夏の盛りのある日、朝から万江島の邸宅を訪れた愉里子。茶事で使う「湿し灰」を作る手伝いをするためだ。その作業中に誤って灰の上に倒れ込んだ愉里子は、体中が灰まみれになってしまった。万江島に風呂を借り、バスタオル姿で涼んでいたところ、万江島の若い友人で噺家の半七と鉢合わせて──。
ポットとグラスを持って、バスタオル姿のまま台所へ向かう。
まず、サーバーの水色の注ぎ口からグラスに水を入れ、一気に飲む。ああ、なんておいしいんだろう! グラスをテーブルに置き、今度はポットに水を入れ、入れ終わって蓋をしていると、廊下を歩く足音が聞こえた。
やだ万江島さんだ! どうしたらいい? なんて言う? ストップ? 何がストップ? 来ないでー? 彼の家なのに? ああ、どうしよう!
そのとき、和室は裏口と逆方向だから、今から走れば間に合うかも、とひらめいた。なぜかテーブルのグラスをつかんだ。
右手にグラス、左手にポットで走り出そうとした途端、バスタオルがはらりと落ちた。
「あーっ!」
思わず声を上げる。
床にバスタオル。
拾いたいが、グラスとポットを放り投げるわけにはいかない。
「どうしたんですか!」
台所に駆け込んできたのは、万江島氏ではなかった。半七だった。
5
台所に立っていた全裸の私は、半七の姿を目の端に捉えた瞬間、右手で乳房、左手で股を隠して、しゃがみこんだ。
「見ないで!」
両手だけでは中年のたるんだ身体を隠し切れないので、前かがみの体勢になる。三メートルほど離れたところに、半七の裸足の足元だけが見えた。大きいけれどほっそりした白い足。けれどもそれに似あわない黒くて長い毛が親指にも足の甲にも生えている。こちらに向かって立ったまま、動こうとしない。
「あっち行って!」
強く言う。なのに、半七は動かない。何も言わない。こいつは一体何を考えてんだと頭にきて、半七の顔を見ようと上体を起こしてしまう。
ベーシュ色のヴィンテージアロハに砂色のアンクルパンツをはいた半七は、大きく目を見開いていた。私はハッとして下を向き、隠していたはずの右の乳房の真ん中あたりが、ほんのわずか見えていることに気づいてまたかがみこみ、上目遣いで半七をにらみつけた。
半七は私と目が合っても、あわてて逃げたり目をそらしたりしなかった。やさしく微笑むと、床に落ちていたタオルを私の身体にかけてから、ゆっくりと立ち去った。
「ストップ! ちょっと待って! そこで止まってよ!」
私は怒りと恥ずかしさで混乱しながら、廊下に向かって叫んだ。
「はい、止まりました」
冷静な半七の声を聞き、さらに頭にきた。
「どこまで見た?」
我知らず、ドスの効いた声になった。
「どこまでって言うと……」
「だから、その、私のハダカ、しっかり見た?」
「まあ、目の前に女の人のきれいな裸があったら、そりゃあもう舐めるように見るってえのが、男のサガなんじゃないですかねえ」
きれいなどとぬけぬけと言うこの若造にあきれ返りつつも、相手の思惑通り、怒りの感情が削がれた。
「……今見たこと全部、すっぱりと頭の中から追い出してよね」
「そう言われても、しみひとつない白くてすべっとした背中が、目に焼きついちまいました」
背中……。褒められてうれしかったが、ビミョーでもあった。
「とにかく、あなたが私のハダカを見て何を感じようと勝手だけど、それをべらべら他人に言わないでほしい」
「そんなこと言いませんよ。いやあ、愉里子さんって、ほんと予測がつかない人ですね。ますます好きになりました。じゃ、どうぞごゆっくり」
廊下から、半七が去っていく足音が聞こえた。
私は一気に力が抜けて、両手をだらりと床についた。それからすぐに、肩にかかっていたバスタオルを取り、身体にきつく巻き付けた。改めてポットとグラスを両手に持ち、廊下をのぞき込んで誰もいないのを確かめてから和室に行き、襖を閉め、畳にへたりこんだ。
一生の不覚。
畳につっ伏して大声であーっと叫びたいのをこらえ、目をつぶり、両手で顔を覆った。
なぜ、喉が渇くのをほんの少し我慢できなかったのか。なぜ、服も着ず、他人様の家の中をバスタオル一枚でふらふらと歩いてしまったのか。夏のせいだから、ということにしたい。でもやっぱり、普段のはしたない生活が露呈してしまったにすぎない。眉とアイメイクを落としてなかったのがせめてもの救いだ。もう二度と、絶対に、自分の家の中でも真っ裸で歩き回ったりしません……。
