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 落ち着くように片手で制してから駒子は話を続ける。
「今井くんの家は種川市にあって、最寄り駅は私鉄の江沢駅なのかな」
「そうです」
「学校の帰り道に寄った問題の倉庫は、家の近くにあるのね?」
「はい」
「そのあたりを散歩していた人が拾ったみたい。今朝、江沢駅の近くで、うちの学校の生徒に渡したのよ。本には『戸代原高校 図書館』ってシールが貼ってあるから、図書館に持って行くようにと生徒に言ったそうなの」
 聡史はしばらく黙り込んでから口を開いた。
「どこで拾ったのかな」
「具体的なことは言わなかったらしい。散歩の途中なら、どこかの道端じゃないかな。君が工場から出て家に帰る道のどこか。気が動転してたなら、手からこぼれ落ちるのは十分考えられるでしょ」
「はい。でも自分の行動を思い返したんですけど、工場から出てひとつ目の角を曲がったところで、おれ、まだ手に持っていたコンビニの袋なんかを鞄に押し込んだんです。ついでにまわりをきょろきょろしたけど、道には何もありませんでした。なのでもし落としたとしたら、工場の出入り口からひとつ目の角までの短い距離ってことに……」
「そのとき、まわりに人はいなかった?」
 駒子の問いかけに聡史はぎょっとした。たった今、近くに誰かいるかのように身を縮める。
「どうしたの」
「だって、いなかったと思うけど、いたのかもしれないと想像すると気味が悪くて」
「ごめん。恐がらせて。散歩している人がいたかなと思って」
 聡史は自分を落ち着かせるように図書準備室を眺めてから息をついた。
「おれが曲がり角にいたのは幌をくぐってすぐのタイミングなんだから、犯人はまだ工場内にいましたよね」
「出入り口は一カ所だけなの?」
「だと思うけど」
 放置されている工場ならば、塀のどこかが崩れていてもおかしくない。犯人がそこから抜け出し、聡史が逃げたのと同じ方向に走れば遭遇した可能性もある。そんな考えがよぎったが、刺激する話は避け、別のことを口にした。
「ねえ今井くん、本のことはさておき、人が亡くなっているんだから、警察にちゃんと届け出るべきじゃないかな。今日帰ったらおうちの人に相談しなよ」
「えっ。なんでですか。話すようなレベルではぜんぜんなくて、おれは工場にいるにはいたけど言葉をハッキリ聞いたわけではないし、何も見てないし。いなかったのと同じです。本を拾ったのが散歩してた人なら、もう関係ないっていうか、ふつうの落とし物ってことでしょう? びびりすぎて馬鹿みたいだ。先生、この本は返却しておいてください」
 聡史は唐突にまくしたて、駒子に本を押しつけた。自分に絡みついているものを振り払うようにきびすを返し、準備室を出て行く。そのままおそらく図書館も。
 後に残され、駒子は針谷を振り返った。ともかく礼を言わなくては。
「助かりました。ありがとうございます。ひとりじゃおろおろするだけでした」
「いきなり殺人犯なんて言われたら、誰でも驚きますよ」
「まさかほんとうの話だったなんて」
 針谷はうなずき、手にしていたスマホの画面を見せてくれた。駒子が円香のもとに行っている間に検索したらしい。種川市で発見された転落死体の記事だ。見出しからすると、事件と事故の両方から捜査が進められているようだ。
 細かい文字を追う気にはなれず、針谷に尋ねた。
「亡くなった方の身元はわかったんでしょうか」
「今日の正午の記事ではまだのようですね」
「今井くんの話からすると、長いこと工場に人の気配はなさそうだったのに」
「星川さんがいない間、少し彼に聞いたんですけど、まわりは空き地や駐車場といった殺風景なところで、ふだんから人通りは少ないそうです。繁華街から離れているので、怪しい人間が出入りしてる形跡もなかったと」
「だったら工場の関係者かもしれませんね。いつまでもほったらかしにはしておけず、今後について話し合っているうちに口論になり、その声を今井くんは聞いた」
 名推理を披露したつもりだったが、針谷は首を傾げるように動かす。そして「転落死の件
は?」と聞き返された。目尻がツンと上がったままなので、怜悧な面差しと相まって、難事件に立ち向かう敏腕刑事を彷彿ほうふつさせる。あくまでも映画やドラマのイメージだが。
「言い争いでどちらも興奮してしまい、ひとりがあやまってバランスを崩したとか。あちこちもろくなっていたとしたら、床を踏み抜いたとか」
「それは十分考えられます。でも身元については、工場に関わりのある人に聞けばすぐにわかると思うんですよ。閉鎖されていても関係者は複数いるでしょう? 写真を見せていけば『ああ、あの人』とピンと来る人がいてもおかしくない」
「たしかに。警察はそこを真っ先に調べますよね。口論の相手も工場関係者ではないのかしら。その人は現場からいなくなっているんですよね。いたら多少なりとも記事に書かれていたかもしれないし、それこそ亡くなった人が誰なのか、手がかりが得られたのでは」
 刑事っぽい人と口をきいている時点で、自分も捜査員になった気分だ。「ですね」と同意され、敏腕に近づいたような誇らしさを味わう。
