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 恭子はもともと小劇場で役者をしていたのだが、孝志と結婚して太郎ができたことを機に役者を辞めた。辞めたという言い方は正確ではないかもしれない。役者で生きていくことを諦めるいい機会だと思ったのだ。
 もっと言うと、諦めるために子供を作ったようなところもある。
 お金の心配をしなくていい状況での主婦業は、気楽だし、それなりに楽しかったが、ずっと小さな違和感はあった。自分の人生はこれで終わってしまうのだろうかという思いだ。
 専業主婦がそんなふうに思うシチュエーションをドラマや映画でよく見かけるが、見るたびに「でも、そんな人生を選んでいるのはあなただよ。気づいているなら変わりなよ」などと思っていた。だが、それが上から目線だったことが今は分かる。これでいいのかなとぼんやりと思いながら毎日を過ごすうちに、それが人生ってもんだよね、子供生まれたばっかりだし仕方ないよね、今は子供を愛すことが一番の仕事だよねと自分に言い聞かせるようになってしまうのだ。

 そんな自分が脚本を書いてみようと思ったのは、孝志の影響だ。正確には孝志の作ったドラマの影響だ。
 演劇をしていたのだから、脚本というものには当然なじみがあったが、書いてみようと思ったことは一度もなかった。台本を書けるのは、すごい人たちばかりだという漠然とした思い込みがあった。あの人たちは本気で表現したいことがある。演じる自分はなにかを表現したいというよりも、ただただ拍手を浴びたいという気持ちのほうが大きかった。そんな思いで芝居をしている自分には、台本を書く資格はないと思っていたのだ。
 だが、まだ太郎が一歳で保育園にも入れていなかった頃、育児の合間に恭子は海外ドラマにはまった。『ウォーキング・デッド』や『ブレイキング・バッド』など様々なドラマを貪るように見ては、ドラマの中の人物を自分が演じている姿を妄想していた。
 そんな頃、孝志の作った深夜ドラマも見た。その頃の孝志は、忙しくてあまり家にも帰って来なかった。撮影は深夜、ときには朝までかかることもある。帰って来られないのも当然だと思っていた。むしろ全然家に帰れないくらい売れっ子の孝志を誇らしくも思っていたが、慣れない育児のワンオペは大変だった。親に頼りたかったが、地方在住のため無理だった。
 そんなときにふと見た孝志のドラマはひどくつまらなかった。小劇場とはいえ舞台の役者というキラキラした世界から、誰にも見てもらえない主婦という世界に移り住み、家事育児に追われつつもがいている恭子にはなんの力も与えてくれないドラマだった。
 尊敬しているはずだと思っていた夫の作っているものがこれなのかと思った。これでお金を稼いできてくれているのは分かるが、でも、全身の力が抜けるほどがっかりしてしまった。
 そのときふと、以前に孝志が言っていた言葉を思い出したのだ。結婚前に孝志が講師を務めていた演技のワークショップに行ったときのことだ。
「人は誰でも一本は傑作の脚本が書ける。それは自分のことを書けばいい」
 したり顔で言っていた孝志のその言葉は、後に偉い脚本家の受け売りだと分かったが、今なら自分にも何か書けそうな気がした。無性に物語を書いてみたくなった。こういう衝動は芝居をしていたときにも感じたことがある。シナリオを読んで、役が水のように身体に沁み込んできて、「あ、この役、絶対にできる」と感覚的に思えるときがあるのだ。そのとき、久しぶりに恭子はそれと似たような感覚になった。
 恭子はボールペンを手に取ると、ノートを出すのももどかしく、目の前にあった広告の裏に文字を書き始めた。
 思いつくままに書き連ねただけだったが、楽しかった。心臓が高鳴った。ミルクを欲しがる太郎にも気づかなかったほどだ。
 たったそれだけのことで、その日、恭子は久しぶりに生きているという心地がしたのだった。


第一章

1

 三月十日午前九時、大山おおやま孝志は六歳の息子の太郎を保育園に送ると、その足で練馬駅から西武池袋線に乗って池袋駅東口の改札近くにある売店で佐野さのマリモと待ち合わせて、コンビニに寄りサンドイッチやおにぎりを買い込んでラブホテルへとしけこんだ。
 マリモと会うのは一週間ぶりだ。はやる気持ちであればシャワーを浴びることもなくそのままセックスになだれ込むのだが、最近はもうそういうこともなく、部屋のテレビをつけてなんとなくワイドショーを見ながらサンドイッチやおにぎりを食べるのが常だ。最近のワイドショーの話題はもっぱら新型コロナウイルスのことばかりで、欧米が感染者何千人とか大変なことになっている。一か月前まではまだどこか他人事であったが、ディズニーランドが休園になったり、数日前に学校が一斉休校になったりしてから、孝志の周辺でもドラマや映画の撮影がもしかしたら止まるかもしれないという話もチラホラと聞こえてくるようになって、さすがに焦りを感じていた。保育園はできるだけ登園自粛を奨励しているが、今のところまったく自粛はしていない。ただ二週間後に控えている太郎の卒園式は例年よりも縮小した形で行うという通達が昨日来た。
 四月の初旬には小学校の入学式があるが、それも縮小した形になるだろうなぁなどとマリモと話し、彼女から先にシャワールームに向かうと、次に孝志も浴びて、ベッドの中でスマホをいじっているマリモに被さってキスをして、形の良いオッパイを揉んでなめて、徐々に下に降りて下半身を触ったりなめたりして、次に自分の下半身をなめてもらって、そのまま騎乗位で入れて、下手をすればそのままイってしまうこともあるが、たいていはバックをはさんで正常位でイク。その流れは、ここ半年ほどしていないが妻の恭子とセックスするときとほとんど同じだ。マリモと付き合い始めた頃はスマホでハメ撮りなどして遊んで、その動画を第二ラウンドのきっかけにしたりもしていたが、近頃はハメ撮りはおろか第二ラウンドまでいくこともほとんどない。