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第一話 なんか、ゴメン

2(承前)

 頭をフル回転させる。外に逃げられないのなら店の中だ。いざとなったら店員に助けを求めればいい。
「大丈夫です」
 なんとかそれだけを喉から絞り出した。これで失礼にはならないだろう。
 店へ向かって足を踏み出すと、ヨウヘイさんがついて来た。どういうこと? とおびえながら店内に入る。少し遅れて店内に入ったヨウヘイさんが「ほら」と、僕に買い物籠を差し出した。意味が分からなくて顔を見る。
「弁当でも飲み物でも、なんでも好きな物入れな。買ってやるから」
 ヨウヘイさんは僕のひじをつかんで弁当の陳列棚へと歩き出す。押されるようにして僕も進む。
「やっぱり肉だな」
 そう言って焼肉弁当を籠の中に入れ、さらに「これ、美味うまいんだよ。俺のお薦め」とオムライスも籠に入れた。何が起こっているのか僕にはまったく分からない。でもとにかく断らなくてはならない。
「朝ご飯、食べてます。お腹いっぱいです」
 なんとか伝えた。「だったら、昼か夜に食べな」とヨウヘイさんが即答した。
「あー、でも今買ったら温められないか。それにこの陽気で半日とか持ち歩いたら危ないしな。パンとかの方がいいか」
 弁当を棚に戻すと、パンの陳列棚へと歩き出す。もちろん僕の肘はつかんだままだ。
「好きなの入れな」と言われたけれど、すんなり従えるはずもない。そもそもなぜこんなことをされるのかが分からない。
「お前、一昨日おとついの朝も同じくらいの時間にこの辺りをうろついてたよな」
 ただ立ったままの僕をよそに、ヨウヘイさんはパンをいくつか適当に籠に入れながら言った。
「今日の現場の下見に来てたんだ。そんで一時間くらいして全部終わって帰ろうとしたときにもまた見かけた。何か用事でこの辺りを歩いてたってだけかもしれないけれど、ただ、荷物が」
 視線を向けられた。リュックサックの肩紐を両手でぎゅっと握りしめる。
「中身がパンパンのリュックサック一つで、しかも歩いている最中、ずっと肩紐を手でつかんでいた。今みたいに」
 指摘されて、あわてて肩紐から手を離した。思わず紐に目をやると、力を込めて握っていた箇所が細くなっている。形がつくほど強く握りしめ続けていたのだ。 
「今朝も同じで、違うのはTシャツの色くらいだ。それで家出だって気づいた」
 ヨウヘイさんはにかっと笑うと、またパンを籠に入れた。チーズやソーセージの載ったしょっぱい系と、クリームやチョコが入った甘い系のパンを三つずつ入れて、「あとは菓子とかカップ麺だな」と言って、店内を移動し始める。
「あの、僕」
 この状況をなんとかしたい。けれど肘をつかまれ、背後には金髪、出入口の近くには黒髪がいる。こうなったら大声を出して店員に救いを求めるしかない。でも、そうなったら駆けつけた警官にとうぜん僕の名前や住所を聞かれる。それは避けたい。
「俺も昔、家出したんだ。それにウチにはそういうのが多いから」
「俺も」
 背後から金髪がひょいと顔を出した。日に焼けて毛先が白っぽく見える金髪のせいで、ヨウヘイさんよりも見た目はかなりヤンキー寄りだけれど、垂れ目でファニーな顔立ちをしている。
「ウチの社員は俺も含めて全部で七人。家出をしたことがないのは一人だけだ」
 ――それは「そういうのが多い」ではなく、「ほとんどそう」では?
