午後一時半を少し過ぎた時間だった。神奈川県立戸代原とよはら高校の北校舎、一階奥にある図書館のカウンターで、駒子こまこは出入りの書店員から注文した本を受け取っていた。
 雑誌が二冊と単行本や文庫が合わせて五冊。雑誌は赴任前から定期購読されているスポーツ総合誌と隔月刊の科学誌だが、書籍は一冊ずつ自分で考えながら選んだ。高校生が興味を持ってくれそうな伊吹有喜いぶきゆきの『犬がいた季節』や青山美智子あおやまみちこの『お探し物は図書室まで』、進路を選択するとき何かしらの参考になるのではと期待してのノンフィクション、さらに外国人から見た日本を描くエッセイ漫画など。
 真新しい本を受け取り、読んでもらえますようにと心から祈る。個人的な趣味趣向や熱意が空回りしてはいけない。利用者の年代は高校生に限定されているので、ニーズに合わせられるかどうか。司書の力量は常に試される。やり甲斐がいもプレッシャーもある職場だ。
 駒子が勤める戸代原高校、通称トヨ高は神奈川県北西部に位置する戸代原市にあり、最寄りのJR駅から歩いて十分ほど。通学手段は鉄道、バス、自転車、徒歩と多彩だ。駅前にはそれなりの商業施設があるものの、五分も歩けば畑が点在しているような土地柄なので校風ものんびりしている。生徒数は一学年二百四十人前後の七クラス。偏差値的には「中の上」で、成績上位者は名の知れた大学に進む。学習意欲は低くないだろうに、図書館の利用率は神奈川全体で見ても高くない。
 開拓の余地があるということだ。一年半前に赴任し、見よう見まねの月日が過ぎ、二年目の秋。駒子の目標ははっきりしている。利用者を増やしたい。
「そうそう星川ほしかわさん、絵本や児童書のパンフレット、持ってきましたよ」
カウンターの脇から声をかけられ、「ありがとう」と笑みを向ける。戸代原駅前に店を構える「ユーカリ書店」の男性店員、針谷敬斗はりたにけいとだ。年齢を聞いたことはないが、今年三十四歳になる駒子よりいくつか年下だろう。
 細面でひょろりとして、メタルフレームの眼鏡をかけている。レンズ越しの目は一重まぶたでやや吊り上がっているせいか、冷たくも鋭くも見えてしまうのだけれど、仕事中は目尻を下げて親しみやすさの倍増を常に心がけていると言う。これまで何度も子どものお客さんに恐がられたり泣かれたり、年配のお客さんには応対を避けられたりして、客商売は向いていないのではと悩んだ末に生み出した苦肉の策だそうだ。
 それを聞いてからは取って付けたような営業スマイルへの違和感も薄れ、素を出しているときの冷徹そうな風貌にも臆さなくなった。じっさい話してみると本への造詣ぞうけいは深く、アドバイスは的確で柔軟性もある。見かけよりずっと話しやすいので、ちょっとした雑談の相手として申し分ない。
一部の例外を除き、各校の図書館に司書はひとりしかいない。異動の辞令と共に新しい赴任先に移り、引き継ぎはあったとしてもごく短時間。その後はひとりでさまざまな業務をこなしていく。本の貸し出しや棚の整理、発注作業はもちろん、着任校の教育方針を理解し、生徒や先生たちと信頼関係を築いていくのも大事な仕事だ。市中に設けられた公立図書館とは異なり、学校司書は教育課程の展開に寄与し、生徒の教養の育成に努めなくてはならない。
「読み慣れてない子は、文字数の少ない本から親しんでもらえればって思うんですよね。短い話でも読み終えれば達成感が味わえますし。でも対象が高校生となると、『なーんだ児童書か』と見向きもされない可能性もあるわけで。プレゼンの腕が試されますわ」
「プレゼンですか。いいですね。星川さんの攻めの姿勢、いつも勉強になります」
