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 うたげの支度はすでに整っていた。
 菊香が腕によりをかけて作った料理は、しつこい残暑の中にあってもはしを伸ばしたくなるような、いろどりや香りのよいものが揃っていた。茗荷みようがねぎを刻んだのを載せた冷奴ひややつこ紫蘇しその風味を利かせた夏野菜の浅漬け。小魚とくず野菜を叩いてこしらえた、すり身の汁物。くずをかけて冷ました南瓜かぼちやの煮物。
 一方、理世と千紘も甘えっぱなしではいられないからと、一品、おさいを作ってきた。将太が抱えていた風呂敷包ふろしきづつみの中身である。鉢に盛って運んできたのは、里芋さといもやこんにゃくの煮っころがしだ。
 鉢を台所まで持っていくと、女三人で手際よく小鉢に盛りつけていく。その様子を見ていたら、千紘に指図さしずされた。
「将太さん、そこのお酒とお猪口ちよこを座敷に運んでください。それが済んだら、お膳を運ぶのも手伝って」
 菊香がさえぎろうとしたが、将太はすかさず徳利とつくりやお猪口の載った盆を持ち上げた。
「こういうことなら、お安いご用だ。じっとしているのも性に合わんので、手伝わせてください」
 そして、さっさと座敷に向かう。
 勇実は、かごに入った鈴虫すずむしえさをやっているところだった。近所に住む上役が数日留守にするので預かっているのだという。
「鉢植えの菊のつぼみも預かっているんだ。鈴虫も菊も生きていて、世話が必要だからね。ちょっと荷が重いよ」
 そう言いながらも、勇実はいつくしむ目をして、小さな鈴虫を見つめている。
 今の勇実の手取りなら人を雇う余裕もあると聞いたが、結局、女中も下男げなん小者こものも置かないことになったようだ。家の中のことは菊香がすべて一人で取り仕切っているらしく、生き生きと働いている。
 もともと菊香は誰かに嫁ぐつもりもなく、どこかの武家屋敷に奉公して、働いて一生を過ごしたいと考えていたそうだ。渋々その道を選ぼうとしていたわけでもないようで、確かに家事の達人なのだ。
 家移りのとき、菊香は屋敷の古さや汚さを少しもいとわず、むしろ楽しそうに掃除や修理に没頭ぼつとうしていた。人の役に立つものを作ることも好きだといい、針仕事や料理はもちろん、ちょっとしたたなをこしらえるようなことまで、何でもこなしてしまう。
 勇実はまったく逆で、当人いわく「ぐうたらで、面倒くさがりで、出不精でぶしよう」だ。何でも涼しい顔でやってのけそうに見えて、実はちょっと抜けたところがある。筆子たちも「勇実先生はしょうがないな」と言って、寝坊助ねぼすけの勇実を毎朝起こしに行ったりなど、せっせと世話を焼いていた。
 きっと菊香も勇実の面倒を見るのを楽しんでいるのだろう、という気がする。勇実は、将太や筆子たちにとって頼れる師匠でありながら、守って支えてあげたいと人に思わせるかわいげもあるのだ。
比翼連理ひよくれんり、か」
 将太は、頭に浮かんだ言葉を声に乗せた。いちばん近くにいた理世だけが聞き分けたようで、将太を振り向いて小首をかしげた。何でもないよ、と将太は手振りで示す。
 料理の載った膳をせっせと座敷に運んだ。その褒美ほうびにと、人数ぶんの小鉢に盛りきれなかった里芋を、口に放り込んでもらった。理世が千紘に教わって作っていたお菜だ。
「うまい」
 将太が言うと、理世はほっとしたように微笑んだ。
「よかった。江戸の料理は難しいけれど、だんだんわかるようになってきた」
 理世は今日、千紘に料理の手順を教わりながら、逐一ちくいちしっかり書き留めていたらしい。まるで薬の調合のように、芋が何斤なんきんならば醤油しようゆがどれくらい、と重さを量りながら作り、紙にしたためていたというのだ。