 ヨウヘイさんが僕が家出をしていると見抜いた理由は分かった。けれど食べ物や飲み物を買ってくれる理由は未だに謎だ。
「チョコは溶けるか。――おっ、これなんていいんじゃないか。チョコとチーズ、どっちがいい?」
 カロリーメイトの箱を指さしてヨウヘイさんが訊ねる。黙っていると「両方だな」と、一つずつ籠の中に入れた。さらにあめやガムやクッキーやおせんべいを次々に籠に入れていく。山積みにされた商品が籠からこぼれ落ちそうになっている。
「どうして」
 もっと早く発するべき言葉をようやく口にした。ヨウヘイさんが僕を見る。
「家出中の俺に、こうしてくれた人がいたんだ。その人から受けた親切のお蔭で道を踏み外さずに済んだ。今では、ちっぽけだけれど足場工事会社の社長をしている」
 どう見ても二十代のヨウヘイさんが社長。シンプルにすごい。
「だから俺も同じことをするって決めたんだ。――ま、自己満足ってヤツだ。だから気にするな。大した額じゃないんだし」
 照れくさいのか早口になっていた。
「いよっ、社長! 格好いい~!」
 僕の背後から金髪がヨウヘイさんを冷やかした。
「るっせぇよ」
 鬱陶うつとうしそうにそう言うと、「あとは飲み物だな」とヨウヘイさんが冷蔵庫に移動し始める。
「これってペイフォワードってヤツじゃん。マジ、格好イイ。なぁなぁ、ペイフォワードって、知ってる?」
 説明する気満々な様子で金髪が僕に訊ねる。それくらいは知っている。
「誰かから受けた親切を、別の誰かにするってことですよね?」と答えた。教えるチャンスを逸したことに失望する様子もなく、「そう、それ」と、嬉しそうに金髪が言った。
 状況が呑み込めた。ヨウヘイさんはかつて誰かから親切にされた。だから自分も誰かにしている。今回その誰かが僕だ。
 ありがたくその恩恵にあずかってもいいのだろうか? でもそうしたら、僕も誰かに同じようにするべきだ。――そんなことが出来る未来が僕にもいつか来るのだろうか?
「そんで、親切にしてくれた相手に恩を返すのがペイバック」
 金髪の声に物思いから引き戻される。
 ペイバック、直訳すると払い戻すだ。企業のポイントバックキャンペーンとかでよく使われているけれど、そんな意味もあったのかと驚く。
「けど報復とか、しっぺ返しって意味もあるんだぜ」
 意外に金髪が物知りで驚いた。とても失礼なのは分かっているけれど、人って見かけによらないものだなと思う。
「最近観たドラマか映画で知ったんだろう?」
「映画っす」
 ヨウヘイさんの質問に金髪が即答した。
「サブスク様々だな」
「いや、ホントっす。去年、ネットフリックスとディズニープラスに入って、片っ端から洋画や米ドラを観てるんすけど、最近、なんかちょっと英語が分かってきた気がするんすよ。そうだ、『スモーキングガン』って知ってます?」
「いや」と言いながら、ヨウヘイさんがレジへと向かう。
「お前は?」と、僕も聞かれた。漫画のタイトルになっていたから知っていた。でも金髪の説明が聞きたくて、首を横に振った。
「直訳すると煙が出ている銃。けど銃口から煙が出ているってことは撃ったばかりってことだから、動かぬ証拠って意味なんですよ」
 レジで店員が精算するのを待っている間に、金髪が嬉しそうに説明する。
「へぇー」と、感心した声をヨウヘイさんがあげた。
「四千二百五十三円になります」
 金額に驚く。かなりの額になっていた。やはりおごって貰う訳にはいかない。
 遠慮の言葉を口にする前に、「今更止めたら店員さんに迷惑だから止めとけ」とヨウヘイさんが言った。
