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「いやー、みなとやまさんも喜んでましたよ。演じ甲斐があるって。ホンにはうるさいあの人が新人ライターの脚本にあんなに喜ぶのは初めてじゃないですかねえ」
 プロデューサーの糸原いとはらさとしが汗をかきながら嬉しそうに言った。四十代後半にして頭髪はほとんど禿げ上がり、お腹はぽこんと突き出ているが、眼鏡をかけたその愛嬌のある童顔はつきたての餅のようにきめ細かい肌で、実年齢よりも彼を若く見せている。いつも汗をかいているのもこの男の場合、暑苦しいというよりも一生懸命という印象だ。
 湊山直彦なおひこは役作りに時間をかけるうるさ型のベテラン性格俳優で、脚本にもいちいち口を出してくることで有名だ。今年五十八歳になると聞いたが、身体も鍛えているらしく、老いはまるで感じられない。私生活もまるで不明だが、ベテランになっても野心と好奇心は旺盛で、一人芝居だのコメディだのアクションだのと意欲的に仕事をしている。そして憑依ひようい型と呼ばれる、全身で役になり切る演技力はすさまじいものがある。
 小劇場で女優をしていた恭子からすると憧れを通り越して、怖くて震えあがってしまうほどの存在だが、同時に自分の書いた脚本に湊山直彦が出てくれたらどんなに嬉しいだろうとも思っていた。とりあえず当たるだけでも当たってみようということになり、オファーをしたところ快諾だったというのだ。
「僕はオッケーしてくれると思いましたよ。湊山さんは脚本の内容で決める人だから。誰が書いているとか関係ありません。前の稿よりもグンと良くなってますしね。こういうシナリオの改訂作業は演出する側としてもテンション上がるんですよねえ」
 湊山直彦が自分の脚本に出演してくれることは夢のように嬉しいし改めて身の引き締まる思いだったが、恭子が何よりも嬉しいのは監督の階堂健かいどうけんがこう口にしてくれたことだ。
 二階堂と出会ったのは半年ほど前の去年の九月、恭子が賞をとった東西テレビシナリオ大賞の授賞式のあとのパーティーだった。
 子供ができて劇団を辞めるまでは、小劇場とはいえ公演のたびにヒロインを演じていた恭子が、そのときは久しぶりに主役の座に戻ったひとときで、多くのプロデューサーやディレクター、シナリオライターたちが入れ代わり立ち代わり恭子のもとに来ては「おめでとう」と言ってくれたり、「何かご一緒しましょう」と言って名刺を渡してきたりした。二階堂もその中の一人で、糸原とともに恭子の前にやってきたのだ。
「監督をさせていただく二階堂です。よろしくお願いします」
 そう言って百八十センチくらいある長身を折り曲げるようにして名刺を差し出してきた二階堂を、そのときは「ああ、この人が監督するのか。ずいぶん若い人だな」と思った程度だった。糸原はそのときも汗びっしょりになって、「プロデューサーの糸原です。いやー、いいホンですねえ」と言ってくれた。
 恭子が最優秀賞を受賞した東西テレビシナリオ大賞は、受賞作は必ず映像化されて深夜の時間帯ではあるがテレビの地上波で放映されるのだ。
 年が明け、夏の撮影に向けてシナリオを改訂していく作業が始まると、恭子は途端に二階堂に対して好感を抱くようになった。二階堂から出てくる直しのアイデアは的確でなるほどと思えるものばかりで、自分の書いたシナリオを丁寧に読み込んでくれていることに感動すら覚えた。パーティーで出会ったときの二階堂は自分より一回りくらい年下の若手ディレクターに見えたが、実際は二歳だけ下の三十五歳だった。
「やっぱり村沢むらさわさんの書かれるセリフが良いんですよね。なんだか生々しくて」
 二階堂は恭子のことを村沢という旧姓で呼ぶ。旧姓でコンクールに応募していた恭子は、授賞式でも村沢恭子という名で名刺を作って配ったのだ。
 旧姓でコンクールに応募したのは、大山恭子という今の名前で応募したら、もしかしたら夫の孝志にバレてしまうのではないかと思ったからだ。孝志のもとには、多くのシナリオコンクールの審査経過が掲載される『月刊脚本』という雑誌が毎月送られてくる。恭子の応募したシナリオコンクールも一次審査から通過者全員の名前が掲載された。シナリオコンクールの通過者なんかに孝志が目を通すことなどないと思うが、万が一ということを考えて旧姓で応募したのだ。
 きっと自分がシナリオコンクールに応募したことを孝志は良く思わないだろう。旧姓でも孝志が気づけばバレてしまうのだが、それでもそのときは大山という苗字よりも旧姓を選んだ。
 その旧姓で呼ばれることにも恭子は嬉しさを感じていた。ここ何年も恭子は知人から「太郎君ママ」とか「大山さんの奥さん」なんて呼ばれていた。自分の旧姓に愛着などなかったが、大山姓にはもっと愛着はない。旧姓で呼ばれるだけで自分が自分として、個人として認められているような感覚になるというのはあまりに単純だろうか。それほどまでに褒められたり認められたりすることに飢えていたとは思いたくないが、単純ついでに言うと、自分が書いたセリフをいつも褒めてくれる二階堂に、恭子は今では好感以上の感情をうっすらと抱いている。
 二階堂は長身ではあるが、見た目はそう格好良くもない。でも、大きな手を使って身振り手振りで話すその様子は恭子を心の底からホッとさせた。そして笑うと目じりにしわが寄って優しそうな顔になる。以前の孝志も笑うとそんな顔になった。でも、最近の孝志の笑顔にはいつも卑屈さが滲んでいるように見える。
「普通のテレビドラマって、どんなに良いセリフでもその言葉以上の意味はないんですけど、村沢さんの書かれるセリフはごく普通の言葉なのに裏の意味があるような気がするっていうか……なんかいいんですよね」
 そう言いながら二階堂は台本のページをゆっくりとめくっている。二階堂が見つめているのはもちろん台本なのだが、恭子は自分が見つめられているような気持ちにすらなる。シナリオの直しだってお化粧だってスプリングコートを着ることだって、ほとんど二階堂のためにしているような気がする。
「あとひと踏ん張りなんで、直し頑張っていきましょう。この脚本を演出できるなんて最高に嬉しいです」
 二階堂はいつもの笑顔を浮かべて恭子にそう言った。
 脚本というものは、出演者へのラブレターだと孝志はよく言っていたけれど(その言葉は後に受け売りと分かった)、本当にそうだと思う。二階堂からのこの言葉が、恭子は自分の書いたラブレターに対しての熱烈な返事のように聞こえていた。

 

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