駒子が学校司書になったのは七年半前、二十七歳の時だ。本を扱う仕事に憧れ大学で司書の資格を取り、卒業後は公共図書館でアルバイトをしながら正規職員を目指した。数少ない募集枠に挑戦し続け、神奈川県の採用試験に合格した。
最初の赴任先は川崎市内にある工業高校だった。二年後に統廃合されることが決まっている学校で、駒子自身は経験値の低い新人なのに、長い歴史を持つ図書館を閉じる作業が課せられた。ようやく憧れの仕事に就いたのにと複雑な思いで着任したが、新一年生のいない二年生や三年生にも、似たような割り切れなさがあるのだろうと気づき、うつむくのはやめた。
人生にふたつとない高校生活と、人生で初めての赴任校。決められた幕引きに向けて淡々と進むだけではなく、もっと明るく伸びやかな体験ができないものだろうか。いっそ逆に考えてはどうだろう。新しいことを見つけたり作ったりは誰にでもできる。どこででもできる。そう発信したい。他ならぬ図書館から。
生徒や先生にしつこく掛け合い、試行錯誤の末に図書館のテーマを「ここから始める」に決めた。二回目、三回目を開催するあてがなくても、あえて「第一回○○大賞」という企画をいくつもひねり出した。たとえば「校内図で図書館の位置を正確に描いた大賞」「歴史漫画読破大賞」「文豪クイズ大賞」など。受賞者をたたえ、関連図書を派手に展開した。空回りは多々あったけれど生徒の笑顔をたくさん見ることができた。
終わりが見えていたからこその活動だったのだと、振り返って思う。失敗を恐れず、繰り返し無茶ができた。喜怒哀楽の激しい二年間だった。
ふたつめの赴任校、トヨ高のひとつ前の学校は、工業高校とはまったく異なっていた。偏差値も知名度も高い都会の進学校で、図書館運営についても学校側で方針が決められていた。事細かく指導を受け、言われたとおりにしていれば波風は立たない。やる気や頑張りは、率直に言って嫌厭される。相手に合わせているうちに従順さが身につき、静かな図書館でひっそり過ごし、丸四年で異動となった。
今思えばこの二校は極端な例だった。ほとんどの学校は司書の意見に耳を傾け、話し合いやら擦り合わせやら、協力体制を取ってよりよい成果を目指していく。今のトヨ高にはそれがあり、駒子はキャリアの八年目にしてようやく、長期的視野を持って自分で考え動けるようになった。
これからだ。焦らず騒がず着実に、図書館を、棚を、育てていきたい。それが生徒の育成にも繋がるはずだ。
そんなことを考えながら、駒子は東校舎の二階に向かった。二年A組に目指す相手がいる。二階の廊下に立ったとき、チャイムが鳴って五時間目が終了した。間もなくA組のドアが開き、数学の先生が退出していく。見送ってから、がやがやと出てきた生徒を捕まえ、小泉円香という女生徒を呼んでもらった。
「図書の先生ですよね。どうしたんですか?」
円香は廊下に出て来るなり、くるんと上がった睫をパチパチ動かした。手入れの行き届いたセミロングの髪の毛は、にこやかな笑みにつられるように軽やかに揺れ、制服であるチェックのスカートは丈が短め。白いシャツの襟元に紺色のタイは結んでいない。
「朝、文庫を持ってきてくれたでしょ。あれについて聞きたいことがあって」
「えー、わざわざ来てくれたんですか」
「預かったと言ってたけど、詳しく教えてくれる? いつどこで誰から渡されたのかしら」
蜂蜜を舐めたようにぷるぷるとした唇がきゅっとすぼまった後、ゆっくりほどける。
「私、となりの種川市に住んでいるんです。種川駅から私鉄に乗り換えて三つ目の、江沢駅で降りて、そこから歩いて十分ちょっとのマンションです。本を渡されたのは江沢駅のすぐ近く。電車の時間を気にしながら歩いていたら、『君、戸代原高校の生徒だよね』って声をかけられて」
「何時ごろ?」
「今朝の、八時前くらい」
「どんな人だった?」
「中年のおじさんです。お父さんと同じくらいかな。知らない人で」
「なら、びっくりしたでしょ」
円香は大きくうなずく。
「とっさに『やだあ』って思いました。でもその人はすぐに本を差し出して『これ、散歩の途中で拾ったんだ』って。本に貼られているシールを見たら、うちの学校名がありました」
