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夏の盛りのある日、朝から万江島の邸宅を訪れた愉里子。茶事で使う「湿し灰」を作る手伝いをするためだ。その作業中に誤って灰の上に倒れ込んだ愉里子は、体中が灰まみれになってしまった。万江島に風呂を借り、バスタオル姿で涼んでいたところ、万江島の若い友人で噺家の半七と鉢合わせて──。

 

 私はメイク直しをして、まだ濡れている髪をタオルドライしてからゆるくひとつに束ねた。ドライヤーは脱衣場にあるので、万江島氏がこれから入浴すると聞けばそこへ行くわけにはいかない。洗った髪をおろしたままでは、若い子ならばいいかもしれないが、中年以降は清潔感に欠けて見苦しい。こういうことをいちいち気にして女であることを捨てていない自分が、ときどきすごくいやになる。
 裏口に置いてある自分の長靴や帽子、腕カバーなどをリュックにしまい、帰る準備を整えてから食堂へ向かう。
 北向きの広い食堂は、冷房を入れず窓のすべてが開け放たれているが、入るなり空気がひんやりとしていて涼しい。北と西にもうけられた小さな採光窓と、東側のテラスから差しこむ光は硬くて白っぽく、黒味を帯びたこげ茶色の天井と床、西側に置かれた存在感のある水屋箪笥の沈んだ赤銅しやくどう色のけやきの扉も、明るすぎる夏の光にさらされていた瞳には心地いい。普段なら、北向きの暗い台所や食堂は、古い日本の陰気さの象徴にも見えて嫌いなのだが、真夏のときだけは人心地がつく場所である。
 テラスの入口に、臙脂えんじ色のデザインが古めかしい女物のつっかけがあった。実家の母も同じようなものをよく履いていて、おそらく家政婦の菱沼さんのものだろう。私のスニーカーはホールド感の強いものなので今は履く気になれず、それを拝借して外に出る。 
 北東向きのテラスの前には、茶室に面した南向きの立派な日本庭園とは対照的な、カジュアルでこぢんまりとした庭があった。半日陰のせいかそこは緑色の楽園となっており、ヤツデ、シュロチク、ヒメシャラ、タカノハススキ、ギボウシ、クマザサ、シダなど、旺盛に育った草木のさまざまな濃い緑、薄い緑が重なり合い、夏の午後三時のおもだるい日陰のなかで休息していた。
 屋根のないテラスにはうすいオレンジ色のテラコッタタイルが敷かれ、直線的なデザインの木の椅子、背もたれからお尻までの部分がゴムのような素材でできたロッキングチェア、大人が横になれるような大きなラタンのソファと、同じくラタンのローテーブルがあった。そこに置かれた家具は素材も形も違うのに、どれもチョコレート色で統一感があり、テーブルクロスやクッションなどのファブリックも灰色がかったブルーのグラデーションで揃えられていてとてもシックだ。万江島氏はセンスのいい人だが、自分の趣味からはずれた物は一切置かないといったかたくなさはなく、私が履いているつっかけに彼のおおらかさを感じる。
 テーブルの上には大きな透明のアイスバスケットとリーデルのビアグラスが置いてあり、氷が詰められたアイスバスケットの中には、さまざまなビールが冷やしてあった。それと、白い皿に盛られた鮮やかな緑色の枝豆。
 私は、修道僧が描かれたラベルのビールを選び、ソファに座って飲む。放心してビールを飲み続ける。あまりのおいしさに脳がとけそうだ。
 自宅ではもっぱら発泡酒なので、本物のビール、しかもドイツのヴァイスビールはやっぱり違うなあと思いながらもう一度飲み、しばらく庭の緑をながめた。草木の間から風がそよぎ、目もくらむような暑さはやわらいでいた。私は、これから万江島氏と対峙する緊張感と(さっきまでずっと一緒にいたのに!)、半七に裸を見られてしまったかなしさとが混然一体となり、いつもより早く酔いがまわりそうな気がして、それからはあまりビールに口をつけなかった。 
 万江島氏があらわれたのは、それほど遅くはなかった。私が長靴などをリュックに詰めたりしてテラスに行くまで時間がかかったせいか、ビールを飲み始めて十分ほどでやってきた。
「ああ、さっぱりしました」
 万江島氏は、淡いブルーと白の細かいチェック柄で涼しげなサッカー生地の長袖シャツにジーンズという、肌の露出を抑えた服だった。短めの髪は洗いざらしで、彼をさらに若く見せていた。
「フランツィスカーナーが飲めて、とっても幸せです」
 私はビールの瓶を小さく掲げた。
「それ、うまいですよね」
 しかし、万江島氏が選んだのはノンアルコールビールだった。
「どうしてですか」
「……愉里子さんを駅までお送りしないといけないので」
「私なら、タクシーを呼んで帰ります。どうぞ飲んでください」
「いや、まあとりあえず、これにします」
 そして私たちは乾杯した。万江島氏はグラスを一気に空け、顔をほころばせた。私は湿し灰の作り方について、気になったことをひとつふたつ質問し、その流れで半七の名前を出した。
「半七さんは、湿し灰の手伝いに来たわけじゃないんですよね」
「ええ。あたしがいたらお邪魔でしょう、なんて言っときながら、気になって顔を出すんだから、ああ見えてまだ子供っぽいところがあるんですよ」
 半七は、あえて私と万江島氏を二人きりにさせたということだろうか。
「彼は帰るとき、何か変なこと言ってなかったですか?」
 万江島氏は、私の顔をほんの少し、じっと見た。
「愉里子さん」
「はい」
「あなたが先ほどからずっと半七を気にしているのは、半七のことが好きだからですか?」
 えええ?