「あとレジ袋も。大きいヤツ五枚。あればあったで、何かと便利だろう? 支払いはカードで」
 ヨウヘイさんが財布から金色のクレジットカードを出した。店員に「どうぞ」と言われて読み取り機に挿し込む。会計を終えて商品の詰まった大きなレジ袋を二つ、僕に差し出した。躊躇ためらっていると、「ほら」と押しつけられる。
「遠慮しないで貰っとけよ」
 金髪にも促されて、「ありがとうございます」とお礼を言って受け取った。二つの袋ともずしりと重い。
「そんじゃ、そろそろ行くか」
 ヨウヘイさんを先頭に金髪、黒髪の順で店を出て行く。僕もあとに続く。これだけして貰ったのだから、お見送りをしなくては。
 連なって駐車場を抜けて歩道に出る。改めてお礼を言おうとしたそのとき、ヨウヘイさんが振り向いた。
「日当一万でバイトしないか?」
 差し出した右手の人差し指と中指の間にいつの間にか一万円札が挟まっていた。きょとんとする僕にさらに続ける。
「俺たちは足場工事をしている。今日の現場はここから五分くらいの住宅だ。して欲しいのは、作業中、通行人に『ご迷惑をお掛けします』とか『お足元にお気を付け下さい』と声をかけたり、あとは掃除の手伝いとかだ。朝八時から十二時の四時間で途中休憩が十五分。午後は一時から途中休憩二回で五時まで。実働七時間十五分だから時給にしたら千三百円ちょっとってところだ。昼飯は奢る。どうする?」
 すでに食べ物や飲み物を奢って貰っているだけに断りづらい。それに、これまでのやりとりでヨウヘイさんと金髪は悪い人ではなさそうだと感じていた。まだ一言も話していないけれど、二人の仲間なのだし、黒髪もおそらくそうなのだろう。それにお金はいくらあってもいい。
「お願いします」
 頭を下げてそう言うと、ヨウヘイさんは「先に渡しておく」と、買い物袋の中に無造作に一万円札を入れた。

 ボリュームたっぷりの焼肉定食を半分くらい食べた頃、ヨウヘイさん改め須田社長が「家には帰れるのか?」と、僕に訊ねた。
 口に食べ物が詰まっていたので、ひとまず首を横に振った。それだけでは失礼だから、急いで飲み込もうとする僕に、「この先はどうするんだ?」と、須田社長が更に訊ねた。なんとか飲み下して口を開く。
「漫画喫茶に泊まって、十月十九日の誕生日になったら役所に分籍届を」
「何それ?」
 咀嚼そしやくしながら金髪改め奥隼斗はやとさんが訊ねた。
「戸籍から外れるってことです」
「離婚の親子バージョン?」
 僕の返事に、もぐもぐと口を動かしながら奥さんが重ねて質問する。
「厳密には違いますけれど、同じ戸籍ではなくなります」と答えた僕は、小鉢のきんぴらごぼうにはしを伸ばした。
 ごぼうの土臭さが苦手で以前は好きではなかった。でも、疲れのせいか、甘塩っぱい濃いめの味付けがすごく美味しく感じる。
 奥さんはごくんと音を立てて口の中の物を飲み込むと、「――ガチじゃん」と言った。黙々と定食を平らげていた須田社長は、「そうか」とだけつぶやくと、また食べることに専念する。奥さんと黒髪改め頭島たけるさんと僕の三人もそうする。
 最初に食べ終えた奥さんが切り出した。
「十月十九日まで漫喫に寝泊まりすんの? 金も身体もキツいだろ」
 確かにキツい。でも漫画喫茶よりも安く泊まれる場所を僕は知らない。
「アヤと同棲するまで住んでたアパートがき部屋になってんだよ。とりあえず今日はそこに泊まれよ。一泊分浮くぜ? それに、気に入ったら貸してやるよ」
 まだ完全に引き払っていないアパートに一晩泊まらせてくれるまではさておき、そのあとの内容が理解出来ない。部屋の又貸しをしようとしているのだろうか? 