 そういう細かで面倒なことをみずから進んでやってのける理世に、千紘はしきりに感心していた。
 将太は、確かめるつもりで訊いてみた。
「やはり料理も、江戸と長崎ではずいぶん違うんだな」
「うん。長崎の味つけとはまったく違って、難しいと。江戸の料理は、甘くないでしょ。煮物やの物に砂糖が入ってないけん」
「砂糖? 飯のおかずの、煮物や酢の物にか?」
 理世は上目遣いで将太を見た。
「おかしい?」
 将太は、太い首をかしげて少し考えてから、かぶりを振った。
「おかしくはないと思う。遊学に出てすぐの頃、京の料理の味が薄いことに驚いた。ところが変われば、料理の味も変わるものなんだな。口に合う、合わないということもあるかもしれんが、俺は幸い、初めにちょっと驚いただけで、すぐ慣れた。たぶん、砂糖が入っているという長崎の料理も、食えば慣れるだろう」
 江戸では上等な菓子にしか使われない砂糖だが、長崎では日々のお菜にも使われるのだ。
 理世は、千紘や菊香にも聞かせる口ぶりで言った。
「砂糖は唐船からぶねで運ばれてくるんです。オランダ船は年に一回、二艘しか入港しません。そういう決まりになっているから。でも、唐船は春から秋にかけて、季節の風に乗って、入れ代わり立ち代わり、長崎にやって来ます。外海そとうみを走る船は、船底に重りを載せていないと、ひっくり返ります。その重りとなるのが、砂糖なんです」
 へえ、と将太は声を上げた。
「なるほど。そういうことなら、長崎では砂糖が手に入りやすそうだな。それで、料理にも砂糖を使うのか」
「甘みが足りない料理は、『さぶなか』とか『砂糖屋の遠か』って言うと」
「それじゃあ、理世も、江戸の料理は砂糖屋が遠くて味気ないと感じるのか?」
 理世は眉間に皺を寄せて、ちょっと唸った。
「江戸の味つけにも、だんだん慣れてきた。それに、兄さまは江戸の味つけが好きでしょう?」
「舌に馴染んでいるのは、そうだな。江戸の料理だ」
「だったら、わたしも江戸の味つけを覚えます。兄さまにも、千紘さんや菊香さんたちにも、おいしく食べてもらいたいんです」
 健気なことを言うのがいじらしい。将太は「えらいぞ」と理世の頭をでた。千紘も菊香も笑みを交わし、理世に「ありがとう」と告げる。
 千紘が理世に言った。
「わたしよりも菊香さんのほうがずっと、料理が上手なのよ。本当は菊香さんに教わるのがいいと思うんだけれど、本所と湯島では、ちょっと離れているものね」
「次のときには、一緒に作りましょうね」
 菊香の申し出に、理世はこくりとうなずいた。
 大平家では、料理などの家事はすべて女中がこなしている。将太には、おふくろの味というものがない。裕福ゆうふくな旗本のお嬢さん育ちの母もまた、女中の作った料理を食べて育ったらしい。
 理世も、大平家で調える縁談を受けるのであれば、嫁ぎ先ではおそらく自分で料理をこしらえる必要などないはずだ。それでも理世が料理をしたがるのは、単に暇を持て余しているせいでもある。
 こうして親しい人たちと食事をともにする機会は、理世にはめったにない。去年の九月に江戸にやって来て以来、習い事などはしているものの、それだけではなかなか友と巡り会うこともできないようだ。
 それに、訛りを出さないように気をつけながら口を開いている。そのせいで、言いたいことが十分に伝えられなかったり、とっさに言葉を発することができなかったりして、じれったく感じるときもあるらしい。
 長崎訛りでしゃべる本当の理世は、もっと早口でおしゃべりで、しっかりとしんの通った声の出し方をする。そのことを知っているのは、江戸では将太だけだろう。
