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 梓の実家は彼女の祖父母の代から続く洋菓子店だ。おしゃれで凝ったスイーツが並ぶ店ではなく、昔ながらの街のケーキ店だ。店は夕葉の家のほど近くにあり、誕生日やクリスマス、あるいは来客時などに利用するうちに家族ぐるみで親しくなった。
 一人娘の梓を、営業中に夕葉の家で預かることも多く、そんな時には夕葉が梓の遊び相手として任命された。当時から絵が得意だった夕葉は、クレヨンや色鉛筆を使って、梓の好きなキャラクターや本人や家族の似顔絵を描いてあげた。一人っ子の夕葉は、「夕葉ねぇ」と慕ってくれる梓のことを、本当の妹ができたようで嬉しかった。
 代替わりをするタイミングと梓の高校進学が重なり、一家は梓の母親の実家のある他県に引っ越し、店も移転した。それ以降も交流は続き、学生時代のバイト先で知り合った相手と梓が結婚したときは、夕葉一家も式に呼ばれた。

 夕葉が結婚したのは、梓よりもあとだ。夫の大志とは友人の紹介で知り合った。
 十年ほど前、出会ったときにはお互い三十代の半ばで、すでにそれぞれの暮らしの基盤ができあがっていた。互いの一人暮らし歴も長く、生活スタイルや嗜好しこうの摺り合わせを一からしていく必要性を感じなかった。
 もちろん結婚するのだから、これまでのように勝手気ままという訳にはいかない。自立している領分を保ちつつ、一緒に生きていく人生は想像できた。けれどもここでさらに新しい家族を迎え、人生を組み立て直す想像はし難かった。
 ともに仕事の忙しさのほうが先立ち、早々に子どもを作ることは諦めた。
 いったんそうと決めてしまうと、かえって人生が見通せ、清々しい気持ちがした。
 ──両親は孫を抱きたかったろうか。大志は本当は父親になりたかったかもしれない。
 そういう気持ちが全くよぎらない、と言えば嘘になる。
 夕葉はさっきまで見ていた夢の真意を考えていた。夢は深層心理だという人もいれば、目が覚める直前に感知した音に関係しているという説もある。もちろん特に意味はないのかもしれない。子どもなんていらない、そう思っていたはずだ。
 でも浮き立っていた心は、夕葉の意志に構うことなく躍り続けていた。
「実際に妊娠が判明したときは、こんな気持ちになるのだろうか」
 疑似体験をさせてもらった気分だ。もしこの年齢で出産をしたら、ちょっとしたニュースになるだろう。笑いが漏れた。

 そろりがキッチンでさっきから指を折りながらぶつぶつとなにやら唱えています。
「舞茸、しめじ、えのきにエリンギ。椎茸、マッシュルーム……」
 なにかの魔法の呪文かと思いきや、秋に収穫されるキノコの種類を暗唱しているようです。
 キノコといえば、「喫茶ドードー」の庭にも生えていたりするのですが、野生のキノコは種類の見分けが難しいのです。うっかり毒のあるキノコなどを食べたりしたら大変です。
 ですから、もちろん八百屋やスーパーで仕入れてきています。
「キノコのタルトは焼いたし」
 ええ、昨年の秋には定番のようにしばしば焼いていましたね。
「キノコのパスタ、キノコのホイル焼き、キノコのカレーもいいな」
 ああ、どれも魅力的です。お腹がグゥーッと鳴りそうです。
「あとは、キノコのアヒージョ」
 オイルとガーリックでキノコを煮込んだスペイン料理のことですね。パンを浸して食べたらとても美味しいでしょう。
「ん? アヒージョ?」
 そろりはどうやら語源が気になるようです。辞書をささっとめくって、
「なるほど。アヒージョ(ajillo)とはスペイン語で『刻んだニンニク』のこと、か」
 それは知りませんでした。

