三
宴の支度はすでに整っていた。
菊香が腕によりをかけて作った料理は、しつこい残暑の中にあっても箸を伸ばしたくなるような、彩りや香りのよいものが揃っていた。茗荷や葱を刻んだのを載せた冷奴。紫蘇の風味を利かせた夏野菜の浅漬け。小魚と屑野菜を叩いてこしらえた、すり身の汁物。葛をかけて冷ました南瓜の煮物。
一方、理世と千紘も甘えっぱなしではいられないからと、一品、お菜を作ってきた。将太が抱えていた風呂敷包みの中身である。鉢に盛って運んできたのは、里芋やこんにゃくの煮っころがしだ。
鉢を台所まで持っていくと、女三人で手際よく小鉢に盛りつけていく。その様子を見ていたら、千紘に指図された。
「将太さん、そこのお酒とお猪口を座敷に運んでください。それが済んだら、お膳を運ぶのも手伝って」
菊香がさえぎろうとしたが、将太はすかさず徳利やお猪口の載った盆を持ち上げた。
「こういうことなら、お安いご用だ。じっとしているのも性に合わんので、手伝わせてください」
そして、さっさと座敷に向かう。
勇実は、籠に入った鈴虫に餌をやっているところだった。近所に住む上役が数日留守にするので預かっているのだという。
「鉢植えの菊のつぼみも預かっているんだ。鈴虫も菊も生きていて、世話が必要だからね。ちょっと荷が重いよ」
そう言いながらも、勇実は慈しむ目をして、小さな鈴虫を見つめている。
今の勇実の手取りなら人を雇う余裕もあると聞いたが、結局、女中も下男も小者も置かないことになったようだ。家の中のことは菊香がすべて一人で取り仕切っているらしく、生き生きと働いている。
もともと菊香は誰かに嫁ぐつもりもなく、どこかの武家屋敷に奉公して、働いて一生を過ごしたいと考えていたそうだ。渋々その道を選ぼうとしていたわけでもないようで、確かに家事の達人なのだ。
家移りのとき、菊香は屋敷の古さや汚さを少しも厭わず、むしろ楽しそうに掃除や修理に没頭していた。人の役に立つものを作ることも好きだといい、針仕事や料理はもちろん、ちょっとした棚をこしらえるようなことまで、何でもこなしてしまう。
勇実はまったく逆で、当人いわく「ぐうたらで、面倒くさがりで、出不精」だ。何でも涼しい顔でやってのけそうに見えて、実はちょっと抜けたところがある。筆子たちも「勇実先生はしょうがないな」と言って、寝坊助の勇実を毎朝起こしに行ったりなど、せっせと世話を焼いていた。
きっと菊香も勇実の面倒を見るのを楽しんでいるのだろう、という気がする。勇実は、将太や筆子たちにとって頼れる師匠でありながら、守って支えてあげたいと人に思わせるかわいげもあるのだ。
「比翼連理、か」
将太は、頭に浮かんだ言葉を声に乗せた。いちばん近くにいた理世だけが聞き分けたようで、将太を振り向いて小首をかしげた。何でもないよ、と将太は手振りで示す。
料理の載った膳をせっせと座敷に運んだ。その褒美にと、人数ぶんの小鉢に盛りきれなかった里芋を、口に放り込んでもらった。理世が千紘に教わって作っていたお菜だ。
「うまい」
将太が言うと、理世はほっとしたように微笑んだ。
「よかった。江戸の料理は難しいけれど、だんだんわかるようになってきた」
理世は今日、千紘に料理の手順を教わりながら、逐一しっかり書き留めていたらしい。まるで薬の調合のように、芋が何斤ならば醤油がどれくらい、と重さを量りながら作り、紙にしたためていたというのだ。
そういう細かで面倒なことをみずから進んでやってのける理世に、千紘はしきりに感心していた。
将太は、確かめるつもりで訊いてみた。
「やはり料理も、江戸と長崎ではずいぶん違うんだな」
「うん。長崎の味つけとはまったく違って、難しいと。江戸の料理は、甘くないでしょ。煮物や酢の物に砂糖が入ってないけん」
「砂糖? 飯のおかずの、煮物や酢の物にか?」
理世は上目遣いで将太を見た。
「おかしい?」
将太は、太い首をかしげて少し考えてから、かぶりを振った。
「おかしくはないと思う。遊学に出てすぐの頃、京の料理の味が薄いことに驚いた。ところが変われば、料理の味も変わるものなんだな。口に合う、合わないということもあるかもしれんが、俺は幸い、初めにちょっと驚いただけで、すぐ慣れた。たぶん、砂糖が入っているという長崎の料理も、食えば慣れるだろう」
江戸では上等な菓子にしか使われない砂糖だが、長崎では日々のお菜にも使われるのだ。
理世は、千紘や菊香にも聞かせる口ぶりで言った。
「砂糖は唐船で運ばれてくるんです。オランダ船は年に一回、二艘しか入港しません。そういう決まりになっているから。でも、唐船は春から秋にかけて、季節の風に乗って、入れ代わり立ち代わり、長崎にやって来ます。外海を走る船は、船底に重りを載せていないと、ひっくり返ります。その重りとなるのが、砂糖なんです」
へえ、と将太は声を上げた。
「なるほど。そういうことなら、長崎では砂糖が手に入りやすそうだな。それで、料理にも砂糖を使うのか」
「甘みが足りない料理は、『さぶなか』とか『砂糖屋の遠か』って言うと」
「それじゃあ、理世も、江戸の料理は砂糖屋が遠くて味気ないと感じるのか?」
理世は眉間に皺を寄せて、ちょっと唸った。
