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第一話 なんか、ゴメン

2(承前)

「足押さえろっ!」
 低い怒号に身体がびくっとした。
「押さえろって言ってんだろうがっ!」
 頭島さんが僕を睨みつけてそう叫んだ。それまでのぶっきらぼうだけれど、決して悪い人ではないし、怖くはないという印象がその形相ぎようそうで吹っ飛んだ。
「早くしろっ!」
 怒鳴り声に我に返った。よく分からないまま四つん這いで近づいて、頭島さんの両足首をつかんだ。
ちげぇよっ! 俺のじゃねぇっ!」
 怒鳴られた拍子にびくついて手を離す。
 頭島さんのでないのなら誰の? 奥さんのとは思えない。もちろん僕のでもないだろう。どうしていいのか分からなくて、僕は動けなくなった。
「よっしゃぁっ!」
 そう叫んで奥さんが頭島さんの背後の床に飛びかかった。
「ここか? こっちか?」
 頭島さんの言う“足”を捜して、それらしきものがありそうな場所を、奥さんがつかもうとしている。けれど何にも触れることなく空を切った手は、バンバンと音を立てて床を打ちつけてるだけだ。まるでカルタ取りをしているみたいだ。
「ざっけんな、コラッ!」
 頭島さんが右膝の位置を変えた。曲げた右足は完全に宙に浮いていた。床についているのは左膝のみだ。その一点だけで全身を支えられるとはさすがに思えない。だとしたら、やはり頭島さんは何かの上に乗っている。
「この野郎っ!」
 頭島さんが、それまで力を込めて床に伸ばしていた右腕を何かから引きがすように振り上げた。握った拳を振り下ろす。
 何もないのだからとうぜん空振りするはずだ。けれど、ある一点で止まった。自ら止めたようには見えなかった。何かにぶつかって衝撃を受け止められたような感じだ。
 頭島さんはまた腕を引いて、何もない場所にパンチを繰り出した。また同じところで拳が止まる。
「勝手に電気を消すんじゃねぇ!」
 さらに三発、四発と殴り続ける。
 あいかわらず床の上には誰もいない。けれど頭島さんの動きに、そこに横たわる人が見えるようだった。――と思っていたら、とつぜん見えた。
 頭島さんにマウントを取られ、動きを封じられた男の顔は鼻血と涙でぐしゃぐしゃになっていた。二十代半ばくらいだろうか。右腕は床に押さえつけられていたが、左手は顔を懸命にかばおうとしていた。僕に気づいた男と目が合う。
「助けて」
 泣き濡れて必死な形相の男に助けを求められた。
「止めて、やりすぎだよ」
 思わず叫んでいた。
 頭島さんが振り上げた右腕を止める。ゆっくりと僕を振り返って、「見えるのか?」と訊ねた。
 その質問に引っかかった。頭島さんには見えている。だからこその今の状態ではないのか。
「もしかして、見えていないんですか?」
「ああ、なんも見えねぇ」
 平然と頭島さんが答えた。
「電気を点ける度に消している奴がいる。何だか分からねぇけど、そいつはそこにいるんだ。だから消えた直後にいそうな場所めがけて飛びかかった。そしたらなんか捕まえた」
 説明は腑に落ちた。だからといって、何もない場所に普通は飛びかかったりしないと思う。少なくとも僕ならしない。それに、なんか捕まえたって……。姿の見えない、得体の知れない何かに触れたら、驚いて手を放さないか? けれども今、頭島さんは捕まえた男の上に馬乗りになっている。
「なんか人っぽいんで、ボッコボコにしてる」
 とうぜんとばかりに言いきった。
 頭島さんのシンプルさに感心すらする。けれど、捕まえたのが人っぽい、ならば殴るという理論はどうなのだろう? 
 部屋の電気を消しただけなのだし、まずは穏やかに話から始めるべきでは? でも不法侵入者だ。だったら殴ってもいいのかも。いや、やはりまずは話し合うべきだ――。
 そんな脳内ディベートをしている場合ではない。このあと、どうすればいいのだろう。
 これまでに僕は、幽霊が見えるという人に何度か会ってきた。でもその全員が、僕には見えているその場にいる幽霊が見えていなかった。
 中には、憎しみに満ちた顔の女性が肩に手を置いて自分の耳元で何かをささやいているのにはまったく気づいていないのに、僕の背後にお坊さんだか武士だかの守護霊が見えると言った奴もいた。
