本所から湯島への家移りのとき、将太は荷運びの手伝いで、新たに勇実が拝領した屋敷に行ったことがある。
その折はまだ掃除の途中で、畳や障子も替えていなかったので、ひどいおんぼろ屋敷に見えた。生け垣は枝の折れたところがあり、板塀は腐って割れて中がのぞけていた。
二、三年の間、その屋敷には誰も住んでいなかったらしい。たったそれくらいの間ほったらかされるだけで、家というものはこうも荒れるのか。幽霊か妖怪か狐か狸が巣食っていそうな屋敷の様子に、将太は内心、ぞっとしていた。
大らかな勇実は、多少古びたものでも汚い場所でも気に留めない。とはいえ、さすがに新居の荒れ具合には苦笑していた。
「菊香さんは戸惑うだろうなあ。まあ、じっくり気長に構えて、追々住みやすい家にしていくさ」
新妻の名を口にしたのは、面倒くさがりな自分を奮い立たせるためだったのかもしれない。
ただ、家移りの日の様子だと、菊香は蜘蛛だろうが蚯蚓だろうが少しも恐れていなかった。埃だらけなのも床に穴が開いているのも大して気に留めず、平然として掃除を進めていた。肝の据わった人だ。
あれから二月ほどを経た今、屋敷は見違えるようにきれいになっていた。
勇実が描いてくれた道案内の絵図のとおりに進んでいくと、元気のよい青葉を茂らせた生け垣と、木目のくっきりとした真新しい板塀が目に留まった。
簡素な木戸門は開かれていた。
庭先に、勇実が出てきていた。背丈ほどの高さのくちなしの木を、見るともなしに眺めている。その穏やかな横顔に、将太は何だかほっとした。
「勇実先生、待っていてくれたんだな」
「案外、楽しみにしてくれていたのかもしれないわね。兄上さま、まいりましたよ!」
千紘が声を掛けるのと、勇実がこちらに気づくのと、同時だった。
「おお、来たか。暑い中、わざわざありがとう。理世さんも、久しぶりですね」
柔らかな物腰の勇実に、理世はぺこりとお辞儀をした。
「わたしまでお招きくださり、ありがとうございます。このあたりは初めて来たんです。江戸にも坂道があるんですね。少し驚きました。わたし、あまり本所から出ないので」
「この湯島だとか、ここより少し北に行ったあたりの上野や根津や本郷、ここより西の牛込、神楽坂のあたりは、坂道ばかりですよ。将太、たまには理世さんを連れて江戸の見物をすればいい。手習所のほうにも慣れてきたんだろう?」
水を向けられた将太は、どう答えたものかと思った。勇実を安心させたいが、嘘偽りを言うわけにもいかない。
「確かに慣れてはきたんですが、ゆとりがあるかと言えば、まだまだそうでもなくて。近頃も毎日、筆子たちが帰った後に千紘さんと、ああでもない、こうでもないと話し合っています。だから、理世と出掛けるのも久しぶりで」
「将太兄上さまは頑張っていて、いつも忙しいんです。わたし、わがままなんて言えません。お出掛けはときどきでいいんです。今日みたいに」
健気なことを言う理世に、将太は「すまんな」と謝った。理世はにっこり笑ってくれながら、首を左右に振る。
勇実が目を門の外へ向けている。探し物をするような目だった。千紘が先回りして夫の名を口にした。
「龍治さんなら、捕物のことでちょっと立て込んでいて遅れると言っていました」
「岡本さまに呼び出されたのか? また捕物の手が足りていないとか」
巷で「厄除けの岡達」と呼ばれる岡本達之進は、北町奉行所の定町廻り同心である。年は四十を超えているが、すらりとした姿は洒落ていて、男ぶりもよければ気前もいい。しかも腕が立つとあって、町人の間で人気が高い。将太も幾度となく捕物の場で顔を合わせている。
千紘の夫であり、勇実の親友である矢島龍治は、父与一郎が師範を務める剣術道場の跡取り息子だ。道場では、「相手が悪党であっても決して斬ってはならず、捕らえて裁きの場に引っ立てる」というのを是としている。その教えの甲斐もあって、道場では与一郎の先代の頃から奉行所の捕物に手を貸している。
以前は勇実もともに捕物の場へ駆り出されていたものだ。しかし、正月に悪漢と戦って大怪我をしてしまい、しばらく臥せっていた。あのときは本当に、勇実が死んでしまうのではないかと、恐ろしかった。
起きて動けるようになった今も、勇実は怪我をする前より痩せたままだ。道場で一、二を争う手練れだったが、目方も膂力も落ちた今、どうなのだろうか。