「そういうことでしたら……くやしいけど、僕も考えを改めなくちゃいけないなと思いまして」
 今度は、私が万江島氏をじっと見る番だった。万江島氏の顔は真剣そのものだった。
 あのー、今、くやしいっておっしゃいましたが、それは半七に対してやきもちを焼いているということでしょうか。つまり、万江島さんは私のことが好きなのでしょうか。
 ということを、私はその通りには言えず、口から出たのは次の言葉だった。
「私、さっき、半七さんに素っ裸を見られてしまったんです」
 万江島氏は小さく息を呑んだ。彼が動揺しているのが見て取れたので、私のかなしい気持ちは霧散した。そしてはっきりとわかった。昼間の食堂で全裸になっている私を見たのが万江島氏ではなくて半七でよかったのだ。もし万江島氏に見られていたら、かなしいどころではなく首をくくりたくなっていただろう。
 私は調子に乗って、半七との会話まで、こと細かにおもしろおかしく語った。しかし、万江島氏は大笑いしてくれるどころか、笑顔すら見せなかった。
「風呂上がりにすぐに服を着るより、裸でいるほうが爽快なのはわかります。でも、半七に見られるなんてうかつですよ。それに愉里子さんは、そのことをうれしがっているように見えます」
「そんなことありません!」
 私がうれしがっているのは、万江島氏が半七に真面目に嫉妬していること、その万江島氏に、あのとき全裸を見られなくて本当によかったということに対してだ。でも、それをうまく説明できない。
「私が好きなのは、半七さんじゃなくて万江島さんなんです」
 ああ、言ってしまった。私はやっぱり、思わせぶりや駆け引きができない。だからときどき、あけすけでつまらないとも、女としてのつつしみに欠けるとも言われる。自分でもそう思う。そして、年々それに拍車がかかっている。なぜなら、これからの人生、今日が一番若く、残り時間はそう多くない。ローマの詩人のホラーティウスも言っている。
 ──今日一日の花を摘み取ることだ。明日が来るなんてちっともあてにはできないのだから。 
 万江島氏は、戸惑っているのか照れているのか困っているのかわからない面持ちで、しばし私から視線をはずした。それから、はにかむように私を見た。目には喜びだけがあった。私は、その顔に一瞬、青年のときの彼が浮かび上がったような気がした。ういういしく、飾り気がなく、含羞がんしゆうがあり、それでいて男の生気に満ちている。
「愉里子さん、まだ時間はだいじょうぶですか?」
「はい」
 これからの予定はなく、今日中に、都内にあるマンションに戻ればいいだけだった。
「一時間ほど、私につきあっていただけますか」
 万江島氏は私を裏庭へ出るようにうながした。邸内にある離れの茶室に行くのかと思ったら、裏庭の横にある大きなガレージに案内された。なかには、昔の「007」シリーズに出てきたようなクラシックなアストンマーティンとトヨタプリウスが停めてあったが、万江島氏が立ち止まったのは、スカイブルーとクリームのツートーンの、小さなバイクの前だった。
「これで、海辺を走りませんか」
 万江島氏が遠慮がちに言う。
「最初は、襖越しに聞こえてきた愉里子さんの声が何だか元気がないなあと思いまして、この時間ならもう暑くないから、バイクで走ったら気持ちよくてスカッとするかも、なんて思いついたんです。でも、今はただ、あなたを後ろに乗せて走りたいんです」
「わあ、うれしい!」
 私が無邪気に喜ぶと、万江島氏はようやくほっとした顔になった。
「バイクは怖いって言われたらどうしようかと思ってました」
「平気です。バイクの免許は持ってませんが、昔はよく友達の後ろに乗って遊びに行きました」
 高校時代の友人や大学時代のバイト仲間にバイク好きの男の子がいて、地元で遊ぶときやロックコンサートに行くときなど、気軽に乗せてもらっていたことを思い出した。