一番鶏が鳴いた。オジンマル村一番の働き者、チャンスの家の鶏だった。ポドゥルは、その時間まで眠れずにいた。釜山アジメのいびきのせいばかりではなかった。ポドゥルには自分の心臓の音のほうが、よほど大きく感じられた。
 昨晩、ユン氏は考えてみるからと返事を保留したが、ポドゥルは時が経つにつれて結婚するほうへ気持ちが傾くのだった。決まりさえすれば新郎側が結婚にまつわるすべての経費を送ってくれるというので、お金の心配もない。ポワに行きたかった。勉強したかった。この先も寡婦の娘として針仕事の内職をしながら、似たような境遇の男に嫁いで、母のように暮らすのは嫌だ。母の人生には、自分のための時間が一瞬でさえもなかった。母だけでなく、娘のポドゥルの生活も同じだ。嫁いでしまえば他人になる娘は、両親と家を守る男きょうだいのために犠牲になるのが当然だという世の中だ。しかしポワでは、結婚した女たちも勉強ができるのだ。そのことだけでも、ポワは楽園だ。ポドゥルはまたとない機会だと思いながらも、自分の欲のために家族を捨てるようでどこか後ろめたくもあった。
 母さんが学校に通わせてくれとったら、こんなこと考えへんかったわ。
 ポドゥルはひるみそうになる気持ちを、引きしめた。そして、嫁に行くことで家族のためになるようなことを考えた。自分が嫁に行けば、働き手だけでなく口も減る。それなら母も少しは楽になるだろう。金海の自転車屋で働くギュシクはもう自分で食べていけるし、グァンシクもチュンシクも大きくなった。家でおさんどんするよりは、釜山アジメの婚家のめいみたいに、結婚して実家の暮らしがよくなるように援助するほうがいいだろう。考えれば考えるほど、今の自分にこの人以上の相手はいないと思えてきて、返事を遅らせてチャンスを逸してしまうのではとじりじりした。
 夜明け前、ユン氏は目が覚めると同時に、いつものように髪をかしてまとめ上げ、用を足しに行った。一睡もせずに夜を明かしたポドゥルは、母が出ていくとすぐに釜山アジメを揺り起こした。
「アジメ、アジメ」
「なんだい?」
 釜山アジメが寝ぼけまなこでごにょごにょと返事をしながら、ポドゥルのほうに寝返りを打った。ポドゥルは、母が戻る前にと焦って確かめた。
「ポワに嫁に行けば勉強できるいう話、本当ですよね?」
 勉強さえできるなら、贅沢ぜいたくは望まない。たとえ苦労するのだとしても、一度くらいは自分のためだけにしてみたい。アジメががばっと起き上がった拍子に、ポドゥルもつられて起き上がった。
「ほんまですよ。言いましたやろ? まったくの無学だった娘が、ポワに行ってから手紙も書いて寄こすし、アメリカの言葉も鼻高い人みたいに上手ですわ」
「アジメ、そんならわたし、ポワにお嫁に行きます。アジメが母さんにうまいこと言うてください」
 ポドゥルはアジメの手を握って懇願した。
「よう考えなさった。お嬢ちゃん、心配いりません」
 アジメはごつごつした手で、ポドゥルの手をさすった。
 ポドゥルが決心すると、ユン氏もそれを許した。しかしポドゥルが決心したからといって、すぐに結婚が成立するわけではない。ポドゥルも写真を送り、新郎の意思を確認しなければならなかった。
「心配しなさんな。ポドゥル嬢ちゃんみたいに申し分ない花嫁さんがどこにいますか。あたしがうまく言いますよって。夜が明けたら早速、写真館行って、写真撮りましょ」
 釜山アジメが自信満々で言った。
「それはアジメの考えでしょう。父親もおらん、家も貧しい、特別綺麗でもない子が、アイゴ……。写真を撮るのに着るものもろくにない、どないしたらええの」
 ユン氏が溜め息をついた。娘を嫁がせると決めると、ソ・テワンは逃すのが惜しい婿のように思えた。母の言う通りだった。ポドゥルは焦る気持ちで言った。
「母さん、ホンジュのところに行って、ちょっと貸してほしい言うたらどうやろう」
 ユン氏が、気色ばんだ。
「縁起でもないこと言わんとき。縁談に使う写真やのに、若後家の服を着て撮るなんて話にならん。出だしからわざわざ水を差すようなことを」
 ポドゥルにとっては、家から出られないだけで、言いたいことを言い、食べたいものはなんでも食べられるホンジュのほうが、自分より勝ることはあっても劣ることはなかった。そうだ。今は寡婦にも劣る立場だが、ポワにお嫁に行けば話は違う。ポドゥルは学のある新しい女性となり、おしゃれして夫と子供たちと共に里帰りする自分の姿を想像した。人生が血のついた刺繍布のようになってしまったホンジュには、できないことだ。
「おっしゃる通り。それは、ちょっとなんですわ」
 釜山アジメがうなずいた。しばらく考え込んでいたユン氏が、大きな決心をしたように言った。
「ない知恵を絞ってみましょう。ポドゥル、あの服を着て写真を撮りなさい」
 母が仕立てたそのチマチョゴリは、誰かが嫁入りに持参するもので、あとは首周りに白い替え襟トンジョンを縫いつければ完成する。
「そ、そんなことしたらあかん」
 ポドゥルは驚いて反発した。飢えて死ぬことがあっても他人のものは一粒の麦さえ欲しがらず、子供たちにもそう教えてきた母だった。ユン氏は、顔を赤らめ断固として言った。