「コスメユーザーのアンケート企画の件だけど、来月一日スタートいけそうですか?」
 オンラインで行われている月曜の定例会議で、社長の水上から夕葉に声がかかる。
「フォーマットは出来ていますから、シミュレーションを終えればすぐにいけます」
 夕葉が答え終わると、アプリ上で坂口妙子さかぐちたえこにメンションする。
「雑貨はどう? オーガニックコットンのブランケットの在庫確保できそう?」
「想像以上に注文が来ているんです。このままだと週末には在庫がなくなりそうなので、追加の発注を急ぎます」
 ここ数日、冷え込んだせいだろう。ブランケットやストールの注文が急に増えた。
 オンラインショッピングは、主にコスメを担当する夕葉と雑貨類全般を担当する妙子の二名体制で運営している。妙子はもともとは商品開発やバイヤーとの調整などを担当していたが、二年前、出産を機に、在宅で仕事のできる部署に異動希望を出していたようだ。
 夕葉ひとりでこなせない仕事量ではなかったけれど、妙子の異動理由に対して、「誰もが働きやすい職場づくり」を掲げる水上に異論はなかった。同時に夕葉にも異動の打診はあったが、やはり在宅メインと考えると、他の部署に移る選択肢はなかった。
「坂口さんがオンラインのフォローに回れば、徳永さんにイラストやデザインを発注しやすくなる」
 と水上に言われたおかげで、やりがいが増えたようにも感じた。
 サイトやパッケージのカットは社内に絵を描ける人間がいるから外注せずにすむ、という消極的な理由で夕葉に回ってきているのはわかっていた。それでも絵を描かせてもらえるのは嬉しかった。

 夕葉が美大を出て新卒で就職したのは、就職情報誌の制作を請け負っていた編集プロダクションだ。そこにデザイナーとして雇用された。今でこそ情報誌はネットにおされ、その立ち位置を失っているが、夕葉が入社した当時は広告主も紙面での掲載を重視していた時代だ。
 モノクロの限られた枠内でどれだけその会社の魅力を伝えられるか、デザイナーにもセンスが求められた。夕葉はフォント選びや添えるイラストで明るくかつ清潔感のあるイメージを作るのが得意で、社として一括で請け負うことが多い中、夕葉を個人的に指名する取引先もあった。
 しかし、少ない人数で毎週出版される雑誌のレイアウトをするのは楽ではない。しかも鮮度が大切な情報誌だ。締め切りは常にタイトで、印刷直前の差し替えなども日常的。いつでも対応できるようにと、大げさではなく二十四時間働いていたこともある。
 四十代に差し掛かる頃、さすがに体が音を上げた。いや体の前に心に負担が来た。いつものように出社しようとして、一歩も動けなくなった。会社を半年ほど休んだ程度で社会復帰できたのは幸いだった。これまでのように働くのはやめよう。そう決意し、いまの会社に転職した。
 夫の大志が夕葉の休職中も、さほど気にせずに普段と変わらず接してくれた。日常にすんなり戻れたのは、彼のおおらかな性格のおかげだったといまも感謝している。

 その週末は、からりとした秋晴れになった。
 梓に渡す手土産の買い出しを母から頼まれ、途中のターミナル駅で降りる。
〈日持ちがして、小分けのもの。赤ちゃんは食べられなくてもいいけど、甘党も辛党も好むもの。みはる洋菓子店で売っているもの以外〉
 母の要望はなかなかに厳しい。「みはる洋菓子店」は梓の実家のケーキ店の名前だ。似たようなものでは失礼になるのは、指示されるまでもない。夕葉はネットで検索し、和菓子を現代風にアレンジした商品を見つけた。その店の最寄りがこのターミナル駅だ。
 白木しらき格子戸こうしどに取り囲まれた清潔感のある路面店はすぐに見つかった。そこでマロングラッセを栗餡でくるんだ菓子を買い求め、少し離れた地下鉄の駅に向かう。
 近道になるかと裏通りを使ってみる。通りすがり、隠れ家風のカフェの看板が出ていた。本日のおすすめとして〈きのこのアヒージョ〉と書かれている。
「もうそんな季節か」
 四十歳を過ぎてから、一年がとても早く感じられるようになった。しかもこの三年近くにわたるコロナ禍で、月日がぽっかり宙に浮いてしまったようにも感じて、気が急く。
 空にはうろこ雲がたなびいていた。早めの七五三だろう。晴着姿の家族連れとすれ違いざま、いい天気になってよかったね、と心の中で声を掛けた。