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 路地を進むと、コンパクトな庭が現れた。まわりに茂る木々は黄や赤に紅葉していて、パラパラと落ち葉が散っていた。テーブルセットも出ているから、この庭も客席なのかもしれない。日が落ちると肌寒くはなったけれど、自然に囲まれた席で食事をするのも気持ちよさそうだ。
 そう思いながら、店舗らしき建物に向かう。古い一軒家のドアは水色で、鈍い金色のノブが付いていた。ギイーという音をたててドアを開けると、背の高い男性が顔を出した。
「いらっしゃいませ。ようこそ喫茶ドードーへ」
 薄暗い店内には客はいないようだ。
「外でもいいですか?」
 と夕葉は聞いてみる。男性は快く案内してくれながら、この店の主だと伝えられる。「そろり」という愛称で呼ばれているんだ、と自己紹介された。
 庭の片隅に置かれた鉄製の椅子に腰掛けながら、夕葉は店主のそろりさんに看板のことを指摘する。
「そういえば、表のメニュー名、書き間違っていましたよ。きのこじゃなくて、きのうのアヒージョってなっていました」
「いいえ、間違っていません」
 マスク越しでもわかるほどにそろりさんの頬がぷっくりと膨らんだ。
「〈きのうのアヒージョ〉、でいいんですか?」
 夕葉は改めて尋ねると、自信ありげに大きく頷いた。
「〈きのうのアヒージョ〉です。召し上がりますか?」
「昨日のカレー」は聞く。カレーはじっくり煮込んだ翌日のほうが美味しい、と言われる。つまり〈きのうのアヒージョ〉も味が染みているということだろうか。
 注文して、あらためてまわりを見回すと、中庭の奥に木箱が置かれていた。何だろうか、と席を立って覗いてみると、中には落ち葉が山盛りになって入っていた。
 どこからかカタコト音がすると思って顔を上げると、バスケットがロープを伝って動いている。滑車を使ってキッチンから外の席まで料理を運ぶ仕組みになっている。どうやら店内の柱と、庭の真ん中に立っている楡の木の幹とを、ロープで繋いでいるようだ。
 不恰好に揺れながら動く姿がなにやら健気だ。店舗からそろりさんが顔を出し、「ご自分で受け取ってください」と声をかけた。
 夕葉は席に戻り、バスケットを滑車からおろす。中にはパスタ皿の料理のほかに、カトラリーセットにブランケット、それからキャンドルとそれを灯すためのライターも入っていた。
 いそいそとテーブルにセッティングしながら、夕葉はハッと気づく。
「あれ、パスタ?」
 注文したのはアヒージョだったはずだ。でもそんなことはどうでもよくなっていた。きのこパスタに、グリーンの葉が散らされている。パセリかと思ったが、香りが強い。食べてみるとエスニックな風味がした。千切ったパクチーだ。苦手な人も多いと聞くが、夕葉は大好きだ。
 ガーリックが効いた中に、複雑な旨みも感じる。シンプルに見えるけれど、凝っている。
 夕葉はガーリックオイル仕立てのきのこのパスタをじっくり味わいながら、妙子にかけてしまった言葉を思い出していた。
 子どもがいるのが当たり前だと言われると嫌な思いがする自分が、子どもがいるだけで優遇される、などと決めつけるようなことを口走っていた。結婚している人が独身はいいな、と気軽に言ったり、逆もしかり。その立場にならないとわからないこともあるのに、平気でそんな言葉が口を衝く。
 それでもたまに思うことがある。
 子どものいる人は、それが生きる支えになるだろう。でも子どものいない我々はどうだろうか。夕葉は両親がいなくなったあとのことを想像する。たとえ自分がいなくなったとしても、大志は寂しがるだろうが、それだけのことだ。自分が存在する意味は何だろうか。
 真面目に取り組んでいた仕事もあっけなく外された。替えはいるのだ。自分でなくてはならないものなど何もないのではないかと足元が揺らぐ。
 社会に出る女性の数は増えた。しかし実力に関係なく補佐的な職種に回ることは少なくない。だから夫がいて子どもがいないから、という理由で夕葉は正社員から外されたことが納得できなかったのだ。
 けれども、仕事だけでなく育児などそれ以外の負担があることで、彼女たちは多くのストレスに晒されている。そこに気づけていなかったのではないか。
 夕葉は、梓が実家のキッチンでつか見せた、寂しそうな表情を思い出した。子どもの面倒をみてくれる彼女の夫を誉めたときのことだ。
 梓は何か訴えたかったのかもしれない。育児に悩んでいた可能性もある。
 思い過ごしかもしれない。もちろん夕葉が助言できることとは限らない。けれどもあの場でもう少し差し伸べる手があったのではないか。
 それなのに夕葉はブドウの食べかすを見て、「ずいぶんいっぱい食べられたんだね」などと嫌みを言っていた。それは子どもがいることを大前提に話されるのと同じくらい気遣いのないことだ。
 そういう小さなことに気づいていかなくてはいけない。
 夕葉は目の前でゆらめくキャンドルに誓った。

