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「紫式部と昔話をしていました」
「昔話ですか」と実資が顔をあげる。
「ちょうど、寛弘二年の火事のことを……」
 と彰子が言うと、実資は視線を落として渋い顔をした。
「あのときも大変な火事でした」
 寛弘二年十一月十五日。
 その日はしょくだった。
 月が一夜のなかで欠けるだけでも大変な怪異だが、その日はことに月が一度すべて消えてしまうという恐るべきときだった。
 一条天皇や敦康親王を蝕から護るために、内裏のあちらこちらにむしろがかけられた。
 の刻ごろに蝕が終わると、みなが安堵したものである。
 しかし、そのほんのかすかな気の緩みが、次の不運を招いてしまった。
 内裏の中央東、温明殿うんめいでんりょう綺殿きでんの付近から火が出たのである。
 蝕の障りを避けるために用意していた大量の筵が、たちまちのうちに火を広げた。
「あのときは蝕を避けるため、私は香舎ぎょうしゃ藤壺ふじつぼ)にいて、主上もともにいらっしゃいました。火が出たという知らせに、主上と私は藤壺から歩いて出御しゅつぎょしたのです」
 紫式部は目を見開いた。渦巻く火炎を背に、主上と中宮が徒歩で逃げていく様子を想像したのだった。
 内裏を出て南西にあるちゅう和院かいんに退避したが、火の勢いは増すばかり。職御曹司、太政官だいじょうかん朝所あいたんどころへと避難を重ねたという。
「胸潰れる思いをなさったと推察申し上げます」と、紫式部がいまさらのように見舞いの言葉を口にした。
「ありがとう。そのときも主上はたいへん気丈で、おやさしく……。玉の緒が引きちぎれてしまうような、地獄のようなありさまに声も出せない私を、しきりに慰めてくださいました」
 実資がため息をついた。
「主上や中宮さまに何事もなかったのは不幸中の幸いでしたが──」
 実資がこちらを見た。
 続きを言えというのか。
 やめてほしいと紫式部は思ったが、「それ」を彰子に言わせるのはたしかに残酷だ。損な役回りだが、自分が言うしかないだろう──。
神鏡しんきょうが損なわれましたね」
 皇位継承に欠かすことができない三種の神器のひとつ、たのかがみである。
 これまでも内裏はいくたびも火災に遭った。だが、三種の神器が被害に遭ったことはない。
 ところが、今度ばかりは場所が悪かった。
 神鏡は賢所かしこどころに安置されていたという。「という」とは、三種の神器そのものは畏れ多くて誰も直に見たことがないからである。
 神鏡は清らかな箱に収められ、人目に触れることはない。
 今回の火は賢所の北、温明殿あたりが出所。
 賢所は真っ先に火の手が襲いかかり、神鏡が損なわれたのだった。
 彰子が静かに目元を押さえた。
「神鏡が損なわれたこと、主上はたいへん大御心を痛めていらっしゃいました。『私はなぜこんなに火がついて回るのか』と」
 いままさにこの場に一条天皇がいて、その苦しみを吐露しているかのように、彰子が悲しんでいた。
 紫式部はちらりと実資に目配せした。この話題を振ったのだから、収拾をつけてほしい……。
 その視線が伝わったのか、実資が静かに続けた。
「神鏡の扱いについては、私も愚見を述べました」
「ええ。大納言の言葉でよかったと思っています」と彰子が息をつく。
 損なわれた神鏡を修復すべきかどうか。修復するとしたらどのようにしたらよいか。まさにあってはならない事態だったために、前例など何もなかった。さまざまな意見も出たし、諸道の博士らにも意見を求めた。
 そのとき、道長は直ちに神鏡を改鋳すべしとの意見を出している。一条天皇の威光まで損なってはならないからだ、と。
「左大臣さまの改鋳の主張に対し、改鋳するにあたって拙速のあまりに俗銅が混じれば、神器の崇高さが損なわれる、と大納言さまが意見なさったとか」
 紫式部が言うと、実資はやや厳かにうなずいてみせる。