「相手は攻められていると思ってないんですよ。なんでしたっけ、ほら、笛吹けど……」
「踊らず?」
 針谷はすかさず応じながら、空いているブックカートに児童書のパンフレットを置き、新しく出た文庫目録も持ってきたんですよと腰をかがめた。出版社が定期的に発行する無料の文庫リストだ。本を選ぶときに重宝する。どこの出版社のものだろう。興味津々でのぞき込んだとき、図書館に飛び込んでくる足音が聞こえた。
 午後の授業中なので、図書館の奥に設けられた自習コーナーに三年生がちらほら座っているだけだ。そんな静けさをねのける勢いで、白いシャツに黒いズボン姿の男子生徒が現れる。
目の前まで来たところで「おおっ」と思う。
「今井くんじゃないの。どうしたの」
 二年C組の今井聡史いまいさとし。本をよく借りてくれる顔見知りの子だ。向こうから話しかけてくることはめったにない。頻繁ひんぱんに声をかけてくる生徒と、そうでない生徒は男女を問わず明確に分かれていて彼は後者。静かに本を選び借りていくのが常なのに、今はただならぬ雰囲気をまとっている。
「先生、大変なんだ。このままだとおれ、殺人犯にされてしまう」
 眉をひそめ耳を疑う。聞き間違いだろうか。そうでなければゲーム? 学園祭で上演する劇の話? 演劇とは無縁に思えるけれど。
「いきなり物騒なこと言わないでよ。驚くでしょ」
「ほんとうの、ほんとうなんです。昨日、すごく信じられないことが突然起きて」
「ちょっと待って。よくわからないけど、困ったことがあったなら担任の先生に話した方がいいんじゃない? 誰だっけ、君の担任。えーっと」
 聡史は首を横に振り、カウンターの上に置かれたプレートを指さした。そこには「相談したいことがあったら なんでも声をかけてね」と書いてある。駒子はあわてて首を横に振り返した。自分の指先でその上の一文を強くなぞる。
「『本について』ってあるでしょ」
「だから、本についてです。おれの話を聞いてください」
「殺人犯の話でもあるわけ?」
 真顔でうなずかれ、二の句が継げなくなる。そう簡単に殺人事件が転がっているはずもないが、力ずくで追い出すわけにもいかない。どうしたものかと考えるそばから彼はしゃべり始めた。
「昨日おれ、ここで借りた本を持って帰って、家に着く前にどこかに寄ってこうと思ったんです。本を読むために」
「家で読まないの?」
「うちには双子の弟がいて、まだ小学生だからすっごくうるさいんです。学校の勉強はやかましくても我慢するとして、本くらい静かにひたりたいじゃないですか。ちょうどいい場所をいくつか見つけてて、そのひとつが古い工場です。もうずっと前に潰れたみたいで、人の気配はまったくなくて、いつもがらんとしています。昨日は放課後、そこに行きました。建物の正面の扉は、こう、シャッターがおりてびくともしないんですけど、左右に通路があります。そのうち左側は狭くて草ぼうぼうで歩けない。でも右側は幅が二メートルくらいあって、昔は車が出入りしていたんじゃないかな。今は白っぽくて四角いほろふさがれているけど、ぺろんと剥がれているところもあって中に入れます」
 思い浮かべながら、駒子は思ったことを口にした。
「今は無人でも所有者はいるでしょ。勝手に入ったらダメよ」
「はい」
 不法侵入であることはわかっているのか、聡史は神妙な面持ちになる。
「中に入ると、壁が崩れて鉄骨がむき出しになった三階建ての建物があります。潰れたときに壊そうとしたけどそのままになった感じ。造りはしっかりしているので、いつも一番手前の階段を上り、二階の板の間に腰を下ろして本を読むんです。昨日もそうやって文庫をめくっていたら、いつの間にかうとうとしたらしくて。急に人の声が聞こえてハッとしました」