「行きたくない! 行きたくない! 行きたくない!」
 保育園の年長にあがったばかりの太郎たろうが登園前に大声で泣き叫ぶ。太郎が癇癪かんしやくを起こすその姿を見ると、恭子きようこは朝からどっと疲れを感じてしまう。
 太郎は去年、年中にあがった頃から少し行き渋りが出てきたなと感じていたが、その状況はどんどんひどくなっているように見える。
 夫の孝志たかしはそんな太郎の状態にどこまで気づいているのか分からないが、恭子と比べるとずいぶんと呑気のんきだ。
「なんだよ、太郎。なんで保育園行きたくないの? じゃあ今日は特別に休んでパパと動物園に行くか」
 そんなふうに言う孝志を見れば、自分以外の人間は「なんて子供思いで優しいお父さんなのだろう」と思うのかもしれない。太郎の癇癪と同じくらい、孝志のそんな言葉は恭子にはストレスだ。
 孝志の仕事は映像関係で、映画やドラマの監督をしたり脚本を書いたりしている。会社に属していないフリーランスだから、忙しいときでなければかなり時間の融通は利く。だから自分の気が向いたときだけこうして太郎を休ませたりすることがしばしばある。
「最近ちょっと休ませすぎだよ。クセがついちゃうよ」
 ただでさえ登園することへのハードルが高い太郎を、これ以上気まぐれで休ませると、ますます保育園に行きたがらなくなってしまいそうで恭子は心配だった。
「大丈夫だよ。このくらいの頃って、なんか行きたくない日とかあるよな。ほら太郎、動物園行こう」
 恭子の気持ちなどちっとも分かっていない孝志はまだ平然とそんなことを言っている。
 業界ではそれなりに知名度もあり、売れっ子と呼ばれたこともあった夫だが、ここ数年、その勢いが落ちていることを恭子は感じている。恭子が感じるくらいだから本人はもっと感じているだろう。一人で過ごす時間が長いとそんな自分と嫌でも向き合わざるを得ないから、こうして気の向くままに太郎を休ませたりすることが増えたに違いない。こういう孝志の気まぐれも、太郎が癇癪を起こす遠因になっているのではないかと恭子は感じている。
 それにどうせ動物園に行っても太郎をほったらかしにして、自分はほとんどスマホを見ているだけに決まっているのだ。
「動物園もヤダ! ヤダヤダヤダヤダ!」
 太郎は癇癪を持続させたまま泣き叫んだ。
「なんだよ、どうしたんだよ。なんでイヤなの?」
 癇癪を起こしている五歳児に「なんで?」と聞いて理由を答えられるわけがない。
 太郎と接している時間が少ないから孝志はこんなに気楽でいられるのだ。ちゃんと向き合って観察していれば、最近の太郎の強い登園渋りには違和感を覚えるはずだ。とは言っても、恭子自身も違和感と育てづらさを感じるだけで、なにか特別な対策を考えているわけではない。保育園の送りは孝志の担当だし、毎朝、泣き叫ぶ太郎を家から出すまでが精神的に苦しいだけで、出て行けば気持ちはスッと楽になる。
「キリンさんいるよ。ライオンもいるよ」
 孝志は太郎に話しかける。
「ヤダヤダヤダヤダ!」
「なんで? どうした?」
「ぜったい行かない!」
「どうしちゃったんだろうね」
 孝志はまだ呑気な様子で言った。
「あたし、仕事あるから出るよ。任せていいよね?」
 恭子は近所にあるクレジットカード会社のお客様サポートセンターでパートをしている。クレームの処理係だ。生活のためのパートというよりは、一日中太郎と二人っきりで家にいて、家事育児ばかりして、子供としか話さない(産後は大人との会話は宅配便の人だけだった)生活が耐えられなかったのだ。
「え、ちょっと待ってよ。俺も仕事あるけど」
「今、動物園に行くって言ったでしょ」
「行かないなら仕事するよ」
「動物園行けるくらいなら急ぎの仕事じゃないでしょ。だったら保育園に連れてってよ。保育園の送りは孝志の担当でしょ」
 どうせたいした仕事ではなく、ゆるい締め切りの企画書を書いたりするだけだろう。
「えー、こんなに泣いてるんだから今日は登園難しいよー。恭子は休めないの? いいじゃんパートくらい」
 孝志は平気でそんな言葉をく。その言い方にイラっとするが、そう言われて、何度か仕事を休んでしまったことがある。そのときは、孝志が本当に忙しかったから自分のパートを平気で犠牲にしてしまったのだ。
「今日は休めないよ。人数ギリギリだし。月末の請求書送付したあとって電話件数二倍になるんだから」
「誰か代わりの人いるでしょ」
 その言葉に、怒りがいきなり湧き上がってきた。
「いないよ!」
 恭子のその大きな声に、孝志だけでなくさっきまで癇癪を起こしていた太郎までもがキョトンとした顔になった。
 恭子は「行ってきます」も言わずに家を出た。
「あ、ちょっと待ってよ」
 背中に孝志の声が聞こえたが、無視した。
 以前の恭子ならば、孝志に懇願されれば仕事を休んでしまっていただろう。孝志を尊敬していたし、人間として正しいと思っていたので、孝志が望む選択を無意識に選んでいることが多々あった。それも自分の意思だと思っていた。今だって、それを大きく否定するつもりはない。自分自身が、今現在何か特別に強い意志のようなものを持って生きているわけではないことくらい分かっている。
 ただ、孝志に対してこんなふうに大きな声を出してしまうようなことはなかった。
 はたから見れば、ストレスがたまったすえにと思われるかもしれないが、恭子はそうじゃないような気がしている。
 もしかしたら、シナリオコンクールに応募した自作のシナリオが最終審査に残ったという連絡を一週間ほど前に受けたから、そのことが少しだけ自信になって、自分の中になにか変化のようなものが起きているのかもしれない。初めて脚本を書いてみようと思ってから三年、孝志には内緒でいくつかのコンクールに応募しては落選しているが、それでも書くのが楽しかった。夜な夜なパソコンに向かって脚本を書くことが一日の中で一番楽しい時間だった。というか、楽しい時間はそこしかなかった。三年は書き続けなさいと脚本の書き方のような本に書いてあった言葉を信じて、黙々と書いてきたが、三年目にして初めてコンクールで最終審査に残ったのだ。受賞したわけではないが、その知らせを受けた日は、気分が高揚して一日中ポワーッと舞い上がっていた。