「そう。われわれは良くも悪くも、神への畏れを忘れてはいけないと思うのです」
 先例がないから手を下すまいという意味ではなく、人の手が入っていい領域なのかを考えよということなのだろう。
 結論としては、実資の意見が公卿たちの賛同を得た。
 しかるべき意見が現れるまでは、焼けた神鏡をそのまま安置することになったのだ。
 その話の流れで、紫式部は昨夜の道長の発言を思い出した。
 解釈のしようによっては、ひどく重い内容を含んでいる。
 実資の判断も聞いておきたかった。
「中宮さま。大納言さま。これから話すことはおふたりの胸にだけ納めてください」
「なにかしら」
「ふむ?」
 と、彰子と実資が居ずまいを正した。
「未明に火事の知らせを聞き、中宮さまのところへ参じようとしたとき、ちょうど左大臣さまとすれ違いになりました。そのときに左大臣さまがおっしゃっていたのです。『最悪、神器だけは護らねば』と──」
 庭の紅葉が一葉、落ちた。
 り水の音が冷たく耳朶じだを打つ。
 実資の眉間に皺が寄っていた。
 彰子はと見れば、色白の肌を青くさせている。かすかに手が震えていた。
「──なんということを」
 彰子が絞り出すように言う。
 彰子の反応に、紫式部は心のなかで満足する。彰子は畏れ多くも中宮ではあるが、同時に紫式部の漢学の弟子。聡明な弟子はうれしいものだ。
 もし彰子が自分と同じように物語を書いていたら、きっとよい書き手になっていたのかもしれない。
 だが、彰子の聡明さをよしとしている場合ではなかった。
「左大臣さまのご発言、私にはとても臣下として許される発言ではないように感じました」
 紫式部がやや漠然とした感慨を述べる。
「まったくだな」と答える実資の声に、静かな怒気があった。
 彰子も声を震わせた。
「主上のお命よりも、神器を重んじるとは。左大臣は──」
 実資が静かに、彰子に返す。
「おおかた、主上の即位のときの出来事を思い出したのでしょう」
 紫式部は御簾のなかでうなずいた。
 わずか七歳だった懐仁やすひと親王が一条天皇として即位できたのは、道長の父・藤原兼家かねいえが中心となってざん天皇を落飾らくしょくせしめた「かんの変」のおかげである。
 その変が成就しえたのは、兼家が三種の神器をぎょうしゃの懐仁親王のもとへ運びおおせたからだった。
 これによって道長は思ったに違いない。
 万一、天皇の身に何かがあっても、三種の神器さえあれば次の天皇を即位させられる。つまり、三種の神器を無事に押さえれば、最後の最後には何度でも“寛和の変”の再現が可能だ、と。
 だから「最悪、神器だけは護らねば」という言葉になったのだ。
「たしかに主上は三種の神器をもって即位されました。しかし、左大臣の言い方では、三種の神器を管理する者が、次の主上を好き勝手に定められるようではありませんか」
「おっしゃるとおりです」と紫式部は頭を下げる。
 実資が唸った。「とすると、先の神鏡改鋳の意見も、多少そのあたりの心情を勘案しないといけないかもしれませんな」
 道長が、焼損した神鏡を早急に改鋳すべしと意見した理由である。一条天皇の威光を理由としたのだが、実は神器をそろえることで天皇の即位をほしいままにしようとしたのではないかとも見える……。
 人間の本心は、ほんの瞬きほどの言動に表れてくるものだ。
 今回の火災では、損なわれた神鏡は無事に運び出されている。
「神仏への畏れは、人間だけが持つ大切な心だと考えます。私の『源氏物語』でも、さまざまな権力者が出てきます。そのなかで最高の栄光を手にするのはもちろん源氏ですが、その源氏であっても無常の風にはあらがえない」
 紫式部がたとえを用いれば、実資もひげをなでながら、
「無常とか運命とか神仏の計らいとか、そういうものに対して、私自身も謙虚でありたいと思っています」
「すばらしいお考えだと思います」
「実は……」と実資はちらりと紫式部を見てから、話を続けた。