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 実家の玄関先で靴を脱いでいると、父が出迎えてくれる。
「おお、帰ってきたか。母さんがお待ちかねだぞ」
 夕葉がやれやれとダイニングに顔を出すと、母に尋ねられる。
「テーブルクロスどっちがいいと思う?」
 いきなり相談案件だ。
「こっちでいいんじゃない?」
 手にする二枚のクロスのうち、夕葉が適当にサーモンピンクを指差すと、母は困ったようにため息をつく。
「でも赤ちゃんに汚されちゃっても困るのよね。これお気に入りだから」
「じゃあ、花柄のほうにしたら」
 と夕葉がもう一枚に触れると、母はそうよねと頷きながらそそくさとテーブルに広げる。
 要は承認が欲しいのだ。
「お食事は高砂たかさご寿司さんに出前をお願いしているから、食後にフルーツね」
 すっかり用意万端だ。母がキッチンから運んできたフルーツ皿に夕葉の目が釘付けになる。
「シャインマスカットじゃん。奮発したねえ」
 黄緑色の大粒のブドウが二房、デンと皿の真ん中に盛られ、カットフルーツがまわりを取り囲んでいる。
「大人二人分ならこのくらいでいいでしょ」
 花柄のテーブルクロスにブドウの色が映えている。取り合わせの確認をしたのだろう、母が満足げに眺めている。
「二人?」
 いったん出した皿を、母が冷蔵庫に戻しているのか、キッチンからくぐもった声が聞こえた。
「そう、パパさんも一緒に来るって」
 梓とその夫、それから両親と私。大人は総勢五人になるはずだが、そもそも我々は高級ブドウを食べる頭数には入っていないようだ。
 母がパタパタと準備に追われている一方、父はのんびりとステレオの前に立って、BGMに流すレコードを選んでいる。もてなし好きの母とマイペースながらも人好きの父。来客前のいつもの光景が広がる。
 約束の十一時半きっかりに、玄関のインターフォンが鳴った。
 梓は結婚後も、夫婦で何度か夕葉の実家を来訪してはいたけれど、それにしても会うのは何年ぶりだろうか。玄関先に現れたのは、すっかり落ち着いた女性だ。時折会っているのに頭の中の記憶は一向に更新されない。出会った頃のままで止まっている。
 それでも自然素材のワンピースを纏った姿には、草原で花摘みでもしてきたかのような少女っぽさが残る。梓の腕の中でおくるみに包まれた赤ちゃんが、くるりと体勢を変えた。
「ちょっとおねむみたいで」
「大きな目だね。梓似の美人になるねえ」
 とりあえず母親に似ている、と言えば正解だと知っている。正直、赤ん坊の顔なんて大きな差はない。この先、どんどん変化していく。夕葉が梓の胸元を覗き込んでいると、
「抱いてやって」
 と梓は赤ちゃんを夕葉に渡そうとする。首は据わっているのだろうか、誤って落としてしまわないだろうか、扱い方がわからず戸惑う。
「うん、あとで」
「夕葉ねぇに水摘輝を会わせたいってずっと言っていたんですよ」
 車を駐車場に置いてきたばかりの梓の夫の晃一こういちが、靴を脱ぎながら笑う。
「だってえ、夕葉ねぇは水摘輝の伯母さんだもんねー」
 梓は甘ったるい声を腕の中に送った。
「伯母さん?」
「夕葉ねぇにとっては妹の娘だもん」
 年は重ねているとはいえ、子どもすらいない自分が他人から「おばさん」呼ばわりされるのに慣れていない。
「そうだね」
 笑顔がっていないことを願いながら、夕葉はリビングから玄関先に出てきた母の顔を窺う。
 すると母が、見たこともないような、穏やかな笑みを湛え、溢れんばかりの慈愛を水摘輝に注いでいた。
「本当にねえ」
 リビングのラグに腰掛けると、梓が赤ちゃんを抱き直し、顔を両親に向けた。
「おばちゃんは水摘輝のおばあちゃん、おじちゃんはおじいちゃんだよ。孫だと思ってくれていいからね」
 そんなことを言われて気分を害するだろうと思ったのに、父も母も嬉しそうだ。
「まあ、突然こんなに可愛い孫が出来ちゃったわ」
 母の華やぐような声がリビング内を舞った。
「なんだか実家にいるみたい」
 ラグの上で足を崩した梓が寛いだ笑顔を見せた。
 十二時になると近所の高砂寿司から出前が届いた。寿司桶の寿司をつまみながら、梓が水摘輝が生まれるまでの苦労を話した。懐妊してからも、切迫流産のおそれがあったことなどをリアルに聞かされると、体の奥が痛むような感覚に襲われ、出産経験のない夕葉は逃げ出したくなる。
 晃一は、水摘輝に慣れた手つきで持参した水などを飲ませている。
「まあ、パパさんが面倒みてくれるのねえ」
 それを見て母が目を細め、俺なんか何もしなかったぞ、と父が自慢することでもないのに得意げに言った。
 食後に母がフルーツ皿を出すと、梓の声のトーンが上がった。
「わあ、ブドウ。水摘輝の大好物だもんねー」
「もう食べられるの?」
 母が目を丸くする。
