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「私に本を預けた人、犬を連れてたんです。ゴールデン・レトリバーって知ってます? 茶色の大型犬、あれです。散歩っていうのも、人間のではなく犬の。朝晩だいたい同じ時間に歩いてるんですって」
 犬の散歩ならばと、腑に落ちる思いがした。昨夜の工場付近を思い返してみても、大人がひとりで散歩したくなるような小道ではない。犬が一緒ならば合点がいく。聡史はカウンターの脇で気配を消していたので、どんな顔をしているのかと目をやり、円香も気付く。
「やだ、今井くん、そこにいたの。言ってよ。なんか恥ずかしい」
「声をかけるタイミングがなかったから。文庫を預かってくれたの、小泉さんだったんだね」
「そうよ。よかったね、ちゃんとした人が拾ってくれて。なくさずにすんだよね」
「うん」
「とっても綺麗な毛並みの犬で、すごく賢そうなの。あの犬が見つけてくれたんだと思う。そこまでは聞いてないんだけど、きっとそうよ」
「小泉さんって、もしかして犬好き?」
「まあね。うちでも飼ってるんだ。白いマルチーズ。ママがかわいがってて散歩も連れて行くんだけど……」
 円香は、少しためらってから口を開く。
「江沢駅の近くで事件があったの、知ってる?」
「事件?」
「今はもうやってない工場の敷地で、亡くなった人がいたんだって」
 聡史は平静を装いつつ「へえ」と声をあげる。
「ママが犬友だちから仕入れてきた情報によると、その、倒れている人を最初に見つけたのはゴールデンの飼い主らしい。あの文庫を拾ってくれた人よ。第一発見者で、通報者。すごくない?」
 無邪気に顔をほころばせる円香を前に、駒子は目を瞬しばたたく。ジグソーパズルのピースがはまっていく思いだ。犬を連れて散歩に出た男性は、聡史が落とした文庫を見つけ、工場内で倒れている人にも気付き、ただちに警察に通報した。利口な犬は飼い主の指示通りにおとなしくその場で待っていたのだろう。警察が来ても騒がなかった。
 近隣住民にも知られた人のようだ。納得のいく状況が頭に浮かびホッとする。
「貴重な情報をありがとう。また何か思い出したらいつでも教えて。用事がなくても、たまには顔を見せに来てね」
 にこやかに返していると授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。円香は「先に行くね」と聡史に手を振り、駒子には会釈をして図書館から出ていった。
「犬の散歩とはね。たしかに夕方にはそういう人がけっこういるよね」
 円香を見送ってから駒子は聡史に話しかけた。安心する材料をもらった気分で明るい声が出たが、聡史は硬い表情のままぼんやりしている。
「どうしたの」
「文庫を拾ってくれたのがふつうというか、まともな人だったならよかったです。でも、それなら昨日の夜、うちをのぞいていたのは誰ですか。もうひとり別の人物となると、被害者と口論していた人じゃないですか。やばい場面をおれに見られたと思ったのかも。それで必死に探して家をつきとめた。ひょっとしておれ、危なくないですか。口封じのために消されたりしないですか」
 まさかと首を横に振ったが、絶対にありえないとは言い切れず駒子は視線を宙に彷徨さまよわせた。その先に「秋こそミステリー 犯人は近くにいる!」と書かれたパネルが設置されている。並べられた数冊の本のうち、聡史が借りたものもある。宮部みゆきの『心とろかすような』もその一冊だ。
 ふつうに暮らしている人たちが思いがけない事件に巻き込まれ、死ぬような目に遭う話は、昔から数多く描かれている。我がことのようにハラハラしたり、住む世界の異なる人の悲しみや喜びを知ったり、予想外の結末に驚かされたりするのは、読書の醍醐味だいごみだろう。思わず次の一冊に手が伸びる。新たな物語がまた心の中に広がる。
 そうやって本を読んで育まれた想像力は、自分自身を豊かにしてくれるだろうが、思わぬ迷走を生む場合もあるかもしれない。若い学生なら特に。大丈夫、平気だよ、気にしてもしょうがない、そんな言葉は気休めにもならない。薄っぺらくて届かない。
「とにかく授業の時間だよ。ちゃんと出席してしっかり勉強した方がいい。君の家をのぞいていた人については、私もあらためてよく考えてみる。約束するから、少し時間をちょうだい」
「いつまで?」
「昼休みにまた来てよ」
 放課後より前の、長めの休み時間を言った。自分なりの誠意だ。聡史は深くうなずき、「よろしくお願いします」と言って図書館をあとにした。
 