湯島に移っても素振りや型稽古などは続けているらしい。だが、すっかり弱っていた頃の勇実の様子が、まだ将太の頭から離れない。またひどい傷を負ってしまうかもしれない危地へ、勇実を連れ出すことなど、できるはずがない。
そのあたりは、龍治が特に強く感じているらしい。こたび、岡本から「腕の立つのを幾人か寄越してほしい」という求めがあったとき、手が足りないのではと思われてさえも、「勇実さんには面倒をかけない」と宣言したくらいだ。
千紘が勇実の問いに答えた。
「岡本さまのところ、赤ちゃんが生まれて、まださほど経っていないでしょう? なのに、目が回るほどの忙しさで、ろくに赤ちゃんの顔を見ることもできていないんじゃないかって、岡本さまの下で捕り方を務める皆が気にして、何とかして仕事を肩代わりしよう、早く帰してやろうと、動き回っているんです」
「ああ、そうだったな。岡本さまのところ、男の子と言っていたっけ。元気なのか?」
「母子ともにお元気だそうですよ」
それはよかった、と勇実は微笑んだ。
あの感じだと、勇実先生のところは赤子はまだなのだろう、と将太は思った。何となくの直感だ。そんなことを勘繰ってしまった自分に、気まずさを覚える。
日頃の勇実はまさしく聖人君子のように清廉な様子だし、妻の菊香も女のなまなましさを感じさせない人だ。とはいえ、それは将太や筆子たちに見せる顔に過ぎないはず、ということくらいは将太でも察している。
将太は気まずさをごまかしたくて、違う話を切り出した。
「それにしても、屋敷がずいぶんきれいになりましたね。生け垣や板塀もすっかり見違えて、本当にこの屋敷だろうかと思ったんですよ」
「そうだろう? まず直したのが生け垣と塀だったんだ。私ひとりの住まいなら、外からのぞかれるくらいどうってこともないんだが、大事な菊香さんを不埒なよそ者に見られてしまうわけにもいかないからね」
さらりと言ってのけた勇実の言葉を、将太は思わず繰り返した。
「大事な菊香さん」
勇実は、さも当然とばかりにうなずいた。
「私にとって天女のような人だ。美人は三日で飽きるなどと言う者もいるが、菊香さんはただ美しいだけではないからね。三百年そばにいたって飽きるものか」
凄まじいばかりの惚気である。勇実先生はこんなことを言ってのける人だっただろうかと、将太は目を白黒させた。理世が隣で将太を見上げ、くすりと笑う。
縁側に、すらりとした女の姿が見えた。話題の人、勇実の妻の菊香である。庭で話す声が耳に届いたのだろう。
千紘がぱっと顔を輝かせた。
「菊香さん! 久しぶりね。元気にしていましたか?」
千紘にとって菊香は、兄嫁である前に、自分の親友なのだ。弾むような足取りで庭を突っ切り、菊香のもとへ駆けていく。
菊香も縁側から庭に降りて、飛びついてきた千紘を抱き留めた。
「元気ですよ。千紘さんもお変わりないようで」
「もちろん、わたしはいつだって元気よ。お屋敷の掃除が大変だったと聞いたけれど、菊香さん、くたびれていない?」
「平気です。毎日、手を動かせば動かすだけ、屋敷の様子が変わっていくのです。張り合いがあって、楽しかったのですよ」
ほっそりとしてたおやかそうな菊香だが、お城で番方を務める父に仕込まれた剣術や武術の腕はかなりのものだ。体力もあって働き者でもある。
勇実が誇らしげに言った。
「毎日、勤めから帰ると、朝よりも屋敷がきれいになっているんだ。障子や畳、雨戸を取り替えて、押入れの中や床下、天井裏まで掃除をしたと言っていたな。改めて、私の妻はすごい人なのだと思ったよ」
「勇実先生が臥せっていたときも、看病をする菊香さんはそんなふうでしたよ。なぜそこまでできるんだろうと不思議になるくらい、あれこれ気づいて、一人で何でもやってしまって」
「そういう性分なんだ、菊香さんは。だから、そのぶん私がちゃんと労ってあげたいと思っているんだが、私も気が利かないからな。今日は千紘に、兄上さまは相変わらずぼんやりしているのだから、と叱られるつもりだよ」
理世はにこにこして小首をかしげた。
「でも、菊香さんも、初めてお会いしたときよりも、顔色がよさそうです。無理をしているようには見えないし、楽しそう。きっと、勇実先生との暮らしが幸せなんでしょう」
「そうであってくれるのなら、嬉しい限りだが」
勇実は面映ゆそうに頬を掻いた。
菊香が将太たちのほうに向き直り、きれいな仕草で頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました。さあ、どうぞお上がりくださいまし」