「散歩の途中と言われたのね。具体的にはどこで見つけたのかな」
「さあ。聞いてないです。でもあの本を落としたの、C組の今井くんじゃないですか」
駒子は目を見張った。
「どうしてそれを」
「やっぱり。今井くんも種川市に住んでるんです。最寄り駅も江沢駅で同じ。ただ学区の関係で小中学校はちがっていました。高校で同じ学校になって、ときどき電車が一緒なんですよ。それに、学校帰りに本を読んでいるところを見かけたことがあります」
「もしかして公園のベンチとか?」
「それもあったかな。あとは駅のベンチとか、スーパーを出たところにある自動販売機の横の椅子とか、商店街の途中にある休憩所とか」
駒子は思わず、「いろいろあるのね」と肩をすくめる。
「ふつうに図書館で読めばいいのに。建物の中の方が快適で静かでしょ」
「前に聞いたら、外がいいんですって。開放感があって」
高原の木陰ならまだしも、円香が目撃した場所は駒子からすると理解できない。不満げな顔を円香に笑われた。
「今井くんってちょっと変わってますよね。ああ、本人には内緒ですよ。でも、いっつも本を読んでいて偉いなと思ってるんです。私は教科書がやっとだから。図書館がどこにあるのかも知らなくて。今日も、クラス委員の子に場所を聞きながら行ったんです。私にとっての記念すべき初図書館」
「いつでも大歓迎よ。また来て。とはいえ、今井くんに渡そうとは思わなかったの?」
「ちがうかもしれないし。それに、駅前で男の人から『学校の図書館に行って、司書の先生に渡せばいいよ。なくなるのが一番困るから、きっと喜ばれるよ』って言われたんです。私がどうしていいかわからない顔をしてたからですね」
「素晴らしい。的確なアドバイスだわ。あなたが持ってきてくれてほんとうに助かったもの」
「そうですか。よかった」
ひととおり聞き終わったところでチャイムが鳴った。廊下にいた生徒たちが教室に入っていくので、駒子もありがとうと礼を言って円香と別れた。
ぼんやりはしていられない。休み時間には本を借りたい子や返したい子がやってくるので、ほんとうなら司書はカウンターにいなくてはならない。幸い、元図書委員が自習コーナーにいたので臨時の手伝いを頼んだ。そちらにも礼を言わなくては。もちろん針谷や聡史も気になる。
急ぎ足で戻ると本を抱えた生徒とすれちがった。元図書委員が貸し出しの手続きをしてくれたのだ。司書は学校にひとりきりなので、カウンターから離れるのは授業中にしているが、どうしても休み時間にいられないとき、あるいは研修会などの外出時は図書委員に協力してもらう。
委員は各クラスにふたりいて、主な活動は放課後のカウンター業務や棚の整理、清掃などだ。コーナー作りへの参加も積極的に呼びかけている。このあたりはどこの高校も同じだ。工業高校のときは女子生徒が少なかったので委員も男子が多く、じゃんけんで負けたから仕方なくというやる気のなさだったが、カウンター業務は嫌いではないらしく、「お店屋さんごっこ」の顔をしているのが微笑ましかった。
トヨ高は委員会活動より部活が盛んなのであてにできないところもあるが、時間をやりくりして関わってくれる子もいて活動はスムーズだ。のんびりした子に向いている作業でもある。
手伝ってくれた子に礼を言い、彼女が自習コーナーに戻るのを待って、針谷にも最大限の謝辞を伝えた。六時間目が始まるが、聡史は「それどころじゃない」の一点張りだ。
「本を預かった生徒には会えたんですか」
針谷にも言われ、ふたりをカウンターの裏にある準備室へと招き入れた。事務仕事をするための机や椅子、コピー機、各種キャビネットに加え、奥には洗面所もついている。窓が広く取られているので明るく、昼には持参した弁当をここで食べる。
別に書庫もあって、利用頻度が減った本を棚から下げて保管している。スペースに限りがあるのでいつまでもは置いておけず、定期的に破棄するのも仕事のうちだ。資料的価値を考慮しなくてはならないので、単純に古いものから処分するわけにはいかず、選別は常に悩ましい。
「本を渡してくれたときにクラスと名前を言ってくれたから、休み時間に会うことができたの。話も聞いてきた」
「なんて言ってました?」と聡史。