのようにしている敦康親王の健気さ。
 本来なら、すぐにでも飛んでいって抱きしめてやりたいと彰子は思っているはずだ。
 けれども懐妊の身体では、果たせぬことである。
 ふと、敦成親王がかわいらしい泣き声をあげた。
 その声に小さく微笑み、彰子は話題を変えた。

 

「源氏物語あやとき草子 【二】 国母の女房(第一章 一条院内裏の焼亡)」は、全5回で連日公開予定