二
昌平坂学問所に勤める白瀧勇実の屋敷地は、学問所からもほど近い湯島の高台に与えられている。本所相生町の屋敷からそちらに移って、二月余りが過ぎたところだ。
勇実は先日の夕刻にふらりと本所を訪れ、将太たちのもとに顔を出した。
「久しぶりだな、将太。おお、この手習所も、何となく変わったじゃないか。筆子たちの字を貼り出しているのか。皆、いい字を書くものだ。おや、この名は知らない。新しい筆子を迎えたんだな」
そのとき将太は勇源堂の掃除をしているところだった。勇源堂は矢島家の離れで営んでいる。矢島家の若奥さまである千紘は、母屋に戻った後だった。
将太は唐突のことにびっくりしながらも、勇実に応じた。
「勇実先生から引き継いですぐの頃は、俺も千紘さんも筆子たちが暴れるのを止められず、障子を破ったり壁を汚したり、なかなかひどかったんです。壁の汚れをごまかすために、こうして皆の字を貼り出してみたら、破ってはいけないからと、ちょっとおとなしくなってくれました」
「怪我の功名ということか。あの子たちと向き合っていると、そんなふうに、思いもかけないことが起こるよな。それがおもしろいし、そのおかげで、はっと胸をつかれるときもある」
勇実は懐かしそうに目を細めた。
「お暇があるなら、筆子たちにも会いに来てやってくださいよ。きっと喜びます」
「そうだな。少し面映ゆい気もするが。ところで、将太はどうだ? 暇がつくれるようなら、湯島に遊びに来てみないか? こちらの暮らしもずいぶん落ち着いてきたんだ」
「遊びに? いいんですか?」
「もちろん。久方ぶりに、皆で一緒に夕餉でもどうかな? 将太と千紘と、龍治さんと、将太の妹御の理世さんも一緒に来たらいい。妻が、腕によりをかけて料理を振る舞う、と張り切っていてな」
妻、と誇らしげに言った勇実に、将太は何だかほっとした。
毎日でも顔を合わせられた日々が、ひどく遠い昔のように感じられた。ほんの二月余りだというのに、一緒に夕餉でもという約束があまりに嬉しくて、将太は胸が詰まった。
そうなるともう、言葉が出なくなる。せめてにこにこと笑って喜びを表そうと思ったのに、目頭が熱くなってくるので困った。
将太の喜怒哀楽はすべて、じかに涙と結びついている。まるで子供だ。大人になれば「ちょっとしたこと」のはずの出来事にさえ、ひどく心を揺さぶられてしまい、涙が湧いてくるのだ。
そのことは、むろん勇実もよく知っている。
「将太、そんなに嬉しいのか? 顔を合わせて話すだけでこうも喜んでもらえると、私も嬉しいぞ」
勇実はからかいもせず、春の日差しのように優しく微笑んだ。将太はとうとう耐えられなくなって、笑いながら涙をこぼしてしまった。
白瀧勇実は、将太にとって恩師の一人だ。この人のようになりたい、と目指している人でもある。
勇実は将太より六つ年上で、二十六。しかし、その齢に似合わぬほど漢学に秀でている。唐土の史学においては右に出る者がないほどに知識が広い。
漢学者としての勇実について、将太が「恐ろしい才と知を持つ人だ」と感じるのは、どんな時代の、どんな立場の人が書いた漢文であっても、さらりと読みこなしてしまうところだ。
たとえば、孔子の言行を弟子がまとめた『論語』は二千年以上前の書物だ。その文章は簡潔で、そのため素読によって子供でも諳んじることができる。だが、簡潔であるがゆえに、後の世にはさまざまな注釈書が編まれることとなった。
「戦の世と泰平の世では、人々のものの考え方が変わって当然だ。同じ時代にあっても、帝のそば近くで政をおこなう文官と、異郷で軍を率いて戦陣を敷く武官では、その筆が生み出す文もまるで異なるものだからね。どちらの文であれ、著者の生きざまを垣間見ることができて、私は好きなんだ」
勇実はさらりと、そんなことを言う。書物に記された中身だけでなく、その書物が著された時代のあり方や著者の人生にまで思いを馳せる余裕があるのだ。
「古典に通じた文官による儒学の書は、まさしく正統といったところだな。要所要所に、まるで詩のような四六文を配してあるのが実に見事だ。また一方、武官が戦場で書き綴る淡々とした日記に、思いがけず孔子の言葉が引かれていたりする。かの人もまた、私たちと同じように、幼い頃には手習いの師匠のもとで素読をしていたのかもしれない。そう思うと、親しみが湧くだろう?」
