ポドゥルとホンジュがオジンマルを発ったのは、数え十八歳になった戊午年、旧暦の正月十七日明け方だった。正月の祭祀チェサ小正月テボルムが過ぎてから、出発することに決めていた。ポドゥルは出発日が決まると、家中の服と足袋ポソンを繕った。正月には父の墓に参り、出発の前日には井戸を何度も往復し、家の水瓶をすべて満たしておいた。
「ぼちぼち出発か?」
 井戸端で何度目かに会ったアンコルテクが、気がついたように訊いた。
「はい。明日行きます」
 隠し事はできないもので、ポドゥルとホンジュが写真結婚でポワに行くという話は、村中にすっかり広まっていた。自分の娘も行かせたいという人が、ポドゥルの家をこっそり訪ねてくることもあった。一方では、寡婦になって三年も経たない娘を嫁に出そうとするアン長者夫婦の陰口をたたき、いかにも両班ヤンバン然としたユン氏が娘を金で売ったとささやき合ってもいた。
「娘をそない遠くにやってしもうたら、お母ちゃんはどないして暮らすんやろうなあ」
 アンコル宅は気の毒そうに言った。ポドゥルもいざ出発が目前に迫ると、気が重く苦しいのだった。母はこれから誰と一緒に針仕事をするのだろう。グァンシクとチュンシクの面倒は誰が見るのだろう。ポドゥルは残していく家族を思うと、これまで結婚に浮かれていたことが申し訳なくなった。
 ポワに結婚しに行くんは、全部家族のためや。着いたらすぐテワンさんに言うて母さんにお金を送ってもらおう。土地も買うたるし、弟たちも学校に行かせたる。
 最後の夜、ポドゥルは台所で沐浴もくよくし、いつも通り母と並んで床に就いた。いつものユン氏なら、枕に頭を載せるやいなやいびきをかき始める。ところが、この日はなかなか眠れないようだった。ポドゥルは暗がりで母が泣いているのに気がついた。胸が詰まり、母の手を握った。寒風にひび割れ、裁縫でできたタコだらけのその手は木の幹のようだった。
「母さん、もうちょっとだけ辛抱してな。あたしが贅沢させたげるから」
 ポドゥルが言った。
「何を言うの。母さんが贅沢しとうて、あんたをあんな遠いところへ行かすんと違う。ここにおったら、行かず後家のまま年取るしかないからや」
「なんであたしが行かず後家やの? アンコル宅のおばちゃんも、いいお嫁さんになりそうやなっていつも言うてたんやで」
 ポドゥルがいたずらっぽく言うと、ユン氏は深い溜め息をついた。
「あんたの問題と違う。今みたいな日本の天下で、誰が義兵の娘をもらうんや? 今まで、ふがいない親のせいで苦労ばかりやったから、向こうで旦那さんに可愛がってもろて自分の人生を生きなさい」
 ユン氏が義兵という言葉を口にしたのは初めてだった。ポドゥルは父の死について、正確なところを知らなかった。この国が日本にみ込まれ始めた頃、時々家を空けていた父がある日完全に消息を絶った。母が駐在所に連行され、家に戻ったときのことを覚えている。母は数日間寝込みながらも、理由については口を閉ざした。
 しばらくして、父が遺体となって帰宅した。
 ポドゥルは父が義兵だったという話を他人の口から聞いた。日本人の巡査が家に出入りし始めると、まるで伝染病が出たかのように家を訪ねてくる人が途絶えてしまった。アン長者に家を引き払えと言われたら、路頭に迷うところだった。アン長者はポドゥル一家がそのまま暮らせるようにしてくれただけでなく、こっそり食料も届けてくれた。
 ポドゥルの三歳上の兄は、当時金海キメで中学校に通っていた。日本人に対する恨みが身に染みていた兄は、道で通行人をいじめる巡査に歯向かい、馬のひづめで蹴られて亡くなった。ポドゥルは兄を埋葬した夜に、母が嗚咽おえつしながらアン長者夫人にした話を覚えている。