「言う通りになさい。ぼろを着た写真を送って、縁談が上手くいくわけない。きちんと包んで持っていって、写真を撮るときだけそっと着ればわかりゃしないわ」
「その通りですわ。いいことに使うんやから、大丈夫」
 釜山アジメも同意する。
 ポドゥルが編みなおした三つ編みの髪に、ユン氏が椿油を塗った。アジメが写真館で、白粉と頬紅も塗ってくれるという。
 ポドゥルは誰かの服を胸に抱いて、釜山アジメと一緒に家を出た。結婚する相手を最初からだますようで気がとがめたが、ポドゥルもぼろを着た写真を送りたくはなかった。ポドゥルは、なんとしてもテワンに気に入られてポワに行きたいと思った。
 着るものは解決したけれど、問題が残っていた。この大変な出来事を、ホンジュが知らないという事実だ。母は結婚が決まるまで、ホンジュには黙っているよう何度も念を押した。持ち上がった縁談がまとまらなければ、それがまた女の欠点となる。ホンジュは今まで、どんなことでもポドゥルに包み隠さず話してくれた。初恋の相手がポドゥルの亡くなった兄だったことも、結婚初夜のことも隠さなかった。
 写真を撮ってきた夜、ポドゥルはホンジュの家に行って話してしまった。たとえ母の言いつけでもホンジュに秘密を作るのは嫌だったし、胸に秘めておくには大きすぎることだった。ホンジュは、ポワに住む男と朝鮮の娘たちの結婚の話をすでに知っていた。
「馬山の婚家で、おしゅうとめさんと近所のおばちゃんが話してるのん聞いたことあるわ。おばちゃんとこの長女が写真結婚で嫁に行って、妹たちも呼んだらしいねん。そのときは、そんな遠いとこ行って、どないして暮らすんやろうと思うたけど、今考えたら寡婦より百倍ましやね」
 ホンジュの話を聞いて、ポドゥルの胸の片隅にあった不安が消えた。釜山アジメはうそをつくような人ではないが、未知の場所に対する漠然とした恐れがあった。しかし、ホンジュの話した婚家の近所の娘さんも、ポワがよいところでなければ妹を呼び寄せたりしなかったはずだ。
 ポドゥルは、相手が土地持ちだということ、写真は男前に見えたということまで話した。母の言いつけに背くことなので、写真を持ってくることはできなかった。
「あたしのこと嫌やって言われたら、かっこ悪いでどないしたらええの?」
 ポドゥルは、本気で心配していた。
「そんなら他の相手にしてほしいって言い。男は他にもおるやろ。あんたは、ええなぁ。あたしもポワに行きたいわ。家でこんなふうに暮らすんも限界やもん。息が詰まって死にそうや」
 ホンジュがポドゥルを羨むのは、初めてのことだった。
 ところが次の日の夜、アン長者夫人がポドゥルの家にやってきた。ただ事ではないその様子に、ユン氏は硬い声でポドゥルに言った。
「水を一杯、いできて」
 ポドゥルは部屋を出ながら、気が気ではなかった。こんな時間に、いったい何があったのだろう? ホンジュの身に何かあったのか? もしや、写真結婚の話を聞いて? 娘にいらんことを吹き込むなと、問いつめに来たとしたら? 秘密にしろと言ったのに軽々しく話したと、母に怒られるに違いない。部屋の戸を閉めるポドゥルの手は震えた。そのとき、アン長者夫人の声が漏れ聞こえた。ポドゥルはその場で固まったまま、耳をすました。
「写真結婚のこと聞いたんよ。ホンジュも、行かせようと思う。籍を入れる前に相手が死んでしもうて、戸籍は汚れてはないけど、騙すつもりもない。向こうにかて、ホンジュみたいに独り身になった人がおるやろう。釜山アジメの家を教えてちょうだい」
 アン長者夫人の声もまた、震えていた。
 台所へ行ったポドゥルは、ひしゃくで水を一杯すくった。手が震えて、大切な水がこぼれた。器に注ぐときも、こぼれてしまった。心を鎮めようと、かまどの縁に腰かけた。
 ホンジュは行けないと思っていたときには、自分にだけ与えられた幸運のようで自慢したかった。けれど、一緒に行けるとなると、こんなに嬉しいことはなかった。友達が傍にいれば寂しくないし、何より心強い。楽園というのだから苦労はないだろうが、楽しいことも、一緒ならもっと楽しいものだ。ポドゥルが部屋に戻ると、アン長者夫人が声を荒らげていた。
「えらいことになるから。うちの人には内緒で進めるしかないんよ」
 ポドゥルは、アン長者夫人の前に水を差し出した。
「あとで知れたら、もっとえらいことになりますよ」
 ユン氏が心配そうに言った。アン長者夫人は、水をごくごく飲んで、音を立てて器を置いた。
「死ぬ以上のことは起こらん。ここにおったら、ホンジュは死んだように生きるしかないんや。死ぬなら、もう生きるだけ生きたうちが死んだらええ。若いあの子が、部屋にこもって枯れていくのんを見るくらいなら、死んだほうがましや」
 アン長者夫人は、決然と言った。
「そうですわ。どこ行っても、ここより悪いことはないです。わたしもそう思って、うちのポドゥルを行かせるんです。年頃の娘に、遠い道のりを一人で行かせるのは心配やったけど、ホンジュが一緒なら、わたしは大歓迎です。ホンジュの将来のために、ほんに難しいことを、よく決心されました」
 ユン氏がアン長者夫人の手を握った。二人は共に、涙を流した。ポドゥルも、そっと鼻をすすった。