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僕のお守り

 糸のような雨が降っている。四月下旬、私は、京都市左京区の下鴨貴船町のあたりを、神社昌弘さん(三十八歳)と歩いている。神社さんは黒いスーツを着て黒い傘をさしている。目の前に白いタイル壁の二階建ての家があり、M病院という緑色の看板が出ている。
「懐かしいけど、こんな小さかったかな」神社さんがつぶやく。
 私たちは病院の植え込みの横を歩く。
「このあたりで手術をしたんです」彼が建物を見て笑う。「痛くて何度看護師さんたちを蹴とばしたか」
 私たちは、神社さんが病院へ通っていた頃の道を歩いている。

 酒呑童子伝説で有名な大江山のふもとに六軒だけ「神社」という名字の家がある。大昔、天皇から山を守ることを命じられ名字を与えられたのだという。昌弘さんはそのうちの一軒の長男だ。
「神社家を残すために男の子を産まなあかんということで、母はずいぶんとプレッシャーをかけられたそうです」神社さんがいう。
 祖父も父親も山を守るために、林業関係の仕事に就いていた。その父親は、神社さんが十七歳のときに、海で溺れて亡くなった。家族は悲嘆にくれた。
「高校生で何もできないのに、僕が家を守らないかんと思ったんです」彼がいう。「母はひとこともそんなことはいわなかったけど、僕は自分で自分に期待をかけたんです」
 その結果、弱音を吐かず、本音をいわない自尊心の強い人間となった。
 大学三年生のときに六週間、アメリカに留学した。
「向こうで乗馬をしたんです。馬から降りたら、なんか濡れてるんですね、トイレに行ったら血が出てて、これは何だと」
 帰国後、京都で一番の痔の病院だといわれているM病院へ行った。「なんでこんなになるまでほっといたんや」と医師に怒られた。治療が始まった。出血が止まらない。イボ痔ではなく肛門の横が腫れて、膿の溜まる痔ろうだといわれ、膿を取る手術を行った。
「麻酔はききにくいし、敏感なところだし、パンパンに腫れてるところに注射され、ピッて切られるんです。痛いんです」彼が顔をしかめる。「それでも治らない。もう一回手術、もう一回と、八回もしたんです」
 膿を全部取ると、肛門の横に穴ができる。
「その穴にガーゼをつめたりとか、血が出るので消毒したりとか、全部母がしてくれました」

 八回手術をしても治らない。体重は減り続け、体力もなくなっていく。おかしいということになり、消化器専門の病院を紹介された。内視鏡検査をしたところ、腸の中がただれていた。医師はクローン病だといった。
「きいた瞬間、あ、良かったと思ったんです」神社さんが笑う。「病名がわかったから、これで治るって。そうしたら、次の言葉が難病ですって。えっ、難病って、もしかしたら治らん病気?」
 クローン病とは、口から腸、肛門にかけてのすべての消化管に潰瘍やびらん、炎症ができる原因不明の病気だ。当時、患者は五万人から十万人にひとりしかいないといわれていた。
 痔ろうだといわれ八回も手術をしたが、その原因はクローン病だった。食べれば食べるほど消化管を傷つける。こうすれば治るという治療法は確立されていない。
「先生から絶食して下さいっていわれたんです」神社さんがいう。
「栄養はどうやってとるんですか」私がきく。
「僕のお守りがあるんです」そういうと彼は、革の小物入れから青いコードのようなものを取り出した。「これです。このチューブを自分の鼻から胃まで通すんです。五十センチくらいのところに線があるでしょう。ここの線まで入れると胃に届きます。こっちの先を点滴につけてポタポタと落として六時間くらい、夜じゅうかけて一日分の栄養です」
「自分で入れるんですか」
「ええ、ここまでは入るんです」彼が頬のあたりを指す。「この先がいかないんですね、無理に入れようとするとウッとなる」
「苦しそうですね」
「これがまだ三カ月とかで終わるんやったら頑張ろうと思ったんですよ。いつまでやったらいいんですかって先生にきいたら、わからんっていうんです。一生ですかっていったら、それもわからんって。一生こんなの耐えられへんと思った」
 一般的な点滴のように血管に入れる方法もある。それだと完全な入院生活となり、費用が膨大になる。医師は、二十歳の青年を病院に閉じ込めるのではなく、自分で点滴して、昼間は普通の生活が送れるようにすべきだと考えた。
「いわれた当初は、先生だってできへんのにようそんなこというな、やってみせろと喧嘩しました。ここにある液体、直接飲んだって同じだろうってつっかかったら、先生も見るに見かねて、じゃ、飲んでみろって。飲んだんです。くそまずくって、絶対に飲めない。これをする意味は」彼がチューブを目の前に持ってくる。「消化管に負担をかけずに、ポタポタ一滴ずつ落として沁みこますことにあるんです」
 これしかないとわかっていても、飲み込めなかった。
「もういい、餓死しようと思ったんです。せやけど、お腹がグーグー鳴る。なんなの、こんなに苦しいのに死なせてくれよと。僕が命諦めようと思っても、体が諦めてくれへん」
 なんとか喉を通した。
「人からいわれてもダメなんです。自分が覚悟を決めて、自分の意志でゴクンとしないと進まない」
 ひと晩点滴した翌朝、抜き出したチューブを洗浄しなければいけないのだが、嫌になって放り投げたままにしていた。母親がそれを洗い、消毒してくれた。
「そのとき、母がこうしてる姿を見てしまったんです」彼がチューブを鼻に入れる仕種をする。「母にこんな思いさせてるなんてと思って」
「お母さんは、あなたがどんな痛い思いしているかを、自分で試してみようとしたんですね」
「そうなんです。その母の姿見たとき、ああ、と思って、そのときから変わりました」
 神社さんは積極的に治療に取り組むようになった。