「王様でもかなわん日本の奴らに、どないして勝つんですか。子供らの父親があんな死に方して、息子まで殺した奴らやけど、わたしは憎みも恨みもしません。残った子らにかたきを取れとも言いません」
 子供たちが勝てもしない相手に恨みを持たないようにすることが、ユン氏の目標だった。それからのユン氏はカン訓長の死を、一切口にしなかった。そんな母が自ら義兵という言葉を口にした。
「母さんには朝鮮が敵や。力のない国のせいで、夫も死んで息子も亡くしてしもうた。ポワは朝鮮と違うから、守る国もないんちゃうやろか。向こう行ったら、ただただ自分のことだけ考えて、子供産んで旦那さんと仲よう暮らすんやで。それだけが母さんの願いや」
 母の言葉通り、朝鮮には力がなかった。昨夏には、日本人が朝鮮の王を捕まえていったという噂がオジンマルにも届いた。王は無事に戻ったが、日本の王にひざまずいたという恥辱の知らせと一緒にだった。父は王様の腰をも折らせる日本に抵抗して、命を落としたのだ。兄もまた同じだった。取り返しのつかない痛みや悲しみが滲む母の声は、一針一針刺した縫い目のようにポドゥルの胸に刻みつけられた。いつまでも眠れずにいた母娘のうち、先に眠りに落ちたのはポドゥルだった。
 とうとうポワに来た。初めて見る木や建物が、楽園の名にふさわしくきらびやかだ。釜山アジメの言葉通り、あちらこちらの木に食べ物と服がたわわに実っていた。チョ・ドクサムが自動車でホンジュを迎えにやってきた。けれどテワンの姿はない。代わりに結婚を取り消すという連絡が来た。ポドゥルは船から下りることもかなわず、帰らねばならなかった。ポワを離れる船の上で、地団太を踏みながら泣き叫んだところで目が覚め、夢だとわかり胸をで下ろした。そして未来を暗示するような夢のせいで不安になった。でも、夢は逆夢やっていうし。ポドゥルはあえて不安を無視して、まっすぐに横たわった。夢の中で必死だったせいか、身体のあちこちが痛んだ。
 台所でがたがたと動く音が聞こえてきた。布団から這い出しながら台所につながる戸を開けると、ユン氏がおにぎりを作っていた。ポドゥルは、がばっと起き上がり台所に行った。旅立つときは母にご飯を作ってあげようと決めていたのに、寝坊してしまった。
「母さん、あたしがします」
「何言うてるの。おまえは顔洗って支度しなさい。湯、沸かしといたで」
 ユン氏の声は、いつにも増してそっけなかった。きっちり蓋をしてきた心の内を見せたことで、ともすれば折れてしまいかねない気持ちを引きしめているのだろう。母は記憶の扉に鍵をかけ、ふたたび日常に戻っているのだと感じた。
 ユン氏は朝食の前に、ポドゥルの三つ編みを解いて、髪を上げ後ろでまげを留めた。長い旅路では、生娘きむすめより既婚者のほうが少しは安全だろう。いずれにせよ書類上はテワンの配偶者として旅立つのだ。ポドゥルは手鏡に髪を上げた姿を映してみた。前から見ると三つ編みのときとほとんど変わらないが、背中で揺れていた三つ編みがなくなってすっきりしつつも寂しかった。ポドゥルは母が新しく仕立ててくれた、木綿もめんのチマチョゴリを着た。父の死後、新しい服を着るのは初めてだった。
 ユン氏はポドゥルが渡したお金で、新しい服を何着か仕立てた。自分は生涯会うことはないであろう婿の親だが、娘を手ぶらで寄こしたと言われたくはなかった。ぎした服しか着せたことがないまま嫁に行かせるのが心苦しかったユン氏は、憂さを晴らすように服を縫った。婚礼で着る織模様のある桃色の絹のチマチョゴリと普段着の木綿のチマチョゴリ、暑いところだというので麻の一重ひとえのチョゴリを二着、下着と下穿したばきを二枚ずつ、足袋を三足。その他にもしゆうとの枕カバーと新婚夫婦のためにおしどりの刺繍を入れた枕カバー、生まれてもいない孫の産着まで仕立てた。