 僕の周りにはいつも幽霊がいた。歴史を遡れば、日本中のどこでも過去に誰かしらが亡くなっている。トータルの死者数で考えたら、幽霊なんてどこにだっているはずだ。それに僕は広島県に住んでいた。土地柄、死者の数は少なくない。それでも常に幽霊が見えるなんてことはなかった。幽霊が見えるとしても、人によって見え方が違うだけなのかもしれないが、僕と同じように見える人に出会ったことはない。
 とはいえ、頭島さんには幽霊は見えない。でも殴れる。こんな話は怪談でも僕は聞いたことがない。
 僕には見えるし話すことも出来る。けれど触れはしなかった。――訂正する。見えたし話すことも出来た、だ。あの日以降、どちらも出来なくなったのだ。それでも、たまに何かがいると感じることはあった。でもそこどまりで、以前のように見えたり話したりは出来なくなっていた。
 なのに今、僕の目には頭島さんに組み敷かれた男がはっきりと見えていた。
「止めたってことは、見えてんだな? どんな奴だ?」
 答えに詰まった。話したら、幽霊が見えると認めることになる。
「ごめんなさい、許して下さい。お願いです、助けて」
 鼻血と涙でぐちゃぐちゃの顔で謝罪と助けを求める男の姿は、今もはっきりと僕には見えている。
 嘘でした。まったく見えていませんと言ったら、頭島さんは再び殴るだろう。すでにぼろぼろの男が殴られ続けるのを見て見ぬふりをするなんて僕には出来そうもない。何より、さすがに可哀相だ。
「見えます」とだけ答えた。
「マジで見えてんの?」
 驚いた顔で頭島さんが聞き返す。
 そのとき組み敷かれていた男の姿が消えた。支えを失った頭島さんは、ゴンッと音を立てて床に転がった。
「痛ってぇ! ――あれ?」
 両手と両膝を突いて辺りを見回している。
「もう、いないです」
「いないって、どこにもか?」
 見回したけれど、室内に男の姿はない。
「畜生っ、逃がしたか。どんな奴だ?」
 めつける頭島さんの眼光は鋭い。その迫力にひるみながら「頭島さんよりも少し年上くらいの男です」と、なんとか答えた。 
「いいか、二度とすんじゃねぇぞ。またしたら、今度こそボッコボコにすっからな!」
 苦々しい顔で部屋を見回しながら、頭島さんがそう吐き捨てた。
 今度こそと言ったけれど、今の段階ですでにぼっこぼこだったと僕は思う。
「くっそ、腹立つな」
 床にぶつけた膝を手でさすりながら立ち上がる頭島さんに、「すっげぇー!」と奥さんが感嘆の声を上げた。
「幽霊ボコれるって、マジですげぇな! いや、本当にすげぇ!」
 興奮して褒め讃え続ける奥さんに、頭島さんが「いや、やってみたら出来たってだけです」と、真面目な顔で応えた。
「足押さえろって言われてそうしたんだけれど、何も触れなくてさ。けど、丈は何かの上に乗ってたし、殴ってただろ? 寸止めじゃないのは見りゃ分かる。あれはばっちり顔面にヒットしてるだろう」
 見た目と愛車から、奥さんはヤンキーに見える。でもこれまでの言動で、あくまでファッションだと僕は判断していた。けれどどうやら見た目と中身も一致しているらしい。
「光希もすげぇな。見えんのかよ。なんだよ、それなら早く言えよ」
 見えると認めたら面倒なことになるのは経験済みだ。なんとかしないとマズい。
 頭島さんはたった今、やってみたら出来たと言っていた。ならば僕もそうしよう。
「いえ、とつぜん今、見えました」
 しれっと嘘をく。
「そうなんだ。そっかー、いやー、びっくりしたわー。とにかく二人ともすげぇよ。マジですげぇ!」
 あっさりと信じてくれた奥さんが、感嘆の声を上げ続ける。
 気になって頭島さんをちらりと見る。腕組みして僕を見つめる顔には見て分かるような表情は浮かんでいない。でも何も言ってこないのなら、こちらも大丈夫そうだ。などと思っていると、「で、こんな部屋なんだけど、どうする?」と、奥さんが訊いてきた。
 幽霊がいると分かったうえで泊まるのか? ということだろう。そもそも僕は幽霊に慣れている。まして電気を消すだけならなんてこともない。それにあれだけ殴られたのだから、すぐに戻ってはこないだろう。
「さすがに今夜は戻ってこないと思います。泊めて下さい」
 そう頭を下げて言うと、「オッケー」と、二つ返事で奥さんが承諾してくれた。
 そのあと一時間ほどダラダラしてから二人は帰った。二人がいる間に電気が消えることはなかったし、男の姿も二度と見えなかった。
 それ以来、部屋の電気は勝手に消えなくなった。頭島さんの暴挙に恐れをなして出て行ったらしく、あれから、僕は男を一度も見ていない。

 

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