第一話 なんか、ゴメン

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「ふわぁぁ」
 ベッドの上のおくさんが大あくびをした。
 奥さんと言っても“人妻”じゃない。よく日焼けした細マッチョで金髪をニュアンスパーマにしている二十四歳の男性だ。
「しかし、なんだなぁ」
 奥さんがなにか言いかけたそのとき、ドアをノックする音に続いて「すみません」と、遠慮がちな声が聞こえた。
 ドアに一番近いのと、室内にいる三人の中で最年少かつ後輩という理由から僕が立ち上がって開ける。
「どうですか?」
 細めに開いたドアの隙間から中を覗き込む家主の奥さん――こちらは人妻――藤谷ふじたに朱美あけみさんが訊ねてきた。
「まだ、なんもないっす」
 僕が口を開く前に奥さんが答える。
「そうですか。――あの、これよろしかったら」
 そう言ってドアをさらに少しだけ開けた。隙間から差し出されたのは、お茶のペットボトルと缶コーヒーが三本ずつと個包装の焼き菓子やせんべいの入った菓子皿が載るお盆だった。遠慮するべきかなと迷っていると、奥さんが「ゴチになりまーす」と即答した。
 頭を下げてお盆を受け取ると、そっとドアが閉じられた。これでまた、洋服ダンスとダブルベッドだけでいっぱいいっぱいの八畳の洋間には、奥さんとかしらじまさんと僕の三人だけとなった。床には座るスペースがないので、僕たち三人はベッドの上に座っている。とうぜんお盆を置く場所もベッドの上しかない。洋服ダンスに正対する頭島さんの背後にお盆を置く。
「現場と一緒だよ」
 奥さんに言われて、ちょっと頭を下げて「ですね」とだけ返した。
 奥さんと頭島さんと僕の三人は須田すだSAFETY STEPという足場工事会社に勤めている。正しくは、二人は正社員で、僕は三ヶ月の試用期間中だけれど。
 現場ではときに施主が飲み物やお菓子などを差し入れてくれることがある。そういうときはありがたくご厚意に甘え、その恩義に報いるべく、より早く確実に安全な足場を組み、撤去の際は最後の清掃をより念入りに行うというのが社則にある。でも今日は社としての仕事で来たのではない。
「なんか待っていると時間って長く感じるもんだな」
 お盆の上の焼き菓子を物色しながら奥さんが言った。
 名言っぽい気がする。それこそ人を待っているとか、恋愛中で相手からのラインの返事待ちとかならそうだろう。確かに今、僕たちも待っていた。ただし観音開きの洋服ダンスの扉が開くのを。
 普通はそんなことは起こらないはずだが、藤谷家の洋服ダンスの扉は誰の手も借りずにひとりでに開く。それも昼夜問わず不定期に。
 最初に思いつくのは洋服ダンス自体の問題だ。立て付けが悪くて扉がきちんと閉まらないとかだろう。でも、違う。
 今年の三月末、夫妻は長男の小学校入学を機にこの中古物件の一戸建を購入した。賃貸2Kのアパート暮らしから4LDKの一軒家での新生活を始めるにあたり、家財道具も一新することにした。洋服ダンスもその一つだ。家のちょっとレトロな雰囲気に合う、手頃な値段のものを物色したところ、掘り出し物の中古品をみつけた。破損箇所の有無をくまなく確認し、扉を何度も開け閉めして大丈夫だと納得してから購入した。だから洋服ダンスが理由ではない。
 次に考えられるのは家自体の傾きだ。夫妻は家の中のあちこちでビー玉やゴルフボールを置いて試した。けれどどの場所でもまったく動かなかった。この洋間もだ。つまり家は傾いてはいない。
 物理的な原因ではないとなると、この手のおかしなことが起きる理由として頭をよぎるのは心霊現象だ。
 藤谷夫妻は二人とも、その手のことはまったく信じていなかった。けれども最初は閉め忘れたのだろうと思っていた扉が、夫妻が部屋にいるときにひとりでに開くのを目撃するようになった。開くと言っても大きな音は立てない。カチャッと小さな音がするだけで、開くのも三十センチくらいだ。
 ただ音の大小に拘わらず、就寝中の物音は安眠妨害に繋がる。まして目の前の洋服ダンスの扉が勝手に開くとなったら、おちおち寝ていられなくなっても仕方ない。気味の悪さに夫妻は寝室ではなく、別室に布団を敷いて寝るようになった。洋服ダンスの買い換えも検討しているけれど、予算的に冬のボーナスまで我慢しなければならない。
 そうしてかれこれ四ヶ月が過ぎた八月九日、室内のリフォームを依頼した武本たけもと工務店の職人さんがアフターサービスで再訪問したときにその話をした。その職人さんは、「ウチで使っている足場会社の社員で、そういうのをなんとか出来そうな奴がいるらしいんですよ。本当に解決出来るかは分からないけれど、頼めば無料でやってくれるだろうから、試してみても損はないかも」と、夫妻に提案した。その結果、「そういうのを解決出来そうな奴」として、僕ら三人は今ここにいる。
 僕たちはプロのゴーストバスターズではない。どころか、霊が見えたり話せたりといった、いわゆる霊感があるわけでもない――これは完全にそうとも言い切れなかったりもするけれど。
 ではなぜ、こんなことになったのかと言うと、話はひと月前にさかのぼる。