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「遠慮なく、いただきます。皆でこうして食うと、いつにも増して箸が進むんです」
 自分の屋敷での食事と、勇実たちとの食事の違いに気づいたのは、やはり十くらいの頃だった。将太が物心ついた頃だ。
 手習所で昼休みに弁当を食べるときは、皆がわいわいとしゃべっていた。矢島道場の門下生たちと昼餉をともにするときも、同じだった。
 そうすると楽しい。会話が弾めば、料理もおいしく感じられる。
 今こうして、六人で酒をわしながら夕餉をいただく間も、しんとしてしまうことがない。
 酒をほんの一口でやめてしまったのは、勇実と千紘だ。源三郎もそうだったらしいが、あまり酒が強くない。龍治も深酒を好まない。翌日、どうしても動きにさわりが出るのが嫌なのだという。
 菊香は、酒を飲まない者たちのために白湯を持ってきたり、ぺろりと平らげてしまった将太のためにお代わりをよそってきたりと、甲斐甲斐しく働いている。理世も手伝おうと腰を浮かすのだが、菊香の手早さの前にはかなわない。
「理世さんも気を遣わないで。座っていてくださいね」
 その菊香は、酒を飲んでも顔色ひとつ変わらない。何くれと世話を焼く手が震えることも、足がもつれることもない。将太はもちろん、最も親しい千紘でさえ知らなかったらしいが、菊香は底なしに酒が飲めるようなのだ。
「何だか、祝言の日を思い出しますね」
 将太が言うと、皆がうなずいた。
 五月さつきの晴れた日に、勇実と菊香、龍治と千紘は、二組一緒に祝言を挙げた。格式張ったものではなかった。白瀧家は両親も親族もいないので、勇実と千紘のぶんも、龍治の両親が親として務めた。
 略式ではあったが、盛大なものには違いなかった。何せ、手習所の筆子や道場の門下生、捕物で顔を合わせる捕り方などが、こぞって祝いに訪れたのだ。大方は将太も知った顔だった。
「祝い事で顔を合わせられるのは、よいことだ」
 龍治の父である与一郎がしみじみとみ締めるように繰り返していたのが、将太の耳に残っている。意味を問えば、目をうるませながら微笑んで、与一郎は答えた。
「前にこうして大勢駆けつけてくれたのは、源さんが……源三郎どのが亡くなった折だった。それを思い出してな」
「ああ……そうでした」
「勇実と千紘、それぞれの門出の晴れ姿を、源さんにも見せてやりたかったな」
 あの世というものがあるのなら、源三郎はきっとそこから見ているのだろう。生まれ変わりというものがあるのなら、いずれどちらかの夫婦のもとに赤子として生を受けるのではないか。
 祝いの酒をいただきながら、将太はふわふわとそんなことを考えていた。
 お猪口一杯で頬と耳を赤くした千紘が、ちらちらと龍治を見やっては、くすくす笑っている。
「祝言の日と言えば、あんなに酔った龍治さんを見たのは初めてだったわ。いまだに道場の皆にからかわれるんでしょう?」
 龍治はげんなりしたように顔をしかめると、お猪口の中身を空にして、盆の上に伏せた。
「今日はもう、酒はこれっきりだ。あとは白湯をいただくよ」
 日頃は酒をたしなまないとはいえ、龍治も実はかなりの量を飲める。気分が悪くなるような、ひどい酔い方をするわけでもない。祝言の日だけは特別だからと、翌日のことを考えず、祝いのさかずきを受けていた。それで、すっかり気持ちよく酔っ払ってしまったのだ。
 勇実が珍しく、いたずらっぽい顔をして身を乗り出した。
「あの日言ったこと、まさかいているわけではないんだろう? 取り消しはしないよな?」
「そりゃあ……もちろん、あれは、まがうことなき俺の本心だったが……」
 龍治の顔が赤くなっているのは、酒を飲んだせいではない。
 将太は思わず噴き出した。理世もくすりと笑った。
 あの日、すっかり酔いが回った龍治は、千紘にあこがれを抱いている筆子たちにきつけられた。「千紘先生を泣かせたら絶対に許さない」と言い渡されたのをきっかけに、熱く語りだしてしまったのだ。
「おまえらこそ、千紘に手を出したら、ただじゃおかねえぞ。幼いからといって、俺は手加減してやらねえからな。だいたい、おまえらに忠告されるまでもないんだよ。おまえらが生まれるより前から、俺は千紘のことを大切にしてきたんだ。千紘が隣に越してきて出会って、ついに今日に至るまで、十五年だぞ」
 龍治はそれまで、妻として迎える娘のことを「千紘さん」と呼んでいたはずが、祝言の宴で酔って語ったときから「千紘」と呼ぶようになった。呼び方を変えたのではなく、戻したのだ。
 出会ったばかりの頃、幼かった千紘を呼ぶときには、勇実がそうするように、龍治も「千紘」と呼んでいたそうだ。
 だが、龍治が十三、四の頃、おなごの名を呼ぶのが妙に気恥ずかしくなってきた。それで、「おい」とか「おまえ」とか、そういう呼び方をするようになってしまった。
 何から何まで気恥ずかしく感じていた時期を抜け、千紘が娘らしくきれいになってきた頃、「千紘さん」と呼ぶようになった。そして祝言を挙げたのを機に、懐かしい呼び名である「千紘」に戻したというわけだ。
「千紘は昔からかわいらしかったんだ。年頃になるにつれ、変な虫がつくことも出てきてさ、『おい』って呼ぶだけじゃ足りなくなった。往来を歩くときも道場に新しい門下生が入るときも、俺はしょっちゅう千紘さん、千紘さんって呼んで、俺の声が届かないところに行かないように目を光らせてたんだ」