 返却された本を片付けたり、入荷してきた本にラベルを付けたり、今月の紹介本を選んだりしながら聡史の話を思い返してみるが、不審者の見当はさっぱりつかない。今後の予算案や、他校の司書から届いた問い合わせメールへの返事など、慎重に考えなくてはいけない仕事には身が入らない。
 これではいけないと思案に暮れ、昨日、針谷からもらった言葉を思い出した。彼は聡史の件について、何かあったら声をかけてください、ぼくも気になります、と言ってくれた。そのさいLINEのIDも交換したので、「お時間があるときに、電話をいただけるとありがたいです」と送った。
 既読になった十分後、針谷から電話がかかってきた。車の音がかすかに聞こえた。屋外の駐車場やショッピングモールのデッキなのかもしれない。針谷は書店員だが、学校への配達や支店間の輸送などを担っているので店外業務が多い。
 仕事中はもとより休憩時間を削るのは申し訳ないので、聡史から聞いた昨夜の不審者の話や円香からもたらされた情報を手短に伝える。昨夜は自分も現場に立ち寄ったので、そのことも話すと写真を見たいと言われた。
 一旦電話を切って、現場の写真をLINEにアップした。十分ほどしてまた電話がかかってくる。
「ぼくなりにいろいろ考えてみました。昨日の段階で一番気になったのは、事件の通報者が誰なのかということでした」
「小泉さんの話で、それはわかりましたよね」
「はい。けれどやはり疑問です。犬を散歩させている人が道端に落ちている本を拾った。そこまではいいです。でも今井くんの話からすると、口論が行われていたのは出入り口から見て奥の階段を上がった先。となると転落死体も手前ではなく奥にあったと思われます。通路を塞ぐシートは右上が外れていて、その気になれば出入りは簡単にできるようですが、あくまでも『その気になれば』です。犬を連れている人が、封鎖されている敷地の中に、日常的に足を踏み入れているとは思えません。交通量が多くないとはいえ道路はいつ誰が歩いているかもしれず、無用なトラブルを避けるためにもふつうは入りません。星川さんに送ってもらった写真からすると、地面に沿って横のパイプが渡してあって跨がなくてはならず、犬にとっての抑止力にもなりえるのではないかと。もう一点、写真を見る限り、シートの手前から中は見通しが悪そうです。つまり、何が言いたいかというと、犬の散歩をしていた男性はなぜ転落死体に気付いたのでしょう。おかしくないですか」
 そこまで考えていなかった。さすが敏腕刑事を彷彿させる人だ。
 その人に引っ張り上げられるような気持ちで反論を試みる。
「犬が匂いをぎ取ったんじゃないですか。人間よりずっと嗅覚が優れているから、その、ほら、死臭とか」
「亡くなったばかりなら、そういった異臭はしてないはずです」
「物音が聞こえたとか」
 いや。落ちた音が聞こえるほど近くにいたなら、聡史と鉢合わせしたはずだ。
「音ではないですね。でも少し離れた場所から今井くんが大慌てで出てきて、走り去るのを見て、なんだろうと疑問に思って、中をのぞいたとは考えられませんか」
「のぞくだけでは、奥まった場所に倒れ伏している人間に気付かないと思うんですよ」
 針谷に言われ唇をぎゅっと結ぶ。工場の荒れた様子からして通路のところどころがひび割れ、草がはびこっていたとしても不思議はない。瓦礫のひとつやふたつ落ちていたかもしれない。見通しのいい道路に人が倒れていたわけではないのだ。
「針谷さんは、犬の散歩をしていた人が、その日に限って工場の敷地にわざわざ入ったと考えるんですね? 問題はその理由。たとえば口論していた人たちを知っていたから? もしかしてその人たちに呼び出されたとか? 争うかもしれないから止めようとして? つまり散歩の人も事件の関係者?」
 駒子が勢い込んでたたみかけると落ち着いた声が返ってくる。
「ぼくはもうちょっと、ちがうことを考えました」
 冷水を浴びせられたような気分になる。ちがうことってなんだろう。
 見落としていることがまだ自分にあるのか。考える材料は同じか、自分の方が多い。生徒ふたりと直接やりとりしているのだから。
「今井くんは学校帰りにあちこちで本を読んでいたようですね。そのあちこちには『江沢駅界隈』も含まれる。同じ学校の女生徒が見かけるように、犬の散歩の男性も見かけたことがあるんじゃないでしょうか。その人は女生徒に、拾った本を手渡し、学校図書館に持っていき、司書に返せばいいとアドバイスもしている。とても的確で、かなりの本好きに思えます。そういう人が学校帰りに本を読みふけっている学生を見たとき、どう感じるか。ぼくだったら微笑ましいです。スマホがこれだけ流行ってる今、電車の中でも本を読んでいる人を見かけないので、希少価値がありますよ。よしよし、読め読めと遠くからささやかなエールを送りたくなります。もしも散歩の男性がそのタイプだとしたら、犬と一緒に歩きながら、工場の敷地に出入りしてる学生に気付いても、大目に見るような気がするんです。ここもあの子の本読み場なんだなと思うくらいで」
 聡史が敷地に入ったのは一昨日が初めてではない。ときどき目撃されていた可能性はある。聡史の帰宅時間と散歩の時間が重なっていればなおのこと。
「ここからはぼくの想像なんですけど、一昨日の夕方、男性はいつも通り犬の散歩に出かけた。すると工場の幌の前で文庫を見つけた。表紙に貼られた高校のシールを見て、あの学生のだとピンときた。ただし、入るときに落としたのか、出るときに落としたのかはわかりません。まだ中にいるかもしれないと考え、犬を入り口につなぎ、軽い気持ちで幌をくぐった」
 ところが。
「中に入ってきょろきょろすれば、死体に気付きますね」
「とても驚かれたと思います」
「そしてすぐに通報した」
「手にしていた文庫は上着のポケットなどに入れ、そのまま忘れてしまったのではないかと」
「たしかにそれどころじゃない」
 警察とのやりとりが終わり、解放され、帰宅してからポケットの中身を思い出したのか。
 翌朝、駅をまわっても男子学生には会えなかった。けれど同じ学校の女子学生を見つけて本を手渡した。
「あくまでもぼくの想像ですよ。こうも考えられるという仮説のひとつです」
「いえ、ちゃんと説得力があります。でも今井くんが現在一番悩まされている、自宅付近に出没した不審者についてはどう思いますか」
「それなんですけど」
 針谷は電話越しにも感じ取れるような渋い声を出した。
「さっきの仮説の続きを話してもいいですか」
「もちろんです。聞かせてください」

 

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