将太は、勇実が生き生きと唐土の歴史を語るのを見聞きするたびに、『論語』の一節を思い出す。
子曰く、之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。
楽しむという境地に自分はまだ至っていない、と将太は思う。学問を修めることは好きだが、それについて語るとき、どうしても「えい!」と気合いを入れてしまう。勇実のように肩の力を抜いて語れるようになるのは、いつになることか。
いや、しかし、いにしえの漢文というものはやはり、やすやすとは読みこなせないのだ。
将太が学んだ漢文は唐代の書物を教本としていたので、それより古い時代のものは言葉足らずな気がして意味が取りにくい。唐より後の時代の文章は、時代が下るにつれてごちゃごちゃと雑味が増え、何だか流麗さに欠ける気がする。
つまり、将太にとって、唐代に書かれたもの以外の漢文はどうにもしっくりこない。
それなのに、勇実には不得手がない。将太自身、それなりに学びを深めてみたからこそ、勇実の才の凄まじさが身に染みてわかる。
こつがあるのか、何か工夫をしているのかと尋ねても、まともな答えが返ってこない。「勘だ」とか「何となく」とか、首をかしげながら言うばかり。あれはもう神通力の類なのだと、将太は思うことにしている。
とにかく勇実はすごいのである。
初めて出会った頃、将太が八つかそこらで、勇実は十代半ばだった。当時のことはよく覚えていないが、初めのうちから「勇実先生」と呼んでいたはずだ。
十代半ばであれば、まだ手習いに通う側の者も多い。ところが、勇実はとうに自分の手習いなど終えてしまって、父源三郎の営む手習所で、父とともに筆子たちに読み書きそろばんを教えていた。
将太が十二の頃に勇実がぽろりとこぼしたのは、「今の将太の年の頃に、教える側に回ったんだ」という一言だった。十二の将太は勇実の早熟ぶりに舌を巻き、きっと一生かなうことはないと思い知ったのだ。
勇実の父の源三郎もまた、この上ないほどの師匠だった。幼かった将太がどれほど頓珍漢なことを尋ねても、きちんとその問いを解きほぐし、物事の核心を答えてくれる人だった。
「源三郎先生は、辛抱強くて優しい。俺のこと、待ってくれる。そんな大人がいるって、俺、思ってなかった、でした。ああ、えっと、思っていませんでした」
年のわりに拙い言葉で告げれば、源三郎は、春の日差しのように優しく微笑んでくれた。
源三郎の丁寧な導きを得て、将太は次第に鬼子から人の子へと生まれ変わることができた。
字を書くのと、話を聞くのと、耳で聞いた言葉を覚えるのと、将太は同時にできない。三つの事柄をしっかり切り離せば、うまくできる。それに気づいてくれたのが源三郎だった。
源三郎は、将太がどれほどひどい字を書いても、間違った文を綴っても、途中で止めずに最後までやらせてくれる。ひと区切りついてから、「この字はこうだ」「ここはうまくできるようになった」と話を聞かされると、将太の頭はごちゃごちゃにならずに済んだ。
「誰にでも、得意なことと苦手なことがあるものだ。苦手なことにばかり目を向けて、うつむいてしまう必要はない。将太の得意なことを、得意なやり方で伸ばしていこう」
繰り返し説き聞かせてもらった言葉は、今でも将太の宝物だ。
源三郎は根気強く、将太の得意なやり方を探してくれた。
ものを覚えるとき、繰り返し紙に書くほうがいい者と、耳で聞いて声に出して繰り返すほうがいい者がいる。将太は後者だった。四書五経でも、百人一首でも、源三郎の好きな『万葉集』でも、将太は源三郎の声によって覚えた。それらを口ずさみながらまず頭に浮かぶのは、文字の連なりではなく、源三郎の穏やかな面差しだ。
一事が万事、そんなふうだった。人一倍、目も手もかけてもらった。遅れに遅れていた学びは、源三郎がじっくり腰を据えて見守ってくれたおかげで、人並みに追いついた。より深く、より多くを学びたいと望めば、「では遊学に出てみるのはどうだ?」と勧めてくれた。
遊学。江戸を離れ、よその地に赴いて、学ぶためにこそ日々を過ごすことだ。
