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「でね、社長がもし恋人とかいるならちゃんとしとけって」
「なに、ちゃんとしとけって?」
「絶対注目されるから文春砲とか気をつけろって、笑えるでしょ。そんなのないよって思ったけど、変なクスリとかやってないだろうなって聞くんだよ。やるわけないじゃんね」
「ハハハ。まあいきなり文春砲はねえ」
 孝志は余裕のある振りを続けて言った。
「うん。あり得ないと思ったけど万が一って言うし。動画とか……残ってないよね?」
「当たり前じゃん。全部消してるよ」
 マリモはしばし沈黙すると、「それに……」と言って、そのあとを言いよどんだ。
「なに?」
「どうせ長く続けられないでしょ。こんな関係」
 孝志はその問いに咄嗟とつさには答えられなかった。「こんな関係」という部分を、わずかにだが吐き捨てるような感じでマリモが言ったように聞こえた。
「大山さんにとって私なんて都合よくセックスできる相手でしかないだろうし」
「いやそんなことはないよ」言い当てられているが、そこは強く否定しておかねばマリモに失礼だ。
「でもだからって奥さんと別れてほしいとかぜんぜん思ってなかったし」 
 マリモは孝志の取ってつけたような否定など耳にも入っていないかのように、今度ははっきりと強めの口調で言った。
「もちろん大山さんのことは嫌いじゃないけど、こういう関係になったのって、正直言えば大山さんの映画に出られたりすることもあるかもなって思ったのも大きかったし」
 それは十分分かっていたし、そうしてあげたいとも思っていた。だがその期待にはまったく応えることができなかった。そのことは申し訳ないというか、力の無さを露呈したようで恥ずかしく思っていたのだが、こうもはっきりと言われるとなんだか清々しいものまで感じる。
「だから今日、最後にしよ」
「んー、まあそうか。忙しくなるだろうしね」
 まだ余裕のある振りを続ける自分を孝志は少し惨めに思った。
「うん。その代わり、今日はなんでもしてあげる」
 そう言うと、マリモは布団に潜り込んだ。
「え、なにこれー! メッチャ小さくなってんじゃん!」
 マリモは布団から顔を出すとおかしそうに言った。
「だって悲しいからさ」
 孝志は平気な振りを続けて冗談めかしてそう言ったが、下半身の哀れなまでの縮み具合がその言葉が本心であることを証明していた。


2
 同じ日の午前十一時、大山恭子は読書をしながら一時間近くつかってたっぷりと汗をかいた長風呂から出ると、顔に化粧水を塗り、何か特別なことが起こることはないと分かっていながらも、お気に入りの下着をつけて、鏡に向かって化粧を始めた。
 脚本の打ち合わせがある日は、いつもこうしてお気に入りの下着をつけて、いつもより時間をかけて化粧をしてしまう。もちろん気合を入れた厚化粧などではない。時間をかけたナチュラルメイクをすることで、最近ちょっと戻ってきた自信がさらに上塗りされてなんだかワクワクした気分になる。
 中学生や高校生の頃、気になる男子と隣の席になると、毎朝、学校に行くのが楽しみでならなかった。初めて香水をつけたのもあの頃だ。母親の香水を勝手につけてみたのだが、ふわりと漂ってくる香りに包まれると、なんだか少しだけ大人になったような気がして、鏡に映る自分がいつもよりきれいに見えた。
「やっぱかわいいよな、あたしって。ニコラいけんじゃん」
 なんて思わず声に出してしまうくらいだったけれど、今の自分の気分はあの頃とちょっと似ている気がする。だから今日は、あの頃みたいにあえて声に出してみた。
「やっぱけっこうきれいだよね、あたし。まだぜんぜんイケるじゃん」
 頬がカーッと熱くなって誰も見ていないのに恥ずかしくてたまらなくなった。いくら元女優とはいえ、さすがに三十七歳の子持ちが言うセリフじゃなかったと軽く後悔したけれど、でも、そんな自分すらも今は少しかわいいと思える。やっぱりあたしって根っからの俳優気質なんだろうなと恭子は思った。冴えないヒロインが何かをきっかけにどんどんきれいになっていくというような、ありふれてはいるけれど妄想せずにはいられない設定のドラマの中に自分がいるような気がした。
 玄関を出るときに、水色のスプリングコートをはおると今度はリアルに「よし」と声が出てしまい恭子は苦笑した。こんなコートを買ったのも十年ぶりくらいだ。恭子が服をあまり買わないのはお金に困っているわけではなく服にそんなに興味がないからだ。いや、興味がないというよりは、着心地が良くて洗濯しやすいシンプルな服があれば十分満足だった。
 恭子から見てもおしゃれだなと思う六十五歳の母親が洋服好きで、クローゼットに満杯の自分の服の中から恭子に似合いそうなものをしょっちゅう送ってくれる。若い頃から母親の配給物で十分だと思っていた。スーザン・サランドンやブリジット・バルドーは何でもないYシャツやジーンズでもカッコいいからそんなふうになりたいと、女優を志した頃から思っていた。
 最寄りの練馬駅から西武池袋線に乗り、打ち合わせのある渋谷に向かう。恭子の行き先は東西テレビという民放キー局だ。そこに向かって歩いているというだけでまた気分も上がってくる。時おりウィンドウに映る自分の姿を確認すると、特に体重が減ったとか容姿に大きな変化があるわけではないのに、二、三年前の自分とは別人に見える。あの頃は、見るたびに老けていくようでウィンドウどころか自分自身からも目をそらしていた。
 東西テレビのビルの入り口に来ると大勢の人が出入りしている。世の勝ち組と呼ばれる人たちの中でも、さらに仕事のできる人たちだけがここを出入りしているように感じる。そして自分もその中の一人なのだと恭子は誇りに思う。思いながらも、こうして出入りしている人間の大半は下請け制作会社の人間やフリーランスのスタッフであることを、小さな劇団で女優をしていた恭子は十分に承知している。売れない小劇場の女優だったころの恭子には、ここは天地がひっくり返っても手の届かない場所だった。脚本家に立場を変えたとはいえ、ようやくたどり着くことができた場所なのだから、ここへ来るたびに湧き上がってしまうそんな選民意識にもちょっとは浸ってみてもいいよねと自分に言った。