「ぼくとしては誰が転落を通報したのかも気になります。口論の相手がしたとは考えにくい。携帯から電話したら足がつきます。逃げた意味がなくなる」
 今どき公衆電話はめったにない。屋外から通報するとしたらスマホを利用するのが自然だ。
「今井くんの話からすると、警察が来たのはわりとすぐです。通報がそれだけ早かったってことでしょう?」
 針谷は眉根を寄せてからおもむろに言った。
「そこが、事件解決の大きなポイントになるかもしれませんね」
 敏腕刑事らしい意味深な言葉だ。強く感銘を受けつつ、駒子は手のひらの文庫を見つめた。
 図書委員たちと作ったトヨ高オリジナルのしおりが、本の途中に挟まっている。これを押しつけ背中を向けた聡史は、続きを読まないつもりだろうか。図書館そのものから足が遠のき、顔を見る機会さえなくなるのではないだろうか。
 貴重な利用者が増えるどころか減りかねない事態だ。胸が痛むと同時に、彼が今どんな気持ちでいるかと案じる。本は返却できても、自分の気持ちを白紙に戻すことは容易でないだろう。
 


 その日の放課後、図書委員の子たちが七人ほど集まったので、秋の読書週間に合わせた企画について細かいところを話し合った。去年は着任一年目だったので、毎年恒例というおすすめ本の展示や手作り栞の配布をサポートした。
 今年は春先から、利用者を増やすためのアイディアがないかと生徒たちに話しかけ、他校の試みをピックアップして伝えるなど、生徒の自主性を損なわないよう気をつけながら積極的に関わってきた。その甲斐あって、歴史上の人物にスポットを当てる展示や、好きな一文を抜き書きしたコーナーが早くも登場した。さらに、別の委員会や部活とコラボしている他校の例を知り、やってみたいと言う生徒がいた。
 なんか面白そう、できたらいいな、楽しいかも、という気持ちがあってこそだ。幸いにして夏休み前に出た意見だったので候補を検討し、本の種類が多く、身近なテーマである「料理」に絞った。クッキング部に打診すると、「図書館とうちが?」「えー、どうやって?」「あそこって料理の本もあるの?」などと口々に言いながらも感触は悪くない。顧問である家庭科の先生は「協力できることがあるならば」と前向きな言葉をくれた。
 図書委員の子たちの表情は目に見えて明るくなった。夏休みの間に具体案を考え、料理もしてみようと話が出た。人気レシピ本を活用してのおかずやお菓子、弁当作りでもいいし、小説に登場する料理に挑戦してもいい。中には旅行記に出てくる他国の食べ物をじっさいに食べてみると言う子もいた。メキシコやフィンランド、トルコなど、心当たりのあるレストランに行ってみるそうだ。
 思い思いの活動に浸ってくれたらしく、休み明けは委員会の出席率も高く、笑い声を誘う報告が相次ぎ、意見交換は活発になった。トヨ高の学園祭は十一月中旬、読書週間はその前の十月下旬から始まるので、学園祭の準備をしながらのぞきにきてくれればベストだ。学園祭に弾みをつけられればさらに喜ばしい。
 今日もクッキング部から提供された調理場面の写真を並べたり、野菜の鮮度の見分け方や包丁の使い方で盛り上がったりと、たびたび脱線しつつも参考資料になる本が棚から集まった。駒子は話しかけられたときだけ意見やヒントを出し、あとは聞き役にまわった。脱線も失敗も経験値に繋がる。やる気のない生徒を振り向かせるのが一番むずかしい。

 十七時に閉館し、後片付けを終え、準備室のデスクで書類をチェックしながら、駒子は貸し出しカウンターに目を向けた。内側の棚には例の文庫が置いてある。忘れていたわけではない。しばらく様子見でいいのか、それとも今すぐ誰かに報告すべきか、判断がなかなかつかない。報告する相手にしても、聡史の問題だから聡史の担任教師にすべきだろうか。それともこの学校の図書館担当は副校長なのでそちらにすべきか。悩ましいところだ。
 購入する本を選んだり棚の配置を換えたりも、司書はひとりで考え決めるので負担は小さくないけれど、難しいなりにやり甲斐がある。生徒との関わり合いも同様だ。自分なりの精一杯を尽くせばいいと割り切れる部分もある。
 問題は学校関係者との関わり方。思いのほか融通の利かない人、極端な人、ややこしい人、いい加減な人、無責任な人、口の軽い人がどこの学校にもいるので気が抜けない。校内の力関係まで考えたら身動きが取れない。ふだんは関わり合いが少ないので、ある意味らくもしているが、何かあったときに頼れる存在はなかなか作れない。
 相談は先送りにしてデスクのパソコンをち上げ、事件を検索してみた。さまざまなワードを組み合わせ情報を探っていくと、事件現場は「ヤマモト製作所」という自動車部品工場だとわかった。「種川市」「ヤマモト製作所」で調べると、十年ほど前に倒産し閉鎖されたらしい。住所も出てきた。
 グーグルマップで照らし合わせると、聡史や円香の利用している江沢駅から徒歩圏だ。
 ストリートビューを起動させれば、画面越しにどんな場所なのか知ることはできるだろうが、駒子は印刷のアイコンをクリックし、地図をプリントアウトした。
 ひとり暮らしなので勤務後は融通がきく。考えあぐねて悶々とするよりは動いた方がいいのかもしれない。