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 聡史はさらに話を続けた。
自分のいた場所よりもっと奥の、もうひとつの階段を上がったあたりがざわついている。怒鳴っているような悲鳴をあげているような不穏な声と声。複数の足音や金属のぶつかる音も聞こえる。喧嘩けんかだろうか。大人数ではなさそうだが。あわててコンビニで買ったパンやペットボトルをかき集め、鞄に押し込む。巻き込まれたくない一心だ。
 気配を消して立ち去ろうとしたそのとき、どすんと鈍い音がした。
 重たいものが堅いものに激突するような音。同時に起きるわずかな振動。
 あたりはにわかに静まりかえった。入り乱れていた雑多な音や声がぴたりと止み、雑草を揺らす風の音だけがかさこそと聞こえる。
「おれ、何が起きたのか知るのもこわくて、夢中で階段を下りて、幌をくぐってその場から走り去りました」
 駒子は結んだ唇に力を入れた。相槌あいづちさえ打ちにくい話だ。
「しばらく走って家にたどり着いたんですけど、やっぱり気になって、そのまま中に入れず家のまわりをうろうろして。そしたら遠くからサイレンが聞こえてきました。もしかしてと音のする方に行ってみたら、まさしくさっきの場所に、救急車やパトカーが何台も駐まっていました。通報した人がいたんですね。救急車が来てるってことは、誰かが病院に運ばれるってことでしょう? ふつうの怪我だったのかな。すごく恐いことを想像しちゃったけれどそうでもなかったんだなとほっとして、家に帰りました」
 自宅では弟たちのやかましさにもめげず予習と復習に精を出し、スマホもほとんどいじらずベッドに入った。
 そして翌日の今日も普段どおりに登校し、午前の授業を受けたのだけれど、昼休み、不意に図書館の本をなくしていることに気付いた。鞄から出した記憶はないので、見あたらなければ自宅にもないだろう。
 恐る恐るニュースを検索してみると、廃工場で無職の男性の転落死体が発見されたと報じられていた。怪我をしたのではなく亡くなっている。身元は判明していない。あの場には他に誰かいたはずなのに、それについては書かれていない。警察が来る前にそいつも逃げたのだろうか。
「本を落としたとしたらあの場所です。警察は絶対見つけます。死んだ人の近くに不審物があったとしたら、突き落とした犯人の持ち物だと思うかもしれない。図書館のシールが貼ってあるから高校はすぐ突き止められます。もしかして、もう来たんじゃないですか。まだだとしても来ます。そしたら、先生がその本を借りたのがおれだって教えますよね。取り調べのために、警察に連れて行かれる」
切羽詰まった聡史の声に、駒子は人差し指を立てて「静かに」と注意した。
 自習コーナーの生徒が怪訝けげんな顔でこちらを向いたので、「ごめんね」のポーズを送る。離れているので話の内容は聞かれなかったらしい。また自習に戻ってくれる。
「君の話はだいたいわかった。じっとしてられない気持ちもわかった。それでなんだけど、私からもひとつ、君に話したいことがある」
「先生が、おれに?」
「そうよ。大きな声を出さないで静かに聞いてほしい。約束してくれないなら言わないわよ」
「約束します。けど……」
 駒子はカウンターの内側に設置されている物入れから、一冊の文庫を取り出した。宮部みやべみゆきの『心とろかすような』だ。聡史に向かって差し出す。
「君がなくした本って、たぶんこれだよね?」
 聡史は目をいて固まり、口をぱくぱくさせてから、震える声で言った。
「先生、あの場所にいたんですか。つまり、犯人はせんせ……」
すべてを言い終わる前に、空いている方の手で彼の頭をごく軽くはたいた。
「んなわけないでしょ。やめてよ。人聞きの悪い」
「でも」
「届けてくれた人がいたの。君さ、今までもうっかり落とし物をしたり置き忘れたりすること、あったんじゃないの?」
「今までって、近所の公園のベンチとか?」
「ほらね。あるんだ」
「いやあれは、ドッグランがあるような大きな公園で、いい感じの木陰に背もたれの角度がばっちり合っているベンチが設置されてるんですよ。ちょっとだけうっかりして置き忘れたんですけど、となりの家のおばさんが気付いてうちに届けてくれました。たまたまですよ、たまたま」
「そうやってお気に入りの場所があって、のんびり本を楽しむのはいいけど、もっと気をつけなきゃダメよ。図書館の本はみんなの本なんだから。個人の持ち物でも、もちろん管理はしっかりね」
 たしなめながら駒子はバーコードリーダーを手に取った。これは返却しておくと言うと、聡史がにわかに手を伸ばし、駒子の腕を押さえた。
「待ってください」
「なに? また借りてく? 読みかけだっけ」
「そうじゃなくて、この本をどんな風に受け取ったんですか。事件現場に落ちていた本ですよ。誰が拾ったかは重大問題です」
 まわりを気にして押し殺した声だったが、詰め寄られて駒子はけ反る。
「いつ、誰から受け取ったのか、正確に今ここで答えてください」
「大げさなこと言わないで。今朝よ。一時間目の始まる少し前。このカウンターに生徒が来て……」
「生徒!」
「どこかで誰かから預かったんだと思う。その子は頼まれたようなことを言ってたから」
「何組の誰ですか」
 とても言えないと思った。すっかり頭に血が上っている聡史は、変に勘ぐって、物騒な言葉をまき散らすのが落ちだ。親切で届けてくれたのに、疑惑をぶつけられる相手が気の毒すぎる。
「それは答えられないな」
「どうして。おかしいです」
 駒子は時計に目をやった。もうすぐ五時間目の授業が終わり、休み時間に入る。自習以外の生徒も現れる。どうしたものかとため息をつき、その拍子ひょうしにしゃがみ込んでいる針谷に気付いた。
 注文した本を納品に来てくれた彼は、突然の成り行きに動きようもなく、じっと固まっているのだ。
 カウンター越しに聡史も目を向けて息をのむ。騒がれる前に、針谷は立ち上がった。
「ごめん。文庫目録を出そうとしてたら君が入ってきて、いきなり話が始まったんだ」
「聞いてたんですか」
「そりゃね。誰にも言わないから安心してよ。約束する」
「今井くん、この人は駅前にある書店の店員さんで、針谷さんというの。今日も新しい本を配達しに来てくれたのよ」
 聡史は怯えたように身をすくませた。眼鏡越しの鋭い眼差まなざしに圧倒されたのか、不安と焦りで混乱しているのか。針谷は自分の目尻に気をつけている様子で、精一杯と思われる優しい声音こわねで言った。
「星川先生、本を持ってきてくれた生徒に、詳しい話を聞きに行ってはどうですか。戻ってくるまで、ぼくがここで今井くんと待ってますよ」
「針谷さんが?」
「ええ。もうすぐ休み時間ですよね」
 聡史がおかしな暴走をしないよう見張っているという意味にちがいない。
「すみません。お忙しいのに」
「いえいえ。乗りかかった舟という言葉もありますから」
 思い切り下げられた目尻に、駒子はうなずいた。遠慮している余裕も迷っているひまもない。休み時間のうちに話を聞いて聡史を落ち着かせたい。その先のことはその先だ。