鏡の女、写真の男

 ホンジュは、新郎を自分で選ぶと言い張った。アン長者夫人は息子の家に行くと偽って、ホンジュと一緒に釜山プサンアジメの家を訪ねた。ポドゥルは、結婚相手を自分で選べるホンジュが羨ましかった。テワンも悪くないけれど、ホンジュがもっといい人を選んできたらどうしようと考えていた。
「こんなことになるんやったら、あたしもホンジュについていって、もっと色々聞いてみたかったわ」
 針仕事の手を止めて、ポドゥルが本音をもらした。
「なに言うてるの。写真なんか信じられるかいな。釜山アジメが保証するいうことのほうが、写真よりよっぽど確かや」
 ユン氏は、この一言でポドゥルを黙らせた。
 二日後、ホンジュが峠を越えて戻ってくるのを見たという弟の言葉を聞いて、ポドゥルは晩ご飯の洗い物をした手も乾かぬうちに家を飛び出した。ホンジュは釜山アジメに会って仲介人の家に行き、そこで相手を選んだまでの話を息つく間もなく説明した。酒泉ジュチョンの街で新郎に送る写真を撮り、その足で帰ってきたという。ホンジュの新郎候補がどんな人か気になって仕方ないポドゥルは、ホンジュが差し出した写真をひったくるように受け取った。
 顔だけしか写っていなかったテワンの写真とは違い、背広姿の男が見たこともない造りの家と木を背景に、片足を自動車にかけて立っている写真だった。ポドゥルは、男や家や自動車よりも、木に視線を奪われた。服や靴がたわわに実っていると、釜山アジメは言った。写真の中の木をじっくり見ても、高いところにふくべのような丸い実がっているのがぼんやり写っているだけだった。小さくてよく見えないのか、それとも服や靴は、昔話のフンブの瓢のように実の中に入っているのか、わからなかった。
「どない? 男らしくて頼もしいやろ? 自動車もあるんやって」
 ホンジュが浮かれた様子で言った。そこで初めて、王様や貴族が乗るような自動車を持っているというホンジュの相手を見た。顔は小さすぎてよく見えず、自動車にかけた脚に頬杖ほおづえをついた姿は、格好つけすぎではないかと思った。あたしは、テワンさんみたいな控えめな人がいい。地主のテワンが顔だけしか写っていない写真を送ってきたのは、慎ましい性格のためだと勝手に想像した。ポドゥルは、写真をホンジュに返しながら訊いた。
「何歳?」
「三十八歳。早くに奥さん亡くして、子供はおらんて」
 父親ほどの年齢を聞いて、ポドゥルは目を見開いた。なんと、二十歳も離れている。
「年、離れすぎとちがう?」
「年下の相手とは暮らしてみたやん。年下の新郎なんていやや。男は兄さんみたいに頼りがいあるんが一番や」
 ホンジュは、年のことはちっとも気にしていない。
「あんた、ちょっと、兄さん通り越してお父さんやんか」
 ポドゥルは、それくらいの年の村の男たちを思い浮かべた。男として見ることなどとてもできない、おじさんたちだ。そんな男と一つの布団に入るなんて、想像するだけでも気持ち悪い。ポドゥルは二十六歳のテワンがもっと好きになった。
 釜山の仲介人に直接会ってきたホンジュは、ポワについて多くのことを聞いてきた。
「ポドゥル、サトウキビって聞いたことある?」
 ホンジュが訊いた。ポドゥルは一度だけ食べたことのある砂糖のあめは知っているし、その辺の畑で育っているキビも知っているが、サトウキビは知らなかった。
「サトウキビから砂糖が取れるらしいわ。朝鮮の男たちがなんでポワに行ったんか言うたら、サトウキビ畑で働くためやって。何千人も行ったんやて」
「ポワにサトウキビ畑がそんなに多いん?」
 ポドゥルは目を丸くした。幼い頃、ホンジュの長兄が釜山で買ってきた日本の飴をもらったことがある。ホンジュはすごく高くて貴重なものだと言って、ブドウの粒ほどの飴を歯で割って半分くれた。ポドゥルは外で何かを食べると母と弟たちを思い出したが、その飴だけは口の中で溶けてしまうのが惜しくて、他のことは何も考えられないくらい夢中になって味わった。あれほど貴重な砂糖を作る畑なら、どんなにか高価だろう。テワンは大きな畑を持つ地主だという。お金を箒でかき集めるという話も本当なのだろう。
 写真館で撮った写真ができあがると、ポドゥルとホンジュは仲介人に言われた通り、写真と共に送る手紙を書いた。普通学校を卒業したホンジュと、途中までしか通わなかったポドゥルの文章力は似たようなものだった。ポドゥルは時々、母が話す通りに弟のギュシクや母の実家宛てに手紙を書くことがあった。ポドゥルとホンジュは相談しながら、一行一行を苦心して書いた。自己紹介するだけだというのに、まるでラブレターを書くみたいにドキドキした。
