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 ゆで卵のみじん切りに、たっぷりマヨネーズを混ぜ、表面をかりっと焼き、パセリを散らした分厚い玉子トーストは、一体どうしてこれが二三〇円で提供されているのかわからない。いい味だった。
 けれど、あまりにゆっくり届くので、頼んだのをうっかり忘れそうになる。新平はコーヒーだけ飲んで、お店を出そうになったことが二回あった。
 四つに切り分けてあるトーストをつまみ、口を三角に尖らせて食べる。朝の体操とゆったり散歩、それとヘルシーな朝食のおかげで、マヨネーズたっぷりの一枚を、好きな時間に楽しむことができる。その理屈を、どうして英子は理解しようとしないのだろう。
 カウンターまで自分で食器を返しに行き、なじみの女性にしっかり挨拶して喫茶店を出ると、あとはぷらぷらと駅界隈を歩いて回った。三原みはら堂でお饅頭と最中もなかを買い、東口に向かってタカセであんみつドーナツを買って、家へのお土産にする。そもそも新平自身、無類の甘い物好きだった。
 事務所についたのは三時前だった。
 一〇一号室にひとまず荷物を置くと、集合ポストを覗いてゴミを拾い、アパートの前をほうきで掃いた。
 今は上下三室ずつある賃貸のアパートになっているけれど、もとは新平が最初に建てた自宅だった。
 そして設立した会社「明石建設」の事務所もここにあった。



 ワンルームの小さな流しでお湯を沸かし、いつのものかわからない、香りの飛んだお茶っ葉で日本茶を淹れた。
 硝子の応接テーブルに、お茶と三原堂の薯蕷じょうよ饅頭を置いて、さっそく一人でいただく。皮に自然薯じねんじょを練り込んだこしあんの白いお饅頭は、皮の食感がふんわりとなめらかで、さらにしっかり山芋の味がして嬉しかった。
 長椅子が一つと、一人がけの椅子が二つ。その間にテーブルがある。文庫ボックスで買った本を片手で開き、そこでぱらぱらとめくる。
 通りに面した窓際には、パソコンの載った事務机が一つと、背の高いスチール戸棚が一つ。反対側に古いお皿や茶碗が入った、花柄の食器棚がある。
 テレビは奥のキャスター台に、地デジ対応のものに換えて載せてある。VHSとβベータのビデオデッキも、以前のまま置いてあった。
 十年ほど前までは、まだ昔の仕事仲間が遊びに来て、
「よ、社長、なんかいいのない?」
 なんて、ビデオを見たがったものだけれど、三人いたそういう仲間のうち、二人は亡くなり、あと一人はずっと入院している。
 薯蕷饅頭をぱくっと一ついただき、お茶を半分ほど飲むと、新平は事務机へ向かい、パソコンを立ち上げた。以前は、アパートの店子たなこに詳しい青年がいて、自作のパソコンを格安で譲ってくれたのだけれど、青年が部屋を出て行くと、誰もメンテナンスができなくて困ってしまった。
「おい、事務所のパソコン、ちょっと見てくれ」
 次男が帰っているときに、何度も相談した結果、
「Macならわかるから、Macにして!」
 と、一昨年だったか、お正月三日に池袋のビックカメラに買いに連れて行かれた。それからパソコンのことは全部次男に訊く。
「おい、建二けんじ。写真がなくなった」
 パソコンに取り込んだデジカメの写真を見つけられず、次男のところへ携帯で電話をかけた。新平が進んで携帯を使うのは、そんなときだけだった。あとはかかっても無視。写真の件は、試しにやってみて、と言われた方法を試すと、無事もとに戻ったので、もうそのまま連絡はせずに、作業に集中した。
 以前は、事務の仕事をしていた机だった。
 明石建設の名入りの白い封筒がどっさり置いてある。新平はへんなところがマメな性質で、それを普通の事務封筒として再利用できるように、暇を見ては社名の部分をいちいちマジックで×していた。けれど、実際はもうあまり郵便や封筒を利用する機会がない。社名を×で消された封筒が一束、なかなか減らずにデスクに残っている。
 自宅の三畳間に事務所を構え、「明石建設」をおこしたのが三十前だった。すっぱりやめたのは、七十代の頃だ。
 それからここは、事務所という名の管理人室、または大家の部屋となり、同時に新平の趣味の部屋になった。
 やだ、お宝発見!
 池袋でパソコンを買ったお正月、一緒に事務所まで設置を手伝いに来た次男坊が、人のスチール戸棚を勝手に開けて笑っていた。
 わお! と大きな口を開け、指の反ったおかしな手の広げ方をして。
 そしてぱしゃぱしゃと写真を撮ると、それを自分の親しい親戚の娘たちにメールだかLINEだかで送り、「お父さんの秘密の部屋」と教えたらしい。
 そのお正月、郷里では親族みんなでその写真を楽しんだとあとで聞いた。
「べつに秘密なもんか」
 新平は、かっ、と笑った。一人で自由に過ごすうちに、趣味のコレクションがどんどん増えただけだった。
 自宅にはちょっと持ち帰りづらいようなものは、すべて事務所で開き、ゆっくり楽しんでいた。
 ヌード写真集、春画、エロ小説、民話、動画。雑誌のグラビアを切り抜いたスクラップもあれば、カメラに凝り、自分で撮影、現像した写真もある。
 背の高いスチール戸棚を開けると、中にそんなものがぎっしり詰まっている。ここをアパートに建て替えてからの、二十五年……約三十年ぶん。『裸婦百態』『失楽園(コミック版、漫画/牧美也子)』『モア・リポート』『エロティック美術館』『裸婦とクロッキー』『女性のためのSEXレポート』『図説エロスの世界』『図説20世紀の性表現』……新平に言わせれば、次男が写真におさめたのは、せいぜい一番前の列にある、大きめの書籍のタイトルぐらい。地層で言えば表面だろう。
 お宝はその奥にある。