「うん。もうすぐ七ヶ月だからね。少しずつ離乳食が始まっていて、ブドウも細かくすれば大丈夫なの」
 梓は器用に皮を剥いていく。食前に出した紅茶のソーサーに置き、スプーンでぐにゃりと潰すと、汁がソーサーに広がった。
 形状がなくなったシャインマスカットを、梓が持参してきた幼児用のスプーンで水摘輝の口に運ぶ。味がわかるのか、水摘輝が満足そうに口を動かした。
「まあ、上手に食べられるのねえ」
 母が大袈裟に感嘆の声を上げていた。

 満腹になったのか、腕に抱かれたまますっかり眠ってしまった水摘輝を、晃一が和室に連れていく。母が甲斐甲斐かいがいしくバスタオルを敷くと、晃一がそっと腕を傾けて寝かした。
 その様子をリビングから見ていた夕葉に、声を潜めながら梓が声をかける。
「大志さんは今日は留守番?」
「火曜まで出張」
「また出張?」
 母が呆れたように言う。
「そんなに出張ばっかりだったら、子どもなんて出来るはずないわね」
 独身の頃は外泊どころかちょっと帰りが遅くなるだけでもうるさかったくせに、結婚したらしたで「子作り」だの「妊活」だの言われて、返事に困る。
 まともに取り合わずにいると、
「でも、僕の学生時代の仲間にも、子どものいない夫婦がいますけど、いつまでも恋人同士みたいに仲がいいんですよ。子どもがいなくても幸せな場合もありますから」
 晃一がフルーツ皿に手を伸ばしながら無邪気に笑った。
「私たちも今回うまくいかなかったら諦めようって話していたんだ。子どものいない人生の中で幸せになれる方法を見つけようって」
 胸に手をやりながら梓が言うと、晃一も顔を合わせて頷く。
「うちはたまたま授かっただけですから」
 晃一が勝ち誇ったような笑顔を夕葉に見せた。
 夕葉がキッチンに立ってお茶をいれていると、梓が手伝うね、と横に並ぶ。
「晃一さん、すっかりいいお父さんだね。あんなに甲斐甲斐しく面倒みてくれて安心だね」
 水摘輝が寝ている和室に座って、ブランケットをかけ直している晃一をチラッとみやって夕葉が言う。
 思いがけない間があってから、小さく頷いた。それきり梓は口をつぐんで寂しげな表情を浮かべた。妙な沈黙を埋めるために夕葉が明るく話しかける。
「生まれるまで大変だったんだから、かわいくて仕方ないんじゃない?」
「うん。だから水摘輝には何でもしてあげたいんだ。本人が喜ぶようにゆったり育てたい。それで思いっきり甘やかしちゃう」
 昔から変わらない愛くるしい笑顔を見せた梓に安心する。
 湯呑みを並べると、梓がおずおずと話しかけてきた。
「もしよかったら私たちの通っていた不妊治療の医師を紹介しようか。四十代での出産も諦める必要ないよ」
 都内にある医院に、いまも定期的に検診に通っているという。
「うちはいいかな」
 夕葉は適当に濁す。
「一度、大志さんも検査してもらってみたら? 不妊って男性が原因なのが割合的にも多いんだよ」
 悪気がないのだ。本人は親切心で言ってくれているのだろう。大きなお世話だ、とはとても言えない。
 結婚した夫婦には子どもがいるのが当たり前だという風潮が、いまだに蔓延はびこっているのはなぜだろう。
 時代は変わり、男女が平等に社会に出ることに疑問を持つ人はいないのに、なぜ子どもに関しては「いる」が前提になるのか。
「いなくてもいいじゃない」、「いない生活もいいよね」と慮っているつもりなのだろうが、そもそも慰められる必要がない。
 にもかかわらず、なぜいないのか、子どもはいらないという道をなぜ選んだのか、その理由を述べる必要に迫られる。
 かと思えば、不自然なまでに気遣われたりするのも面倒でならない。
 夕葉が黙っていると、梓が話題を変えた。
「そういえば夕葉ねぇの会社のコスメって最近人気なんでしょ」
 パッケージも夕葉が手がけていることも知って、サイトを見てくれたらしい。
「敏感肌のお客さんやオーガニックな意識の高い人たちが選んでくれているみたい」
「気になっているんだよね」
 と梓が口にした。
「自然由来の成分で、赤ちゃんにも安心の処方だから、サンプル送ろうか?」
 家族で使ってくれるユーザーも多い。気に入って使ってもらえたら嬉しい、と夕葉は伝えた。
「ありがとう。でも水摘輝、いまは産科で知り合ったママ友が教えてくれたベビーコスメを使っているから」
 やんわり断られ、まるでこちらが前のめりに営業したようで恥ずかしくなる。
 ──気になっている。
 便利な言い回しだ。「欲しい」でもなく「買いたい」でもなく、ただ「気になっている」だけ。どこか上から見られているような、嫌な後味が残った。
 リビングに戻ると、枝だけになったブドウが皿で無造作に転がっていた。その横で潰れた粒が汚らしく散乱している。
「ずいぶんいっぱい食べられたんだね」
 夕葉はそっと皿をテーブルの脇に避け、湯呑みを置いた。