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 局に籠もり、筆を動かし、『源氏物語』を綴る自分は饒舌じょうぜつだ。しかし、いまここで他の女房たちを落ち着かせるようなひと声を、出せる自信がない。一条院内裏が火事だと聞いて大急ぎで中宮のもとへ参じられたのは、彰子への日頃の気持ちのなしたわざ。正直なところ、他の女房たちのことなど考えてもいなかった。
 風がまた吹いた。
 冷たい北風のなかに、火災による異臭が混じっている心持ちがする。
 風が灯りを揺らした。
 揺れた灯りが、彰子の小さな白い手元を見せた。小さな両手の指が、脇息きょうそくを強く掴み、食い込んでいる。
 紫式部は震えた。
 中宮さまはこんなにもご不安でいらっしゃるのに。
 彰子は「他の女房たちを安心させてあげてください」と、他ならぬ自分に頼んだのだ。
 彰子以上に自分を知ってくれている人はいない。
 ならば、その命に従うのが正しいことであり、彰子を安心させる方法のはずだ。
 紫式部はみなを励ました。
「みなさま方。主上も皇子さま方も、もう一条院内裏から無事に出ているはず。さもなければ、もっと大事となっていましょうから」
 上臈女房をはじめとする彰子付きの女房たちが一斉にこちらを見た。
「誰?」とささやき合う声が聞こえる。
 責められているようで、紫式部は思わず彰子に振り返ってしまった。
 彰子が微笑みながらうなずく。
 その微笑みがどこか楽しげなのは、灯りの作った陰影のせいだろうか。
 そばで小少将の君が目を白黒させている。
 紫式部は咳払いをした。
「主上も皇子さま方もご無事のはず。私たちは万が一にもここまで火が来ないように気を張りながら、中宮さまをお護りしましょう」
 中宮を護る。──御座所にいた女房たちの空気が変わった。
 今度こそ、彰子が笑った。
「ふふ。ありがとう。紫式部」
「中宮さま──少し意地悪でした」
「何か?」
「いいえ」と口のなかで答えると、紫式部は静かに頭をたれた。
 彰子のやさしい声と笑顔が御座所に現れたのだから、よしとしよう。

 夜が白む頃には、かなり詳細な知らせが入ってきた。
 一条天皇は織部司おりべのつかさへ避難し、敦康親王らは同じ車に乗って南門へ出ていたという。
 紫式部は心中、安堵した。「一条天皇らは無事」と言ったものの、それは推測の域を出なかった。その言葉通りで、ほんとうによかった……。
 言葉通り──紫式部はふと気にかかった。