 夕葉がバスケットに食べ終えた食器を入れていると、そろりさんが店から出てきた。
「〈きのうのアヒージョ〉、いかがでしたか?」
「パスタでしたよ」
 やんわりとそろりさんを正す。
「ええ、昨日作ったアヒージョのオイルでパスタを和えたんですよ」
 仕上げにナンプラーを加えたそうで、それが味に深みを出していたようだ。オーダーミスではなく、しかもアヒージョとは元々は刻んだガーリックのことだと語源まで教えてくれた。
「どうりでガーリックが効いていました」
「昨日の味をもう一度楽しめるんですよ。だからこれは時を戻せるアヒージョなんです」
 店主は嬉しそうに目を細めて笑った。
「時を戻す、ですか。できることなら戻したいです」
 夕葉は時を戻して同僚にかけてしまった言葉を取り消したい、と三者会議での出来事をそろりさんに話した。
 この森のような空気がそうさせたのだろうか、自分の胸のうちを初対面の相手に話すことなど普段はしないのに、なぜだか自然と言葉が口を衝いていた。
「自分だって違う立場の人から勝手に断定されて嫌だったくせに、他人に同じことをしていることに自分で呆れました」
「立場が変われば考えも変わる。それは仕方のないことです。だから知らなかったことを知っていく、それが大切なんです」
 知らなかったことを知っていく……。夕葉はそう言われて、さっき駅ナカで目にしたキャンペーンのことが頭をよぎった。
 使いかけのコスメや衣類の回収はリサイクルへの喚起だろう。それ自体は素晴らしい行為だと思う。ただ、どこまで本当にエコロジーなのかはわからない。
 リサイクルには、運搬時だけでなく容器の洗浄の際にお湯を使うことなどでもCO2が発生する。衣類の縫製やコスメの梱包作業に携わっている人たちは、過酷な労働環境の中で働かされてはいないだろうか。
 知らなかっただけだ。でも知らないことがどんなに恥ずかしいことかを思い知った。
「こんなこともあったんです」
 秋のはじめに実家で幼馴染の梓に対し、子育ての悩みなど微塵みじんも想像せずに振る舞ってしまったことを夕葉はそろりさんに打ち明ける。気づかずに人を傷つけてしまい、怖さを抱いたこと……。
 話を聞いていたそろりさんが、「ちょっと待っていてくださいね」と、店に入り、手に何か持って戻ってきた。
「よかったらこれ、どうぞ」
 唐突にワイヤーで出来たハンガーを差し出され、戸惑う。
「自在に動かせるんです。ほら」
 そろりさんは三角形のハンガーで菱形ひしがたを作り、また元の三角形に形を整えた。
「曲げても、元に戻せるんです。どうでしょう」
 いったん曲がってしまったものでも手を加えればちゃんとまっすぐになるんですよ、と続ける。
「一度外に出てしまった言葉は、魂を持ってしまいますから。取り扱いに気をつけないといけないんですよ」
 言葉を発する際に、いったん立ち止まって相手の立場や背景を想像したほうがいい。言葉が持っている力のことを「言霊」というんだそうだ。
「でも、あまり考えすぎてしまうと、何も言えなくなってしまう。だから訓練をするんです。戻ったり、やり直したりしながら」
 そろりさんはそう言いながら、ハンガーを両手でくっと押して円形にしたり、四角形をこしらえたりした。
 そろりさんが手渡してくれたが、ハンガーは自宅に山ほどある。いただいて帰る必要はないけれど、迷う夕葉の背中を押す力になった。
 店を出てからスマホを出すと、梓からメッセージが届いていた。添付されている写真を見ると、すやすや眠る水摘輝の横に、ギフトボックスに入った夕葉の会社の製品が並んで置かれていた。
〈夕葉ねぇのイラストに癒されるー。可愛いいー〉
 自分へのご褒美だと続いた。買ってくれたのだ。お礼とともに、晃一のいない日に会う約束をしよう。それでじっくり話を聞いてあげよう、と思った。お土産にシャインマスカットを持っていこう。
 放ってしまった言葉は戻らない。うやむやにして隠すのではなく、挽回しよう。素直に「ごめんなさい」と伝えよう。自分がかけられて嫌だった言葉を、立場を変えて発してしまったことを謝ろう。そう、時を戻して。

 お客さんが帰った庭先で、そろりは木箱を覗きました。
「うん、上出来だ。しっかり育ってくれよ」
 さて、これで何を作ると思いますか? 私はわかりました。堆肥たいひにしてこの庭の栄養にするんです。でもこの落ち葉が堆肥になるにはあと半年以上かかるはずです。
「ゆっくりと時間をかけて」
 急いでもいいことないですからね。

 さて、キッチンに戻ってきたそろりが、栗の実に包丁で切り込みを入れています。
「真ん中に十文字を入れて」
 このあとオーブンに入れて、三十分ほど焼くようです。ここもじっくり待ちましょう。
 出来上がった焼き栗は、バターと塩をのせて食べるそうですよ。秋は食欲が増しますね。

 

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