 急に話が怪しくなってきた。今まで色々とよくして貰ったけれど、すべては何かしらの得をするためだったのかもしれない。
 ――逃げなくちゃ。
 膝をぎゅっと握りしめた。むき出しの二の腕にも力が伝わる。
「隼斗のお祖母ばあさんは賃貸物件をいくつも持っていた資産家だったんだ。亡くなったときにコイツはそのアパート一棟、丸ごと相続したんだよ。だから誰にいくらで貸すとか自分のさじ加減で決められるんだ」
 僕の変化に気づいたらしく、須田社長が補足説明をしてくれた。
「オーナーでぇ~す」
 ふざけた口調で奥さんが胸を張る。
「毎月けっこうな不動産所得がある奴に、何で俺が飯を奢っているんだか。隼斗、夕飯はお前が奢ってやれ」
 ぶっきらぼうに須田社長に言われた奥さんは、頭に手を当てててへっと笑うと、「そんじゃ、夜は俺持ちな。丈も奢ってやるよ」と、言った。
「ありがとうございます」
 頭島さんが頭を下げた。二十三歳の頭島さんはほとんど話さない。でも礼儀はすごくいい。それと察する能力が高く、須田社長や奥さんから何か言われる前に行動に移していることが多い。仕事なのだからとうぜんなのかもしれないけれど、どこか尋常ではないものを感じる。
 午前中、僕がへたばる直前に休めと声をかけてくれたのも、無言で飲み物を手渡してくれたのも頭島さんだった。通行人への注意喚起は僕の仕事だったのに、杖を突いたお婆さんやベビーカーを押すお母さんが通りかかると、足場から下りてきて荷物を運ぶ手伝いもしていた。
 寡黙だけれど出来る人でしかも優しい。背が高いし、顔もちょっと冷たい感じのする切れ長の目で格好いい。黙っていてもモテる人というのは頭島さんのような人を言うのだろうなと僕は思う。
「夕飯は社に戻ってのミーティングのあとになる。食べ終えたら光希ひろきの好きなところに送ってやる」
 言い終えた奥さんがコップの麦茶を飲み干した。 
 夕食をご馳走して貰えるのはありがたい。でも二つ返事は出来ない。
 そこまで甘えていいとはさすがに思えないし、やっぱりまだ完全に信用しきれてはいない。日当で貰った一万円があるし、買って貰った食べ物や飲み物もあるから、これで十分だ。でも面と向かってすぐさま断るのも気が引けた。答えを渋っていると、「無理に誘ってはねぇよ。仕事終わりにどうしたいか教えてくれ」と、空気を読んで奥さんが言ってくれた。仕事が終わったらそこで辞去しようと心の中で思いながら、僕は頭を下げた。

 けれど結局、奥さんの愛車のイカついフェイスのアルファードに乗り込んで埼玉県新座にいざ市にある須田SAFETY STEPに行き、そのままミーティングに参加したあと、奥さんの行きつけの居酒屋に移動した。そして今、頭島さんと一緒に夕食をご馳走になっている。
 家出して練馬区に着いてからは、徒歩移動を除いては図書館やショッピングモールのフリースペースの椅子に静かに座っていただけの生活だった。立ちっぱなし動きっぱなしの一日を終えたときには、僕は完全にへたばってしまっていた。疲れすぎてまったく頭が働かなくなった結果の今の状態だ。
 すべてのお皿をからにして僕が箸を置くのを待ち構えていたように、「それでどうする?」と、奥さんが訊ねた。
 奥さん所有のアパートの空き部屋に泊まるか? というありがたい提案への答えを促されている。
 今日一日、須田社長と奥さんと頭島さんにお世話になった。三人の人となりはもう分かったし、信頼してもいいと思い始めていた。何より僕はくたびれきっていた。雑務しかしていない僕よりもパイプを担いで運んで足場を組むという重労働をした奥さんと頭島さんは、はるかに疲れているはずだ。練馬区まで送って欲しいと言うのはさすがに気が引ける。
 それに漫画喫茶では、フルフラットシートで横になって眠れると言っても、薄っぺらい壁越しに隣の個室の他人の気配を常に感じながらだから熟睡できない。そんな一夜を過ごすよりも、アパートの室内で安心して過ごす方が絶対にいい。心を決めて、「いいですか?」とお願いする。
「おうよ」
 その一言で奥さんは了承してくれた。