 言葉には魂が宿る。
 これを言霊ことだまという。
 文字であっても、声であっても、言霊は生まれる。

 ある人が、紫式部に言った言葉であり、紫式部の物語と発する言葉に贈った台詞せりふである。その人物が賀茂かもの光栄みつよし──当代最高の陰陽師おんみょうじであるとなれば、重みがあった。
 光栄が告げたことが今回の火事においても発揮されたのだとしたら、不幸中の幸いというものだろう……。
「御仏のご加護に感謝申し上げます……」と彰子は両手を合わせていた。
 ただし、原因は不明のままだ。
 頻繁に人が行き交い、見舞いのやりとりがなされている。
 その後、一条天皇は道長所有の邸宅のひとつ、枇杷びわ殿どのへ移ったという。
 一条院内裏は大内裏北東に接した東西二町の広大な邸宅であり、一条天皇の生母で道長の姉であるひがし三条院さんじょういんせんの所有だったが、一条天皇が長らく里内裏──内裏以外の天皇の御座所として使っていた。
 今度は枇杷殿が、新しい里内裏になったのである。
 場所は左京一条三坊十五町──後世で言うところの京都御所の中央西だった。
「枇杷殿は、この土御門第からは一条院内裏よりも近いですね」
 紫式部が言うと、
「先ほど、主上からの使者が手紙とは別に、主上の言葉として同じようなことをおっしゃっていたとのことです」
 と、彰子がかすかに目を伏せる。ほのかに頬が赤らんでいた。
 だが焼失したものもあった。
 運び出しきれなかった宝物が数多く失われている。
「此度の火災で、だい天皇と村上むらかみ天皇の二代ぎょが失われたとか」
 すると、彰子はひどく悲しげにした。
「その二代御記は、主上がみずからの政の理想として、枕頭ちんとうの書としていたものでした」
 醍醐天皇と村上天皇の治世は、その元号をとって「えんてんりゃくの治」と呼ばれていた。
 賢政の時代であり、聖代として称えられている。
 政の根本である法──律令りつりょうを正しく運用させ、国を導くことを主眼に置いていた。地方への施策、儀式などの整備、国史編纂へんさんや銭貨改鋳かいちゅうなどが行われ、有力貴族や寺社の力の進捗よりも民の保護を考えていたとされる。
 だが、この「延喜・天暦の治」で欠かすことができない視点があった。
 それは、どちらの治政においても天皇親政を行った点である。
 藤原貴族がいなかったわけではない。政は複雑になり、巨大になっていったから、現実には藤原家の貴族たちが力を貸していた。
 だが、この両治政では摂政せっしょう関白かんぱくがいなかったのである。
 あくまでも、天皇が名実ともに政の中心にいて、徳による賢政をとった時代だった。
 ここまで考えて、紫式部は引っかかった。
 一条天皇が、天皇親政をとった醍醐天皇と村上天皇の二代御記を理想としている。
 このことがはたして道長の目にはどのように映っただろうか。
 天皇の枕頭の書など、通常は外部に漏れない。
 彰子はそのようなことを軽々しく口にしないし、いま紫式部に語ったのも紫式部への信頼あればこそだった。
 天皇付きの女房女官はどうだろう。
 みな、天皇への忠誠心は持っているだろうが、そこには濃淡があってもおかしくない。各人の思惑はそれぞれで、天皇への崇敬の念の篤い者もいれば、親に言われたからとか、まいないがいいからとかいう理由で出仕している者もいるだろう。天皇周りの消息を進んで収集しているような者もいるかもしれない。
 それ以外にも、天皇の周りには人が多い。蔵人頭くろうどのとうを筆頭に、男の秘書団のようなものもあるのだ。
 道長がその誰かから聞いていたとしたら……。
 ずいぶん悲観的というか、疑念に満ちた見解だと自分でも思う。
 しかし、昨夜の簀子で、道長がふと漏らした一言。臣下として口にしてよいとは自分には思えないあの一言を聞いてしまった紫式部には、そこまで考えが回ってしまう。
「…………」
 冬の曇天の寒さによるのだけではない震えが、紫式部の唇を揺らした。ただでさえ口下手な紫式部がますます声を発しにくくなる……。
「そんなに寒い?」
「あ、いえ」と言うのも、咳払いが必要だった。
「もう少し近くへ。火桶がありますから」
「お、畏れ入ります……」
 紫式部は身を小さくしてにじり寄る。
 未明に声を張った恥ずかしさがまだ残っていた。他の女房たちの目が気になる。
「上臈女房たちも、火事のときの紫式部のひと声がとても心強かったと感謝していますよ」
「う……」
 内心の動揺を見透かされたようで、紫式部はもっと言葉を失った。言霊? 言葉に魂が宿る? いまの自分は魂が抜けかかっているではないか……。
「ほんとうに。中宮さまのおっしゃるとおりです」
 小少将の君が少し離れたところで微笑んでいる。小柄でやさしい面立ちの、年下の上臈女房のおっとりした笑みは、紫式部の癒やしになってくれていた。
「そ、そうですか」
「ええ。ね、姉上」
 小少将の君が姉の大納言の君を促せば、大納言の君も「ええ」と同意する。
「年末の盗賊騒ぎのときも、紫式部がいてくれてほんとうに助かりました」と大納言の君。
「そ、そう……?」
 ちょっとうれしくなってきた。
「ごめんなさい。紫式部」と彰子がいきなり謝る。
「はい……?」
「これからあなたの機嫌を損ねるような話を尋ねなければいけないかもしれないけど」と言って、彰子はかすかに首をかしげた。「さっき、何を悩んでいたの?」
「悩み、というほどではありません。ただ少し気になったことがありまして」
「気になります」と彰子。