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 帰宅の足は自然と江沢駅に向かった。図書館を利用する生徒が借りた本を持って寄り道する場所だ。どんなところなのか見てみたいと思い、江沢駅で降りて改札口を抜ける。すっかり日の暮れた初めて訪れる町を、地図を頼りに歩いた。
 曲がり角を間違えたり行き過ぎたりしながら、二十分くらいかけてようやくそれらしい場所にたどり着く。江沢駅周辺は一戸建てやマンション、賃貸住宅などがびっしり建ち並んでいるが、工場のあたりは資材置き場や倉庫の他、雑草の茂る空き地があるだけだ。夜のせいか閑散として、人通りはほとんどない。
 治安面を考えると足早に通り過ぎたい一角だが、街路灯を頼りに歩いて行くと、シャッターの下りた建物の前面に、テレビドラマで見るような黄色いテープが張られていた。
 事件現場だ。聡史の言っていたとおりに建物に向かって右側の通路が広く、もともとそこには白っぽいビニールシートがかけられ、部外者の侵入を防いでいたらしい。けれど四隅のうち右上の結び目がほどけ、左上のひもも伸びてしまい、幌はだらんと三角形に緩んでいる。足下十センチの高さに渡してあるパイプをまたげば、簡単に入れるだろう。
 駒子はスマホを取り出し、黄色のテープや幌の周辺を撮影した。そして敷地の隅に花束が置いてあることに気付く。亡くなった人に手向けられた花だ。ここで命を落とした人がいることを初めて実感した。無残な出来事がたしかにあったのだ。
 手ぶらな自分を情けなく思いつつ花のそばにしゃがむ。通路の奥に向かって手を合わせ目を閉じた。
 しばらくして立ち上がり、ぼんやりしていると何か聞こえた。振り向くと誰もいない。猫だろうか。虫だろうか。人の足音だった気もして、もう一度左右をうかがう。
 あたりは外灯のまわりだけ明るく、それ以外は暗闇に沈んでいた。電信柱や倉庫の陰など身を隠せる場所もある。誰かいたとしても見つけることは容易でないだろう。そう思うとじっとしているのも恐く、身の危険すら感じてしまう。びびっている自分を聡史は馬鹿だと揶揄やゆしたが、いつでも、誰にでも、得体の知れない恐怖は襲いかかるものだ。逃げ去るのも対処のひとつ。
 駒子は背負っているリュックのベルトを握りしめ後ずさった。走り出そうとしたとき、視界の先、曲がり角から数人の子どもが現れた。後ろから保護者らしい大人もついてくる。話し声も聞こえる。心からほっとした。
 数人のかたまりとすれちがい、駒子は駅へと足を速める。このまま事件が解決に向かえば、
 聡史は巻き込まれずにすむのかもしれない。それはそれで良いことにも思えたのだけれども。
 


 翌朝はいつも通りに登校し、職員室で行われる教職員対象の朝の打ち合わせに出席した。司書も保健室の先生も参加する。主な話題は最寄り駅で行われた美化運動について。トヨ高からも生徒会が呼びかけ十数人がゴミ拾いや花壇の手入れに励み、今週になって駅員や近隣住民から好意的な言葉が相次いで届いているそうだ。
 明るい話を聞いたあと、駒子は自分の席で回覧物のチェックをした。職員室にも司書の机はあるが、ゆっくり座るのは朝の打ち合わせのときくらい。席の近い保健室の先生や美術の先生と挨拶がてら雑談を交わす。
 聡史の担任である浜口はまぐち先生はざっと探しても見つけられなかった。相談する機会が作れればと思っていたが話しかけることもままならない。聡史ともう一度話すべきかと思い直す。相手は高校生だ。意志や考えを尊重したい。
 そんなことを考えながら図書館に向かい、鍵を開けて中に入り、カウンターの準備をしているとあわただしい足音が近づいてきた。
 飛び込んできたのは聡史だ。前日と同じように「どうしたの」と駒子は声をあげた。
「先生、大変なんだ」
 返ってくる言葉も前日とほぼ同じ。
「今度は何があったの。騒がず、落ち着いて話して」
「おれんちに不審者が現れた」