 長崎の町にいた頃は、堅苦かたくるしい漢字の「理世」ではなく、町場の娘らしく「おりよ」で通っていた。ほかに誰もいないときは、将太だけが妹のことを「おりよ」と呼んでいる。
 台所での支度がすっかり済んで、勇実も鈴虫の世話を終えた。座敷でめいめいの膳の前に座る。
 皆のお猪口に酒を注いだところで、ちょうどよく、龍治の朗らかな声が表から聞こえた。
「頼もう! 白瀧勇実どのの屋敷はこちらであるか?」
 大仰おおぎような言い回しは、むろん、おどけているだけだ。龍治自身、途中で笑いだしてしまっている。
「ああ、我らが剣豪のお出ましだ」
 勇実も笑いながら、みずから立って戸口のほうへ迎えに行った。菊香も素早く後を追う。
 久しぶりだとき立つ親友同士の声。菊香が「お上がりください」と促し、すぐに三人で座敷に戻ってくる。
 矢島龍治は、男としてはいくぶん小柄こがらだ。しかし、溌溂はつらつとした身のこなしと抜群の剣術の腕前が、身のたけを実際より大きく見せている。年は、将太より四つ上の二十四。腰には大小の刀の代わりに木刀を差している。
 龍治はちょっと大げさに顔をしかめ、勇実の胸を小突こづいた。
「勇実さんは夏をくぐり抜けたばかりとは見えないくらい、肌が白いままだな。ずっと引きこもって書物を読んでいるんじゃ、体が弱っちまうぞ。ちゃんと食ってるのか? 相変わらず骨と皮だけじゃないか」
「手厳しいな。いっときよりは目方も戻ってきたんだぞ」
「菊香さんと一緒になって幸せ太りして、力士のようにたくましくなってくれるかと期待していたんだが。一度落ちた体力は、なかなか戻らないのかな」
「力士のようにとは、無茶を言ってくれる。しかし、そう心配されるほど弱ってはいないつもりだ」
「いや、心配するってば。勇実さん、まだあの大怪我から半年しか経ってないんだぞ。熱が下がらず、目を覚まさず、どんどん弱って痩せていくのを見て、俺たちがどれほど気をんだことか」
「もう半年も経ったんだ。あれ以来、風邪をひいたり寝込んだりなんてことは一度もない。体力も戻ってきているよ」
「本当か? 相変わらず夜更かし続きなんじゃないのか? まったく体は大事にしてくれよ」
 目の前でぽんぽんと交わされる会話を、将太は懐かしい気持ちで聞いていた。
 賢く博識な勇実はもちろんのこと、龍治も頭の回りが速いから、二人のやり取りは打てば響くかのようだ。心地よい速さで進んでいく会話に、将太は口を挟まない。うまく挟めないのだが、それでいいと思っている。
 ひと区切りしたら、勇実か龍治が必ず、将太にも水を向けてくれるのだ。今日は龍治だった。
「将太、理世さんだけじゃなく、千紘のお供もしてくれて、ありがとうな」
「役に立てて、よかったです。俺のこの大きな図体も、おなごの用心棒役にはぴったりですから。荷物も、いくらでも持てますし」
 ちょうど宴を始めようとしたところでの到着だったと言えば、龍治はぽんと自分の太ももを叩いてみせた。急いで来た甲斐があったぜ、と得意げな顔をする。
 汗みずくになっている龍治の顔や首筋を、千紘が手ぬぐいで拭いてやろうとした。龍治は照れくさそうに苦笑し、手ぬぐいを千紘の手から取って、自分で汗を拭いた。
「じゃあ、食べようか。酒も茶も白湯さゆもあるから、好きなものを飲んでくれ。将太、何でも多めに作ってあるそうだから、好きなだけ食ってくれ」
 勇実の合図で、将太は箸を手に取った。
 大平家では、食事の席で口を利くということがない。だが、勇実や龍治のもとで食事をすると、にぎやかだ。

 

「手習所「勇源堂」の師匠」(5/5)は、10月28日に公開予定