 ポドゥルとホンジュは、相手からの返事を受け取ったわけでもないのに、結婚が決まったように新婚生活を想像した。両親や周りの誰かの結婚も、ホンジュが短期間だけ経験した結婚も参考にはならなかった。食べるものも着るものも木に鈴なりで、お金は箒でかき集め、女も思う存分勉強ができるポワでの結婚生活は、朝鮮とはかなり違うはずだ。ポドゥルとホンジュは、つまるところ自分たちが望むものを想像した。顔も見ずに親の決めた男と結婚したホンジュは、自分で選んだチョ・ドクサムがまるで初めての男のように胸をときめかせた。お互いを選び手紙のやり取りをすることが、まるで自由恋愛の末に結婚するようで嬉しいと言った。ポドゥルがポワに行ったら勉強するつもりだと話すと、ホンジュはあきれた顔をした。
「なんで? 何しに勉強するん? あんた、ほんまに変わってるわ。ええわ、あんたは勉強し。あたしは綺麗な服着て、花婿さんと自動車乗ってあちこち見て回りながら、面白おかしく暮らすわ」
 ホンジュがドクサムの写真を胸の上に載せたまま、夢見るように言った。ポドゥルも、勉強だけをするつもりではない。勉強ができるという話を聞く前に、テワンの写真を見た瞬間から胸がときめいていた。いくら勉強させてくれると言われても、テワンのことが気に入らなければ簡単には決められなかっただろう。ポドゥルはテワンと幸せに暮らしながら、勉強もしたいのだ。オジンマル村の夫婦たちみたいに、牛が鶏を眺めるような無関心な仲ではなく、小説の中の恋人たちのように愛し合い慈しみ合いたい。
 朝鮮とポワの手紙のやり取りには、ひと月以上要した。返事は、先にホンジュのもとに来た。実直そうな筆跡で、美しい花嫁を迎えられることになり嬉しい、朝鮮の方角の白波揺れる海を見ながら首を長くして一日三秋の思いで会える日を心待ちにしているという手紙と共に、経費として百ドルが届いた。日本からポワまでの船賃が五十ドルだという。書類を揃えて日本まで行くにも、経費が必要だった。ホンジュは、お金よりも手紙に心を奪われた。
「アイゴ、むずがゆいわ」
 口ではそう言いながら、ホンジュの口角は上がりっぱなしだった。
 ポドゥルは、結婚が二度目のドクサムより、初婚のテワンの言葉のほうが甘いはずだと期待していた。ところがテワンは、仲介人を通して結婚の承諾と百五十ドルを送ってきただけだった。がっかりしたが、五十ドル多く届いたことを慰めにした。ポドゥルは、その五十ドルを母に渡した。
「照れ屋さんかもしらんね。初めてやし。そやけど、いざ会うたら変わるはずや」
 ホンジュが慰めるように言った。ホンジュは、毎日あなたの夢を見ていますとかなんとか、さらにむず痒い返事を書いた。手紙を出した翌日からソワソワと返事を待つホンジュが羨ましかった。ポドゥルはテワンのことを、落ち着いた思慮深い人だと思うことにしてこらえた。
 ポワに行くまでに、準備することはたくさんあった。写真結婚は、ポワに住む新郎が故国の花嫁を招き迎えるという形式なので、朝鮮で婚姻届を出す必要がある。届けを出すと、ポドゥルはテワンのことが正真正銘の夫に思えた。新郎からポワの日本大使館発給のパスポートが届いたら、それをもって旅行許可証を申請しなければならない。書類がすべて揃っても、日本で健康診断に通らなければアメリカ行きの船には乗れないのだ。
 ポドゥルは、夜ごとこっそりテワンの写真を見るのだった。そして写真より長く、手鏡に映る自分を見つめた。鏡は釜山アジメの贈り物だった。ユン氏には椿油を贈った。アジメの売り物の中に欲しくないものなどないけれど、手鏡はその中でも一番欲しいものだった。
「最後の贈り物です。商売やめることになりましてん。あっちもこっちも痛ないところがないし。身体がぼろぼろですねん。重いもん頭に載せて、一生歩き回ってきましたやろ? もうええかげん家で孫の面倒でも見とき言うて、息子もしつこいんでね」
 息子のためだけに人生を捧げてきた釜山アジメは、昨春、その息子のために小さな造り酒屋を開いた。
「造り酒屋が上手いこといってるんやね。そら息子が言うんやったら、やめなあかんわ。けど、もう会われへん思ったら寂しいでどないしよう」
 ユン氏は、早くも寂しげな顔をして言った。
 ポドゥルは母に隠れて、日に何度も鏡をのぞき込んだ。鏡の中の姿は、男から愛されて余りあるほどの愛らしさだった。日を追うごとに、テワンを想う気持ちは膨らんでいった。しばしば小説の中の恋人同士になった夢を見ては、驚いて目を覚ましたりした。恥ずかしい妄想を誰かに覗かれはしなかったかと赤面しながらも、夢の余韻は簡単に消えなかった。夢の主人公は、写真の男と鏡の女だった。