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「着いたぞ」
 奥さんの声で目が覚めた。車内の時計を見ると、午後八時半を少し回っていた。居酒屋を出たあとに、コンビニエンスストアに寄った。それから十分程度しか経っていない。その短い間でも、満腹なのもあって僕はうとうとしてしまったらしい。
「すみません」と言ったけれど、寝起きで声が出ていない。
「疲れてんだし、いいってことよ」
 軽く流して奥さんが説明する。
「見た目はボロいけど中はそうでもないから。――ただちょっと難があってな。まぁ、それは部屋に入ってから話すわ」
 アパートの見た目は奥さんが言うほどボロくはなかった。外付けの階段にさびは浮いていないし、雨よけのプラスチックの波板も欠けていない。これなら室内もそんなに悪くはなさそうだ。一ヶ月前に彼女と同棲するために引っ越すまで奥さんが住んでいたぐらいだから、難があるといっても、そんなに大事ではないだろう。
 一階の一番手前の部屋の扉を奥さんが鍵で開ける。薄暗い室内に入って壁のスイッチを押して灯りをけた。1Kで六畳の部屋は畳敷きではなくフローリングだった。部屋の端に畳んだ布団が置かれている。想像していたよりも室内ははるかに綺麗だ。
「よっこらせ」と言いながら、奥さんが買ってきた飲み物や食べ物の詰まったビニールの買い物袋を床に置いた。
「俺が使っていたのでよければ、部屋にある物は何でも使ってくれ」
 室内を見回す。冷蔵庫や電子レンジや洗濯機などの白物家電だけでなく、タオルやキッチンペーパーなどの生活に必要な物がそのままになっている。
「風呂とトイレはここな」とドアを指さす。ドアは一つだけだからユニット式だろう。
「そんで、エアコンのリモコン」
 手渡されたリモコンはまだ新しそうだ。
「二年前に相続したときに空き部屋から徐々にリフォームして、エアコンも新しいのにしたんだ。俺がアヤと今住んでるとこのよりも効きがよくてしかも省エネで電気代も安い。技術の進歩? 企業努力っての? とにかく、どんどん良い物が出てくるもんだよな」
 ヤンキーな見た目とは裏腹に、奥さんはちょいちょい含蓄がんちくのあるようなことを言う。つくづく見た目で人を判断してはならない。と思ったそのとき、室内の電気が消えた。
 壁のスイッチに頭島さんが触れるか何かして、誤って消してしまったのだろうと一瞬思った。でもスイッチの前には誰もいなかったはずだ。頭島さんは風呂とトイレのドアの前に立っていた。
 接触不良だろうか? でも二年以内にリフォームしたと聞いたばかりだ。 
 ――もしかして。
 目を閉じて気持ちを集中させる。何も感じない。
 もう、以前のようではなくなっていたけれど、それでもたまにうっすらと何かを感じることもある。けれど今は何も感じない。
 壁に近寄って奥さんがスイッチを押した。室内が明るくなったのと同時に僕は目を開ける。
「さっき言った難ってのがこれなんだよ。この部屋、たまに勝手に電気が消えるんだわ」
「勝手にですか?」
「そ」
 奥さんが一言で答えた。
「たまになんだけれど、部屋にいるととつぜん電気が消えるんだよ。それでこの部屋だけ住人が居着かなくてさ。せっかくリフォームしたのに空けとくのももったいないんで俺が使ってたんだ。――飲み物がぬるくなっちまう。この話は座ってからにしようぜ」
 奥さんはフローリングの上に胡座あぐらをかくと、袋の中の物を出して床に広げた。それを中心に車座で僕と頭島さんも床に座る。
 僕は未成年だし、奥さんはこのあとも自宅に帰るために運転する。頭島さんだけはアルコールを飲める状況だったけれど、さすがは気遣いの人で口にしなかった。男三人、そのうち二人は成人だが、奥さんがダイエットコーラ、頭島さんが緑茶、僕はシンプルに水で乾杯してから口をつける。
「くぅ~っ、沁みるなぁ~!」
 まるでビールのCMのような台詞せりふを奥さんが口にした。頭島さんは無言でスナック菓子の袋を食べやすいように開けている。すべてご馳走して貰って、部屋にも泊まらせて貰うのに何もしていないのはマズいと思い、あわてて僕も乾き物の袋を開けようとする。そのとき、また部屋が暗くなった。
「チッ! またかよ」
 舌打ちして奥さんが言う。
 僕が立つ前に頭島さんがスイッチを押していた。だが頭島さんが床に座ると同時にまた電気が消えた。立ちあがろうとしたけれど、中腰になる前にまた頭島さんがスイッチを押していた。
「――わりぃな。しかし今日はほんっと、よく消えるな」
 苦虫をみつぶしたような顔でそう奥さんが言った直後に、また暗くなった。今度も頭島さんが電気を点けた。
「スイッチは換えた。ライトも他の部屋に付け替えて試したら問題なかった。配電も湯沢ゆざわさん――同じ現場によく入る電気工事会社のお兄さんだ。仕事は早いし丁寧だし、付き合いがあるからってちょっと安くしてくれるので、なんかあったら頼むといい」
 僕の表情から察して説明を付け足したあとに、「で、湯沢さんが全く問題ないって」と、奥さんが締め括った。
 部屋の電気が消える物理的な原因はない。でも消える。こうなると、やっぱり……。
 ポテトチップスの袋を開ける振りをして、うつむいて二人に気づかれないように胸の中の息をすべて静かに吐き出した。目を閉じて気持ちを集中させる。やはり、何の気配も感じられない。
「貸してみな」
 僕の手からポテトチップスの袋を取ると、奥さんは袋の裏の長い結着部分を引っ張って開いた。
「大人数で食べるときはパーティー開き。覚えときな、これ基――」
 にやっと笑った奥さんが言い終える前にまた部屋が暗くなった。
「あ~、もう!」 
 苛立った声を奥さんが上げたそのとき、暗闇の中の空気が動いた。
 どんっと床を打つ重い音が聞こえた。驚いて動けずにいると、部屋が明るくなった。スイッチを押したのは奥さんだった。スイッチに指を触れたまま、床の一点を見下ろしている。視線の先を僕も見る。そこには謎のポーズをとる頭島さんがいた。
 頭島さんは足を開いて両膝を床につき、上半身を床と平行になる直前まで倒した体勢だった。その姿は何かに馬乗りになっているようにも見える。でも床の上には何もない。
 そこで僕はあることに気づいた。頭島さんは両腕を突っ張っているが、床にはついていなかった。床から七~八センチくらい上のところで浮いている。大きく開いた両手は、何かを押さえているようにも見える。でも、やはりそこには何もない。力が込められているのは、半袖Tシャツからむき出しの腕に盛り上がった筋肉で分かる。
 身体を支えているのは床についている両膝とつま先のみ。それで前傾姿勢をとるのは相当キツいはずだ。なぜこんなことをしているのか、まったく見当がつかない。