窓の向こうから大量のミンミンゼミの激しい鳴き声がする。ときどきうねるように大きくなる。私は顔を上げ、着替えもせずにただそれを聞いている。
そのうちに、十代の夏、二十代の夏の私が、映画のカットバックのように脳裏に浮かんだ。するとどういうわけか、私は、バスタオル一枚で台所に行ってしまったことよりも、自分が五十代であることを激しく憎むようになった。昔は、ナイスバディ(もう死語)とまでは言わないが、少なくとも今よりはもっと胸もお尻もぷりっとして、腰もくびれていた。どうせなら若い頃の裸を見られたかった。
くやしい。
そこまで考えたところで、自分はバカじゃないかと思った。
半七に三十年前の裸を見せて、私はどうしたいのか。昔はきれいだったと自慢もしくは言い訳したいのか。心の底では、半七とセックスしたいと思っているのか。
それはない! ……たぶん。
私は、ふいに女の裸を見てしまったのに平然としている男など大嫌いである。でも。半七は私のことを「ますます好きになりました」と言った。もしかして半七のほうも、万が一そういう流れになった場合、私とセックスしてもいいかなと思っているのだろうか。……いやいや、まさか。
グラスに水を注ぎ、一気に飲む。もはや取返しはつかず、くよくよしてもしょうがない。服を着ることにする。へその下のこんもりとした脂肪の山を見ながら、外側に流れ落ちているお尻の肉をかき集めるようにしてショーツをはき、若いときに比べて胸元の肉がそげ、乳首の位置が低くなり、全体がやわらかくなった乳房をブラジャーのカップの中にまとめこむ。そうするうちに、ゆっくりと腑に落ちるものがあった。
半七が私に見せた無言の反応にこそ、彼の本心があらわれていたのだ。全裸の私を見て、彼はニヤッでもドキッでもなく老女をいたわるように微笑んだのだ。
つまり半七にとって、私は完全に恋愛対象外なのである。彼は「ますます好きになりました」という言葉を残すことで、全裸を見られた私が落ち込まないように気を遣ってくれたのだ。なのに私は、自分はまだまだイケると思い込んで半七のことを考えていた。かなり、イタい女。
フランス人で五十歳の某男性作家が「五十歳以上の女性は私にとっては見えない存在だ」「二十五歳の女性の肉体は素晴らしいけれど、五十歳の女性の肉体に特別なことは何もない」と雑誌で語り、SNSで大炎上したというネットの記事を思い出す。その男性作家は、うっかり本音を漏らしてしまったのだろう。
半七は、最初から私の肉体など見ていなかったのかもしれない。一瞬見た背中について語ることで、おばさんの肉体から目をそらしていたことをうまく隠したのだろうか。
襖の向こうから軽やかな足音が聞こえ、私のいる和室の前で止まった。
「愉里子さん、いらっしゃいますか」
万江島氏の声だった。
私はペパーミントブルーのリネンシャツとジーンズに着替えていたので、入ってもいいですよと言おうとして、いや、メイク直しはしてないし髪も濡れたままだと思い直す。
「すみません、お風呂から出たばかりで、着替え中です」
そう言うと、万江島氏は襖を開けずに言った。
「早かったですね、もっとゆっくり入ってらしてもよかったのに」
「いいお湯でした、眺めが素晴らしかったです。ありがとうございました」
私は型通りの返事をした。ジェットバスに入らなかった理由など言えるわけがない。
「さっき半七がふらっと来たんですが、すぐに帰っちゃいました」
半七の名前を聞き、私は尋ねずにはいられなかった。
「半七さん、何か言ってましたか……その……私に関して」
「いえ別に。愉里子さんは入浴中だから少し待てば会えるよって言ったんですけど、急いでたみたいです」
「そうですか」
万江島氏のよどみない話しぶりからすると、半七が全裸事件を告げたとは思えない。だがこの二人は、鹿間の件でぐるになって私を担いだことがあった。そうやすやすと信用はできない。
「愉里子さん、私もこれからひとっ風呂浴びさせてもらいます。食堂の右手を出たところにテラスがあって、ビールとグラスを用意しておきましたから、どうぞ先にやっててください」
「そんな、万江島さんが来るのをお待ちしてます」
「いえいえ、私、結構風呂が長いんです。待たせていると思うと私も落ち着かないから、先に飲んでてください」
「わかりました……お気遣い、ありがとうございます」
あれほど飲みたかったビールなのに、自分でも驚くほど声に張りがなかった。万江島氏は「疲れたでしょう、ゆっくりくつろいでください」と言って、襖の前から離れた。