「江戸の味つけにも、だんだん慣れてきた。それに、兄さまは江戸の味つけが好きでしょう?」
「舌に馴染んでいるのは、そうだな。江戸の料理だ」
「だったら、わたしも江戸の味つけを覚えます。兄さまにも、千紘さんや菊香さんたちにも、おいしく食べてもらいたいんです」
健気なことを言うのがいじらしい。将太は「えらいぞ」と理世の頭を撫でた。千紘も菊香も笑みを交わし、理世に「ありがとう」と告げる。
千紘が理世に言った。
「わたしよりも菊香さんのほうがずっと、料理が上手なのよ。本当は菊香さんに教わるのがいいと思うんだけれど、本所と湯島では、ちょっと離れているものね」
「次のときには、一緒に作りましょうね」
菊香の申し出に、理世はこくりとうなずいた。
大平家では、料理などの家事はすべて女中がこなしている。将太には、おふくろの味というものがない。裕福な旗本のお嬢さん育ちの母もまた、女中の作った料理を食べて育ったらしい。
理世も、大平家で調える縁談を受けるのであれば、嫁ぎ先ではおそらく自分で料理をこしらえる必要などないはずだ。それでも理世が料理をしたがるのは、単に暇を持て余しているせいでもある。
こうして親しい人たちと食事をともにする機会は、理世にはめったにない。去年の九月に江戸にやって来て以来、習い事などはしているものの、それだけではなかなか友と巡り会うこともできないようだ。
それに、訛りを出さないように気をつけながら口を開いている。そのせいで、言いたいことが十分に伝えられなかったり、とっさに言葉を発することができなかったりして、じれったく感じるときもあるらしい。
長崎訛りでしゃべる本当の理世は、もっと早口でおしゃべりで、しっかりと芯の通った声の出し方をする。そのことを知っているのは、江戸では将太だけだろう。
長崎の町にいた頃は、堅苦しい漢字の「理世」ではなく、町場の娘らしく「おりよ」で通っていた。ほかに誰もいないときは、将太だけが妹のことを「おりよ」と呼んでいる。
台所での支度がすっかり済んで、勇実も鈴虫の世話を終えた。座敷でめいめいの膳の前に座る。
皆のお猪口に酒を注いだところで、ちょうどよく、龍治の朗らかな声が表から聞こえた。
「頼もう! 白瀧勇実どのの屋敷はこちらであるか?」
大仰な言い回しは、むろん、おどけているだけだ。龍治自身、途中で笑いだしてしまっている。
「ああ、我らが剣豪のお出ましだ」
勇実も笑いながら、みずから立って戸口のほうへ迎えに行った。菊香も素早く後を追う。
久しぶりだと沸き立つ親友同士の声。菊香が「お上がりください」と促し、すぐに三人で座敷に戻ってくる。
矢島龍治は、男としてはいくぶん小柄だ。しかし、溌溂とした身のこなしと抜群の剣術の腕前が、身の丈を実際より大きく見せている。年は、将太より四つ上の二十四。腰には大小の刀の代わりに木刀を差している。
龍治はちょっと大げさに顔をしかめ、勇実の胸を小突いた。
「勇実さんは夏をくぐり抜けたばかりとは見えないくらい、肌が白いままだな。ずっと引きこもって書物を読んでいるんじゃ、体が弱っちまうぞ。ちゃんと食ってるのか? 相変わらず骨と皮だけじゃないか」
「手厳しいな。いっときよりは目方も戻ってきたんだぞ」
「菊香さんと一緒になって幸せ太りして、力士のようにたくましくなってくれるかと期待していたんだが。一度落ちた体力は、なかなか戻らないのかな」
「力士のようにとは、無茶を言ってくれる。しかし、そう心配されるほど弱ってはいないつもりだ」
「いや、心配するってば。勇実さん、まだあの大怪我から半年しか経ってないんだぞ。熱が下がらず、目を覚まさず、どんどん弱って痩せていくのを見て、俺たちがどれほど気を揉んだことか」
「もう半年も経ったんだ。あれ以来、風邪をひいたり寝込んだりなんてことは一度もない。体力も戻ってきているよ」
「本当か? 相変わらず夜更かし続きなんじゃないのか? まったく体は大事にしてくれよ」
目の前でぽんぽんと交わされる会話を、将太は懐かしい気持ちで聞いていた。
賢く博識な勇実はもちろんのこと、龍治も頭の回りが速いから、二人のやり取りは打てば響くかのようだ。心地よい速さで進んでいく会話に、将太は口を挟まない。うまく挟めないのだが、それでいいと思っている。
ひと区切りしたら、勇実か龍治が必ず、将太にも水を向けてくれるのだ。今日は龍治だった。
「将太、理世さんだけじゃなく、千紘のお供もしてくれて、ありがとうな」
「役に立てて、よかったです。俺のこの大きな図体も、おなごの用心棒役にはぴったりですから。荷物も、いくらでも持てますし」
ちょうど宴を始めようとしたところでの到着だったと言えば、龍治はぽんと自分の太ももを叩いてみせた。急いで来た甲斐があったぜ、と得意げな顔をする。
汗みずくになっている龍治の顔や首筋を、千紘が手ぬぐいで拭いてやろうとした。龍治は照れくさそうに苦笑し、手ぬぐいを千紘の手から取って、自分で汗を拭いた。
「じゃあ、食べようか。酒も茶も白湯もあるから、好きなものを飲んでくれ。将太、何でも多めに作ってあるそうだから、好きなだけ食ってくれ」
勇実の合図で、将太は箸を手に取った。
大平家では、食事の席で口を利くということがない。だが、勇実や龍治のもとで食事をすると、にぎやかだ。