 そうだったなあ、と将太も思い出す。
 とはいえ、「おい」としか呼びかけずにいた頃だって、龍治が千紘を特別にかわいがっていることは、将太の目にも明らかだった。
 将太は、龍治のことを剣術の先達として尊敬している。将太を鬼子から人の子にしてくれた恩師の一人としても、心から感謝している。その龍治のまなざしの向かう先にいるのが、木刀を握ることのない千紘だった。何とはなしに、千紘にやきもちを焼くような気分だった時期もある。
 あのまなざしの意味は、道場の兄弟子にこっそり教わった。
「あと数年、見ていてごらん。千紘さんが嫁入りする年頃になれば、龍治さんも自分の気持ちとまっすぐ向き合うことになるさ。あれは、恋をしている者のまなざしだよ。男女の恋には、夫婦になるという成就じようじゆの形があるからね。それを望むまなざしだ」
 幼い将太には、恋だの祝言だのといった話は黄表紙きびようし中の出来事のようで、よくわからなかった。だが、京から江戸に戻ってきて再会した日、千紘との仲を勘違いした龍治と立ち合いの勝負をすることになったときに、なるほどと知ったのだ。
 龍治はぱっと体が動くし、剣術の技のえは見事なものだ。そのぶん、思いのほか冷静で、自分自身をよく律している。仮に怒りを覚えたとしても、かっとなって相手を傷つける、などということはめったにない。
 その龍治が、将太がとっさに仕掛けてみたつたなわなに引っ掛かり、冷静さを失った。将太は、千紘との縁談を勇実に申し込んだかのように、龍治の前で振る舞ってみせたのだ。
 千紘を懸けた勝負となると、龍治が後に引くはずもなかった。沈着ちんちやくとは言えなかったはずの龍治だが、凄まじく強かった。あっさり勝負に敗れた将太は、それでこそ龍治先生だ、と思った。
 勝てない相手がいて、その相手のことを大好きだというのは、安心できることだ。子供心のままの甘えが許される。あの日も将太は龍治をさんざん怒らせ、恥をかかせもしたのだが、龍治は後腐れなくゆるしてくれた。
 いずれにせよ、将太が兄のように慕う龍治は、あの罠によって初めて、千紘への想いをはっきりと言葉にしたのだった。
 それから三年が過ぎ、祝言の日。皆が聞いている前で、それまでになく大胆だいたんに、龍治は千紘がいかに愛おしいかを滔々とうとうと語った。酒の力のためだったが、あれはなかなかすごかった。どんな余興よりも盛り上がった。
 勇実もにんまりとして、龍治に言った。
「あれにはすっかり当てられてしまったな。私も負けじと惚気てやりたかったんだが」
 赤面した龍治は、怒っているとも笑っているともつかない表情を浮かべている。さんざん酔っていたとはいえ、物忘れをしてしまうたちではないらしく、酔いが醒めると赤くなったり青くなったりして悶えていた。
 その場では恥ずかしがっていた千紘だが、祝言から日が経つにつれ、手柄てがらを立てたかのように誇らしげにしている。あれだけ大勢が聞いている中で、龍治は盛大に惚気たのだ。千紘と喧嘩けんかなどしようものなら、龍治ははりむしろに座らされるに違いない。
「人の噂も七十五日と言うが、まだまだ消えてくれそうにない。道場の連中からは、ことあるごとに、まるで昨日のことみたいにし返されるんだよ」
 龍治はうんざりしているふうの口調で言うが、本心でないことは見て取れる。
「でも、まんざらでもないんでしょう?」
 つい将太は口に出してしまった。
 龍治は目を丸く見開くと、月代さかやきまで真っ赤にして、胡坐あぐらひざ頬杖ほおづえをついてそっぽを向いた。
 理世がくすくすと笑い、隣の将太にしか聞こえないような声で、ぽつんとつぶやいた。
「うらやましか。幸せそうやね」
 将太は、理世の頭をそっと撫でた。将太の手のひらですっぽりと隠れてしまうくらい、理世の顔は小さい。何もかも小づくりで、はかなく壊れてしまいそうだ。
「案ずるな。この兄が、おまえの幸せな縁談を見守ってやるからな」
 理世のささやきに反して、将太の声はどうしても大きくなってしまう。
 無邪気にうなずいたのは、理世だけだ。勇実と菊香、龍治と千紘がそっと目を見交わし、将太に気遣わしげなまなざしを向けたのを、将太は感じた。
 何も気づかなかったふりをする。
 四人に打ち明けた秘密は、なかったことにすると決めたのだ。その想いは、忘れると誓った。理世のために、将太は決して誓いを破ることはない。
 将太は、初めて理世と出会ったとき、恋とは何かを知ってしまった。一目惚ひとめぼれだった。
 許されないことだ。血のつながりがないとはいえ、理世は大平家の娘。義妹に恋をするなど、あってはならない。
 大丈夫だ。
 みずからに決まり事を課するのは、慣れている。何の決まり事もないまま己を解き放てば、将太は鬼子なのだ。暴れる鬼であってはならない。そのために自分を律するすべは、幼い頃から源三郎や勇実、龍治に教わってきた。
 将太は声に出して繰り返した。
「理世が案ずることはないんだ。俺が兄として、おまえを守り、導いてやるから」
「はい」
 愛らしい笑顔でうなずく妹に、将太も微笑み返した。

 

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