 ポドゥルは生まれて初めて、一人の膳についた。いつもと同じ粟飯あわめし味噌テンジャンチゲと大根の塩漬物に加え、卵焼きと焼きのりが載った膳にさじが一つだけ置いてあった。膳と母を代わるがわるに見て訊いた。
「あ、あたし一人で食べるの?」
「母さんはあとから弟たちと食べる。挨拶は晩に済ませたからもうええやろう。起こさんとき」
 ユン氏が答えた。ポドゥルは母がなぜそうするのか、わかっていた。弟たちが見ている前では、心置きなく食べることができないだろう。母と一緒に食べても同じことだ。ポドゥルは喉がつかえた。普段はどんなに固いものでも口に入れるとすぐに溶けるようになくなってしまうのに、今日は粟の一粒一粒さえ、ごろごろと口の中にいつまでも残っていた。これから自分はポワで美味しいものを食べて暮らすのに、母と弟たちは砂粒のような粟飯さえ満足に食べられないのだ。全部おあがりと何度も言われたが、半分も残してしまった。
 朝食の膳を下げてから、ポドゥルは母の前に跪いて深いお辞儀をした。ユン氏は横を向いて座り、固く口をつぐんだままだった。
「母さん、心配いらんから。着いたらすぐに手紙書くし。贅沢させてあげるまで、とにかく達者でいてください。弟たちにもよろしく言うておいてね」
 涙を堪えて別れの挨拶をし、部屋を出たポドゥルは、扉にもたれてしばらくじっとしていた。抱き抱えた風呂敷包みから、ご飯を握るときに混ぜたごま油の匂いがした。包みの中には母が用意した衣類と月経帯、唐鞋タンヘ一足が入っていた。ポドゥルは釜山アジメにもらった手鏡を、針箱に入れておいた。持っていきたかったけれど、可愛らしい鏡を見て娘を思い出してほしいと望む気持ちが勝った。ポワに行けば、鏡くらいまた手に入るだろうと信じてもいた。
 母の思いが詰まった包みを、ぎゅっと抱きしめた。部屋の中から、ユン氏の押し殺した嗚咽が漏れてきた。このままでは、母の声が糸のようにスルスル伸びて足首に巻きついてしまいそうで、重い足を一歩踏み出した。きしむ廊下を忍び足で渡り、グァンシクとチュンシクが眠る部屋の戸を開けた。っぱいような男の子特有の臭いと共に、いびきが聞こえてきた。入っていって最後に末っ子の顔でも撫でてみたいという気持ちを、なんとか抑えた。戸を閉めながら、どんなことがあっても二人の弟を上の学校に送り勉強させてやろうと決心した。金海の自転車屋で見習いとして働くギュシクには、店を出してあげよう。
 ポドゥルは踏み石の藁沓に足を入れて、庭に下りた。かわやの横で父の植えた梅のつぼみが、あかく膨らんでいた。梅の満開を見られずに発つのが心残りだった。枝折戸しおりどの前で振り返り、家を見つめた。何年もき替えないままの藁屋根が貧しさを物語る家とその中にいる家族が、痛みとなって胸に刻みつけられた。
 ポドゥルは村の入り口で、やはり一人で来たホンジュと落ち合った。お別れは家の中でと前もって決めておいたのだ。ホンジュは藁沓ではなく唐鞋を履き、ポドゥルより大きな包みを抱いている以外は質素な身なりをしていた。ポドゥルは、ぱんぱんに腫れた親友の目を見たとたんに、我慢していた涙が込み上げてきた。
「泣かんとき。遠くまで行くのに、もたへんよ」
 ホンジュが力強く言いながら、ポドゥルの手を握った。嵐のように渦巻く様々な思いが、つないだ手と手を通して伝わってきた。二人は手と手をつないだまま、新しい世界への第一歩を踏み出した。

 

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