出産する夢を見た。
目が覚めて、徳永夕葉は、しばらくクロス貼りの天井を眺めていた。
つい数週間前までは、夜中に何度も起きてエアコンのスイッチを入れていたのに、今朝は肌寒いくらいだ。ワッフル地のブランケットを肩までかけ直し、臍のあたりでそっと両手を重ねた。
「お腹も大きくなっていないのに、いきなり出産って何よね」
四十を過ぎて久しい。経験がないのだから妊娠や出産がどんなふうなのかはわからない。でも、経産婦の友人の話や机上の知識で、それがどんなに大変なことなのかは想像がつく。
夢の中では、トイレで用を足すよりもすんなりと出産し、「生まれたあ」と軽やかに言っていた。同時に「ああ、自分も母親になるんだな」と込み上げる気持ちだけを、目覚めたあともいつまでも引き摺っていて、そんな自分に驚く。
隣のベッドを見ると、すでに布団は整えられている。首を持ち上げると、冷蔵庫に仕舞い忘れたオレンジジュースのペットボトルが、水滴をまとって置かれていた。今朝方、夫の大志が就寝が遅い夕葉を気遣いながら、玄関のドアを閉める音を聞いたのは覚えている。うっすらと目を開けると、窓の向こうの朝になりきらない淡いブルーの空がブラインド越しに見えた。
「いま、何時だろう」とは思ったけれど時間を確認する気力もなく、再び眠りに落ちた。そのあとで夢を見たのだろう。
今日から三日間の行程で東北地方のお得意先をまわるんだ、と大志から聞いていた。
インターネットコンテンツを扱う大志の会社は、コロナ禍がはじまってすぐにテレワークに移行した。感染者数の落ち着いたいまも基本的には出社をしなくてもいい、とされているようだが、大志は週に二、三日程度は電車に乗って、会社に向かう。しばらく自粛していた出張も再開した。
昨夜の会話を思い出す。
「先方が来いって言うの?」
この数年で、オンラインでどことでも繋がる便利さを知ったというのに、わざわざ経費や時間をかけてまで出向く必要があるのだろうか。
「やっぱり対面で話したほうが想いが伝わる気がするんだよね」
と迷いもなく言う大志に、夕葉が茶化した。
「案外古めかしい考えをするよね」
「いや、意外とこれが先進的なんだって」
もちろん業種にもよるだろうけれど、全日出社を強要する会社はさすがに少ないだろう。ただ、大志によると、毎日テレワークをする人よりも、週に数回出社する人のほうが幸福度が高い、という調査報告があるそうだ。
「それに、特に若い世代はコミュニケーションが不足するとメンタル的にもよくないんだ
って」
ネットリテラシーが低い世代ならいざしらず、二十代の意見だということに驚かされる。
「私には理解できないなあ。ずっと在宅のほうがストレスがかからないに決まってるじゃん」
自分に置き換えて夕葉は言う。
自然素材を使った雑貨やコスメを扱う会社で、ネット通販を担当している夕葉は、在宅で作業ができる、という条件でいまの仕事を選んだ。まだコロナ禍になる前のことだ。
仕事のやり方は、入社当時から変わらない。顧客からの注文を受け、配送指示をする。商品の在庫は会社から離れた倉庫にあるが、出荷は他社の在庫も扱う倉庫側が一括して請け負ってくれる。夕葉はパソコンの前で全ての業務を遂行できる。
ただし、コロナ禍を境に変わったことがある。注文数だ。それがぐっと増えた。業績がぐんと上がったのは、巣篭もり需要と呼ばれる現象のおかげだ。それに加え、SDGsをはじめとする持続可能な環境への関心から、夕葉のメーカーが扱うようなオーガニックな商品が注目されるようになったことも一つの要因だ。
特にコスメは自社でオリジナル商品を開発し、それがインスタなどのSNSを中心に広まった。
肌や地球の負担になるようなものは一切入れない、それは社長の水上の信条だ。
「成分表を見れば、一目瞭然」
合言葉のように購入サイトでも強く謳っている。
夕葉もいまの会社に入社する前は、化粧品やスキンケアアイテムを選ぶのに、成分など気にしたことはなかった。「美白」や「保湿」などの効能が選ぶ基準であり、どんな成分が入っているかなど知ろうともしなかった。
パッケージを見れば、辛うじて読み取れる程度の小さな文字で、成分がずらずらと表記されている。そういうものだと疑わなかったし、むしろたくさんの成分が含まれているほうが、効果があると思っていた。
夕葉はゆっくりと体を起こし、洗面所に向かう。水の冷たさに驚きながら洗顔し、肩を竦める。鏡の脇の扉を開け、いくつか並んだコスメの中から自社の化粧水を手に取った。
