累計120万部を突破した井原忠政による歴史時代小説「三河雑兵心得」シリーズの最新刊『奥州仁義』が、12月13日に刊行された。徳川家康の天下取りを雑兵からの視点で描くという斬新な切り口で人気を博す本シリーズ。最新刊では、秀吉の命令により徳川家が関東に移封となり、主人公の茂兵衛も江戸にやってくる。だが、奥州で反乱が起きて、茂兵衛は出陣を命じられる。
NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』や『麒麟がくる』『どうする家康』へ資料提供とした参加した歴史学者・小和田泰経もまた、同シリーズを興味深く読んでいるという。歴史学者から見た「三河雑兵心得」はどんなところに魅力があるのか、お話を伺った。
文・取材=麦倉正樹 写真=林直幸
点在している事実を繋げていくのが歴史小説の役割
──小和田さんは「三河雑兵心得」シリーズを、どんなふうに読まれているのでしょう?
小和田泰経(以下=小和田):僕自身、生まれは東京なんですけど、育ったのは静岡なんです。このシリーズは「三河雑兵心得」というぐらいなので、静岡(三河)の話がけっこう出てくるじゃないですか。面白いなと思って読んでいます。
──本シリーズには、徳川家康をはじめ「徳川四天王」と呼ばれた武将たちなど、実在の人物が数多く登場します。ただ、主人公である「植田茂兵衛」は、架空の人物です。それについてはいかがですか?
小和田:そこが面白いところです。昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』もそうでしたが、誰もが知っているような歴史上の人物を主人公にすると、史実との兼ね合いでどうしても「遊び」の部分が少なくなってしまう。あと、家康のような人を主人公にしてしまうと、あくまでも家康の視点というか、上のほうの立場にいる人の見方になってしまうじゃないですか。そういう「為政者」の見方というのは、あくまでも歴史の見方のひとつです。そうではない「雑兵」のような立場の見方というのはとても新鮮で、そこが本作を他の歴史小説とは一味違うものにしています。
──江戸時代に書かれた史料は、どうしても家康贔屓になっているようなところもあるわけで……。
小和田:江戸時代のいわゆる「徳川史観」というのは、あとから作られたものですから。もちろん、それに対する疑問を投げかけるというか、「実はそうではなかったんじゃないか?」というのが、昨年の大河ドラマだったと思います。実際の家康は、江戸時代に書かれたような感じの人物ではなかったのではないかと。ただ、それもまたひとつの見方であって……結局、歴史なんてわからない部分のほうが多いんです。
──事実はひとつだけど真実は人の数だけある……みたいなことも、よく言われますね。
小和田:当時の人だって、ひとつの事件や戦いに対して、いろんな見方をしていたと思います。「三河雑兵心得」シリーズの面白いところは、最初は名もなき農民だった茂兵衛が出世していくにつれて、彼自身の見方も徐々に変わっていく点にあります。戦国時代を生きるいろいろな立場の人々の見方を網羅しているようなところがある。もし、この話の主人公が家康だったら……弱小だったとはいえ、家康は大名家の跡取りですから、そもそも見ているところが茂兵衛のような人物とはまったく違うし、その視点は変わりようがありません。
あの時代の足軽たちには、忠誠心なんてものはない
──「三河雑兵心得」シリーズは合戦シーンの描き方も特徴的ですよね。わりと泥臭い感じがあるというか(笑)。
小和田:そうですね(笑)。学術的なところで言うと、戦国時代の人たちが実際にどうやって戦っていたのかなんて、ほとんどわからないんですよ。なぜなら、そこまで詳細な記録が残っていないから。有名な戦いであっても、そこで人々がどんなふうに戦っていたのかまではわからない。いわんや、何を考えながら戦っていたのかなんて、知るよしもありません。今、基本的に残されているのは、江戸時代に書かれた軍記物が中心で、それこそ「関ヶ原の戦い」に関しては、明治時代に参謀本部が編纂したものが、一般的な「説」として流布しているようなところがあったりします。
それと、「三河雑兵心得」シリーズにはいろいろな合戦が描かれていますけど、やっぱり印象的なのは槍の使い方ですよね。時代劇の合戦シーンを観ていても、あまり槍で戦わないじゃないですか。刀で戦っているシーンのほうが多い。しかし、ああいうイメージは明治以降の定型化された戦いの描き方であって、あくまでもテレビや映画に適した形なんですよね。なぜなら、刀で戦ったほうが、見栄えがいいから(笑)。
──そのあたりの「リアリズム」は、面白いですよね。派手な陣羽織や「変わり兜」のような目立つ装束の武将は、普通に鉄砲で狙われたりして(笑)。
小和田:そうそう(笑)。ただ、当時の人は、それを承知で派手な陣羽織や兜を身に着けていたところがあるんですよね。大将というのは、味方にとっても目立つ存在でなければならないというか、目立った格好をしている大将が自ら率先して前線に出て戦わないと、下の者は誰もついてこないですから。そのあたりが、近代の戦争とは違う。近代の国民国家になってから、「お国のために戦う」というのが、ひとつのルールになっていったわけで。戦国時代は、そんなことを言っても、誰もついてこないですよ。
──そのあたりが「戦国時代の常識」だったわけですね。味方が劣勢になると、逃げ出す人もいたとか。
小和田:いたでしょうね。本作の中にも、そういう描写があったと思いますけど、実際そういう人は結構いたんじゃないかな。そもそも、あの時代の足軽たちには、忠誠心なんてものはないわけで。負けそうになったら、やっぱり逃げますよ。なぜなら、死にたくないから(笑)。そういうふうに、末端の人たちの動きまでちゃんと描かれている小説っていうのは、なかなかないかもしれません。
(後編)に続きます
【あらすじ】
戦国時代の三河。喧嘩のはずみで人を殺し、村を出奔した17歳の茂兵衛は、松平家康の家来に拾われ、足軽稼業に身を投じることに。初陣での籠城、兜武者との一騎討ち、決死の撤退戦、恋、奇襲……。茂兵衛は戦乱の世を生き抜きながら武士として成長していく。汗だく血だらけ泥まみれ、でもしぶとく生き残る。痛快! 戦国足軽出世物語。