きのうまで腰の高さほどあった両脇の名前も知らない草が刈りとられたばかりのようだった。遊歩道は蝉が鳴き、むっと青い匂いがしていた。アスファルトの上には何匹もみみずが這い出て干からびかけている。コンビニエンスストアからの帰り道、ここはゆるい上り坂になる。
 ビーチサンダルさえ重く感じる足で上っている途中、自転車の高校生二人とぬるい風に追い越された。彼女たちは、おそらく吹奏楽部の部員だ。一階に住む大家さんが教えてくれたように、長いスカート、学校指定の靴下、肩より長い髪はまとめ、生徒手帳にある「制服の正しい着方」の見本のようだ。きょうもこれから、野球部の応援練習をするのだろう。
 ペダルは、少しずつ重たくなっていくらしい。てっぺんの手前で、彼女たちは揃って立ち漕ぎを始めた。背中を右に左にと揺らしながら、道のど真ん中を進んでいく。セーラーの襟まで白い夏服は光り、やがて見えなくなった。
 まぶしいと思う。いいな、と思う。たった十年ほど前のことなのに、全部遠く見える。
 足元に目を戻すと、私の影は短く濃かった。
 ああなりたいとか、こうなりたいとか、あのころは私も、もっと素直に思えていたような気がする。
 私はいつから変わってしまったんだろう。
 私はいつから、元グラビアアイドルがEカップかFカップかで悩み続けるような人間になってしまったんだろう。
 空を見上げて笑おうとしてみる。私はたぶん今、世界一おきらくな悩みを持つ人間だ。たかが胸、たかが胸、たかが……。
 自転車がもう一台、過ぎていく。今度も女子生徒だった。彼女は、みみずを慌てて避けた。前輪では避けられたのだろうけれど、後輪で轢いていて、笑いは引っ込む。
 世界一おきらくな悩みを持つ人間のひたいから、道に向かって汗が一粒落ちる。

 ここに引っ越してくる少し前、転職活動をやめた。全部がいやになったのだ。
〈俳優の三橋朝日が一般女性との結婚を発表!〉
 ネットニュースでその見出しの第一報が出る数時間前に、私を含む熱心な三橋朝日ファンは、すでに情報を得ていた。ファンクラブ会員限定のメールマガジンで、結婚を報告するメッセージが送られてきていたからだ。
「この度、縁あって素敵な方と巡り合い、結婚をする運びとなりました。いつも応援してくださる皆様に一番にお伝えしたいと思い、ここでご報告いたします。お相手は、一般の女性です。皆様にはより一層よい演技をお見せできるよう、今までと変わらず精進いたします。これからも温かく見守ってくださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。三橋朝日」
 署名は直筆だった。奇をてらったところのない、彼らしいまっすぐなメッセージだった。
 ファンになって数年。最初は所属事務所の先輩俳優が主演する映画の端役が多くネクストブレイク俳優と言われ続けたが、彼はこつこつとメディア露出を増やした。三十歳を迎えた昨年には、民放の深夜ドラマで準主演を務めるまでになっていた。
 地道に演技を磨いてきた彼の結婚を、最初は素直に祝福できた。彼に恋愛感情を抱いているわけではないし、彼が幸せになることが、ファンの幸せでもある。二歳になる甥っ子が結婚するときもこんな気持ちになるのだろう、と思っていた。
 数時間後、ファンクラブ会員へのメッセージを情報源として、三橋朝日の結婚はネットニュースの記事になった。ポータルサイトのコメント欄には「おめでとうございます」「これからもお仕事がんばってください」など祝福の言葉が並んでいた。
 私は自分では投稿せず、一つずつ「いいね!」の意を示すグッドボタンに触れていった。少数ではあるが、ときおり「おめでとー、誰だか知らんけど」というふうな意地悪なコメントが交じっていたので、そういったものにはマイナスの気持ちを知らせるバッドボタンを押した。
 流れで、女性専用のネット掲示板にもアクセスする。その掲示板での三橋朝日人気は、ちまたに比べてなぜかとても高いので、私は普段からよくチェックしていた。
 三橋朝日結婚のトピックはさっそく立ち上げられていて、コメント数はまだそれほど伸びていないものの、祝福の言葉がちらほら書き込まれていた。
「みっちゃん、おめでとう!」
「ファンに一番に伝えてくれるって、さすがだよね。応援してきてよかった」
「あまり目立たないけど、いい俳優さん」
「歳を取っても活躍できそうな人だよね」
「この人、もっと売れていいはず!」
「こういう夫か息子がほしかった~」
 そこにもグッドボタンで「いいね!」の気持ちを示していった。自分でコメントを書き込んだことは、一度もない。ただ、彼に好意的な書き込みには、精いっぱいの思いを込めて「いいね!」する。反対もしかりだ。私のファンとしての活動は今までもたいてい、こういうささやかなものだった。それで満ち足りていた。
 しかし翌朝、面接に向かう電車の中で何気なくポータルサイトを開いたときのことだ。
〈三橋朝日が結婚! Eカップ元グラドルと〉
 前日とは違う見出しのニュースが、トップページに上がっていた。
 発信元はスポーツ新聞の電子版だった。彼が「一般の女性」と表現していた人物は、最近引退したばかりの元グラビアアイドルで、彼より五つ年上の女性なのだと書かれていた。
 EEEEEEE……。頭はアルファベットのEで埋め尽くされ、うわーと叫びたくなる。立ち上がり、走り出したくなる。ついさっきまで確かにあった穏やかな祝福の気持ちは、消える瞬間に気づく間もなく消滅していて、いやな動悸がしはじめる。