パッケージの裏には十に満たない程度の成分が記されている。どれも自然由来のものだ。これが顧客の安心を呼ぶ。即効性はなくとも、肌本来の機能を高めるサポートをする。特にアレルギーに敏感なユーザーからは特段の信頼が置かれている。
とろみのない液体を手のひらに載せ、両手で馴染ませる。ひんやりとした化粧水がやがて体温に近づく。両手をそっと頬に置き、ゆっくりと顔全体に広げると、ほのかなラベンダーの香りに包まれた。すっと息を吸い込むと、体の中から潤うような気がした。
使い終えた化粧水をラックに戻す。ラベルに印刷されたラベンダーのイラストは、夕葉が描いた。通販サイト内で使われているカットやアイコン、ギフト用包装の地紋なども夕葉に任されている。
来春には新商品の美容オイルが発売される。パッケージデザインもそろそろ詰めていかなくてはならない。頭の中でスケジュール管理をしながら、夕葉はリビングのシェルフ脇の充電器からスマホを取り上げた。
かつてはベッドサイドにスマホを置いていたが、手持ち無沙汰に動画サイトを眺めているうちに、うっかり朝を迎えてしまうこともあった。もともと深夜作業が多く、夜型の夕葉だが、さすがに昼夜が完全に逆転するのは心身によくない。意識してスマホを遠ざけるようにしてから、寝付きがよくなったように感じる。
充電が満タンになったスマホには、メッセージの受信を示すマークが点灯していた。タップすると、夫から数枚の画像が届いていた。
〈着いたらこの景色〉
東北はそろそろ紅葉かも、と話していたが、予想が的中したようだ。
〈すごいね〉
アニメーションになったスタンプを添付すると、デフォルメされた小鳥のイラストが羽をバタバタさせた。
アプリを閉じようとして、別のメッセージが届いているのに気づいた。実家の母からだ。
〈梓ちゃんがミキちゃん連れて遊びに来たいんだって。来週の日曜、来られる?〉
実家までは一時間弱の距離だ。雨戸の調子が悪いだの、ストーブを出したいだのと細かな用事で気軽に呼ばれる。休みくらいゆっくりしたいが、もう若くはない両親のために、できる限りサポートはしたい、とは常々考えている。
〈行けるよ〉
来週末は、美大時代の先輩の個展の手伝いにボランティアとして駆り出されていたけれど、サポートスタッフは他にも何人かいる。事前に連絡をしておけば、一日欠席したところで迷惑をかけるというほどではない。
〈昼前には来て。赤ちゃんの面倒をみるなんて老夫婦には無理だから〉
了解、と親指と人差し指を丸めたオッケーのマークのスタンプと一緒に送信した。スマホを閉じようとしたら、メッセージの受信が続いた。
〈ミキちゃん、ひとつになったと思う?〉
梓の子どもが一歳になったか、との質問だ。親とのメッセージのやり取りには若干の言葉の補足が必要だ。
〈まだでしょ〉
記憶をたぐり寄せながら返信した。
幼馴染の梓から出産の報告があったのは、確か春になったばかりの頃だ。その数ヶ月前に届いた年賀状には、そんなことには一切触れていなかっただけに驚いた。
梓は夕葉よりもひとまわり年下だ。結婚当初から熱心に不妊治療をしていたことは聞いていた。その期間が長くなるにつれ、次第に話題から避けるようになっていた。
はっきりとは聞いていないけれど、何度か流産もしたようだ。おそらく、無事に生まれるまでは不安で、報告できなかったのだろう。
お祝いのメッセージを送ると、産着にくるまれた新生児の画像が大量に送られてきた。
〈コロナが落ち着いたら会いに行くね〉
そう返信しながら、コロナ禍がもたらした新しい常識にそっと感謝する。
〈水摘輝を夕葉ねぇに抱っこしてもらいたいー〉
間違い探しかというくらいに同じような写真を比べると、微妙にアングルが違うようだった。
数ヶ月前のそんなやりとりを思い出している間も、母からのメッセージがしつこく続く。
〈お祝いにお洋服でも買おうかと思っていたけど、サイズがわからないもんね〉
〈新生児はすぐに着られなくなって、洋服はあんまり嬉しくないみたいだよ。やっぱり現
金がいいでしょ〉
なんだかんだそれが一番嬉しいのだ。夕葉は釘を刺すように続けた。
〈子どもの名前、水摘輝ちゃんだからね。みつき。間違えないようにね〉
母はいつになっても梓の娘の名前を覚えない。
〈ミキちゃんで通じるでしょ〉
母に覚える気はさらさらないようだ。他人が自分の娘のことを「ゆうは」だの「ゆは」だのと間違って呼んだとしたら、快くは思わないくせに。
〈だって覚えづらいんだもん。漢字も難しくて頭に入らない〉
どう読めばそうなるのか、と頭を捻りたくなるような名前が多い中、水摘輝はいいほうだ。敢えて覚えないようにしているのではないか、と勘ぐりたくもなる。