「将太よ。京に親戚の伝手があるそうじゃないか。ああ、お父上ともお話ししてみたのだよ。お父上は戸惑っておいでだったが、反対はしていらっしゃらない。だから将太、すぐにとは言わんが、京に出てみるのはどうだろう? むろん江戸にいても学問はできる。しかし、将太に江戸は狭すぎるように見えるのだ」
いにしえより日の本の都である京はまた、いにしえより学問の町でもあった。江戸ほど人の多いところではないが、学問にせよ戯作にせよ、優れた書物が京の版元から世に出されている。
遊学など思い描いたこともなかったが、源三郎の穏やかな声で説かれた途端、自分が行くべき道が見えた。
本当は、遊学に出るまでじっくりと、もっとたくさんのことを源三郎に教わっておきたかった。
恩師との別れは、唐突に訪れた。
もともと体の強いほうではなかった源三郎は、将太が十四の頃、風邪をこじらせて亡くなったのだ。
将太は泣いた。何が起こったのか呑み込めないまま、取り返しのつかないことだけは理解できて、ただ泣くよりほかなかった。
うまく立ち直れないままの将太を、勇実が京への旅に送り出してくれた。
「今だからこそ旅立つんだ、将太。おまえはここで立ち止まっていてはいけない。おまえが尊敬していた源三郎先生は、おまえに何を望んでいた? さあ、精いっぱい学んで、楽しんでこい」
ほとんど荒療治のようにして京へ送り出されたことが、将太の心を守った。
恩師の死を忘れ去ったわけではない。が、新しく目に飛び込んでくるものたちの鮮やかさに、将太は夢中になることができた。
十五の年から二年ほど、将太は京で遊学していた。
聞いていたとおり、京の都は江戸ほど大きくはなく、人もさほど多くはなかった。しかし、学問も芸事も洗練されていた。版木屋が多く、江戸でも名の知れた書物が実は京で刷られていた。
さまざまな種の学問が京に集まっているのは、ご公儀の目が届きにくいからかもしれない。将太が寄宿した屋敷の主が、そんなふうにこっそり言っていた。
千代田のお城は江戸を隅々まで睥睨している。それに比べて京の都では、江戸から遣わされる京都町奉行こそいるものの、江戸ほど武家の役人に見張られてはいない。
京では、オランダ流医学を漢方医学に取り込むことが、昔から盛んなのだという。日の本で最初の観臓は京でおこなわれたほどだ。観臓というのは、亡骸の腹を裂いて臓腑のありさまを知ることだ。オランダ流医学の外科においては、必ず観臓をおこなうものとされている。
儒学の教えに照らせば、いかに罪人といえど、体をばらばらにすることは忌避の念が湧く。
「オランダ流の医者には、そういう思いはないのでしょうか?」
戸惑いながら尋ねてみれば、寄宿先の主はあっさり答えた。
「仕組みを知らずば、病を治すも何もあるまい。人の体を治すべき医者が、人の体のありさまを知らぬというのは、怠慢ではないか」
儒者でありながら、オランダ渡りの珍品が大好きな人だった。変わったものを手に入れては、将太やほかの若い学者たちを驚かせることを楽しみとしていた。
そんな風変わりな人のところに身を寄せていたおかげもあって、なるほど、と目を開かされることもしばしばだった。
むろん、将太は自分の考えの及ぶ範囲など大したことはないと知っている。だが、源三郎や勇実から教わったことでさえ、小さな箱の中に収めてしまえる程度のものだと知ったのは、衝撃が大きかった。
将太が恩師たちにもらったのとは違う箱を、ほかの人間は持っているのだ。勇気を出して他人の箱を見せてもらえば、おもしろい驚きの連続だった。将太は、出会う人ごとにおすそ分けをもらい、江戸にいた頃より一回りも二回りも大きな箱を手にすることになった。
そして将太は江戸に戻ってきた。三年前、十七の年の初冬のことだ。
出迎えてくれた勇実の笑顔は、思い出の中にあるものよりもずっと、源三郎に似ていた。将太は勇実に、以前から考えていたことを告げた。
「これからは江戸で学び続けながら、手習いの師匠をやろうと考えています。勇実先生の手習所で見習いをさせてもらえませんか」
勇実は快く将太の申し出を受け入れてくれた。
「もちろんいいとも。将太がそんなふうに申し出てくれるとは、父もきっと喜んでくれる」
その日に勇実が拓いてくれた道をまっすぐに、今、将太は進んでいる。