「は?」
「昨日、暗くなってからだよ。夜の八時くらい。おれが直接見たんじゃなくて、仕事から帰ってきたかーちゃんが見かけた。おれんちは一戸建てなんだけど、生け垣の間から中をのぞいたり、玄関の前を行ったり来たりしてたって」
「今までもそういうことはあったの?」
「ないよ、ない。初めて。だからおかしい。おれ思うんだけど、あの事件が関係してるんじゃないかな」
 興奮しているせいかすっかりため口だが、それは横に置いておいて駒子は慎重に話しかけた。
「あの事件って、昨日言ってた工場で遭遇した転落事件?」
「おれんちは会社で働いてるとーちゃんとかーちゃんと双子の弟たちで、家をのぞかれるような心当たりは誰もない。関係あるとしたら、あの事件」
「ちょっと待って、君は不審者を誰だと思っているの?」
 聡史は顔をしかめ、寒気がしたように肩をすくめてから言った。
「死んだ人と、揉めていた相手。もしかしたら突き落としたかもしれない犯人」
「そういうのを短絡的って言うの。意味、わかる? あれとこれとを簡単に結びつけてはダメ。よく考えて。君は現場の近くに本を落としただけでしょ。どうして自宅が知られているの」
「あとをつけられたのかも」
「自宅と現場はそんなに近いの?」
 口論していた人にとっても、転落死は重たい出来事だろう。突発的な顛末てんまつにせよ、計画的犯行にせよ。居合わせた学生に気付いたとして、冷静にあとをつける余裕はあるだろうか。
「歩いて七分くらい。あのときは途中で立ち止まったりして、もっとかかったかも」
「だったら近くはない距離だよ。口論していた人は君に気付いてあとを追いかけ、自宅がどこなのかつきとめ、一旦離れてから翌日の夜、再びやってきて家の中をのぞいたの? もしもそうなら、家に来たのはなんのために? 理由はなんなのよ」
 聡史は顔を伏せ、「さあ」と口ごもる。
「そこまではわからないんですけど。でも他に思い当たることがなくて。タイミング的に一番疑わしいし」
「お母さんは不審者に声をかけなかったの?」
「近づこうとしたら、その前に相手は家から離れていったそうです」
 少し落ち着いたのか、ため口ではなくなったが、背負っている空気は重苦しいままだ。
「おうちの人に工場の件は話した?」
「いいえ。話す雰囲気じゃなくて。親はふたりとも仕事で忙しいから」
「でも、今井くんはすごく気にしているし、心配してるんだよね?」
「先生、事件のすぐあとおれをつけまわさなくても、自宅をつきとめることはできるのかも」
「どうやって?」
「本です。犯人もおれが落とした本を見ていたら、表紙にトヨ高のシールが貼ってある。あの界隈かいわいでトヨ高に通っているのはおれくらいなので、その気になれば家の場所は調べがつく」
 一理あるような気もしたが、うなずくより先に首をひねってしまう。
「人気アイドルの自宅ならともかく、トヨ高ってだけでどこの誰なのか特定できるかな。君、ご近所の有名人って自覚はある?」
「まさか。ぜんぜん」
「だったら難しいよ。警察なら一軒ずつ聞き込みするだろうけど、一般人が聞いて回ったらそれだけで目立つ。念のために聞くけど、本の間に名前や住所のわかるものを挟んでなかったよね?」
 うなずく聡史を見守っていると本の返却に生徒がやってきた。おはようと挨拶しながら本を受け取っていく。最後に頭をぺこりと動かしたのは、昨日の休み時間に会いに行った二年生の女子生徒、小泉円香だ。本は持っておらず、空いている手でVサインを作った。
「二度目です。図書館に来たの、二度目」
 アルファベットではなく、数字を表したらしい。
「何度でもどんどん来て。大歓迎よ」
「ありがとうございます」
 小作りの可愛らしい顔でにっこり笑う。
「昨日はいきなり押しかけてごめんなさいね。話を聞かせてもらって助かったのよ」
「いいえ、大したこと言ってないですよね。それに、言い忘れたことがありました。ほんのちょっとしたことなんですけど」
「なんだろう。聞きたい」