 雨の中、私たちは北大路通りに出る。片側二車線の道路を車がジャーッと音をたてて走っている。
「バス停はあそこなんです」神社さんが右手を見る。「でも、僕はたいがい駅まで歩きました」
 ビニール傘をさしバックパックを背負った若い女性とすれ違う。
「この近くに府立大があるんです。そこの子たちを見ると、同じ大学生で、なんで僕だけがこんな目にあわないかんのと思いました」
 賀茂川にかかる北大路橋が見えてくる。
「こんな近かったかなー、もっと遠かったような気がしてました」
「暗い気持ちで歩いてたからでしょうね」私がいう。
「キャリーバッグを曳きながらとぼとぼ歩いてました」
 私たちは北大路通りを渡り、賀茂川の上流側の土手に出る。対岸の欅並木は新緑で覆われている。土手から河川敷に降りる。低い堰を溢れ出た水が、ザーッと音をたて、細長い白い幕のようになって落ちている。
「よく来ました」彼は流れ落ちる水を見ている。「すぐに家には帰りたくなくて、ここでしばらく川を見てました。泣いたこともあります」
 堰の下流側に中洲があり、ぽつんと菜の花が咲いている。

 夜、チューブを使った「栄養療法」をして、昼は水以外何も口にしない。一番大変だったのがテレビを見ても、外出しても食べ物に目がいってしまうことだったという。
「病気になる前に好きだった食べ物は何でしたか」私がきく。
「海老フライ、コロッケ、ハンバーグとかファミレスで出るような洋食が好きでしたね」神社さんが笑う。
 彼は、祖母と母と姉の四人で暮らしていた。
「みんなが僕の前では食べなくなってきたんです。僕が二階に上がったら食べだすとか、いいから気にしないで食べてっていうけど、僕も見たらやっぱり食べたいと思うし、そういうことがいたたまれなくなって、家を出てひとり暮らしをさせてもらいました」

 クローン病の治療を始めた頃、神社さんは大学四年生だった。通学できない彼に、教師は外国の論文を訳してまとめるようにといった。英語の勉強がしたいと母親にいうと、家庭教師をつけてくれた。アメリカ人のいる英会話教室に行きたいというと、授業料を出してくれた。おかげで、大学は優秀な成績で卒業できたし、英語もできるようになった。
 二年間、治療を行い、医師からもう「栄養療法」はしなくて良いだろうといわれた。しかし、完治させたいと思っていた神社さんは治療を続けることにした。
「いったん止めたら、もう二度とできないと思ったんです」
 彼は、外国のクローン病の研究者や患者などにメールを送り、意見交換をした。オーストラリアの医療団体の人は「難病というのは治らないのではなく、いっしょにこれから治していく病気です」と書いてきた。
「先天性のものじゃなくて、あとから出てきた病気というのは、自分の考えとか生活習慣から出てきたもんやから、そこを直せば治るというんです」彼の声が弾む。「で、僕はそれまでの生活と真逆のことを選択するようにしたんです。夜型やったのを朝型にする、運動しなかったのを運動する、肉食中心から菜食に、いままでと違う結果が欲しかったら、違うことしたら良いと思ったんです」
 四年間、「栄養療法」を続け、食事に用心すれば、もう大丈夫と思ったとき、彼は海外での治療の様子を見たいと思い、オーストラリアに行くことを考えた。
 親戚はみんな反対した。
「母だけが賛成してくれたんです」彼が笑う。「行っておいでって、ただ約束してほしいって、『悪くなったら帰ってくること、帰ってくるのが勇気なのよ』と」

 バラバラと傘を打つ雨音が大きくなるなか、灯籠の柱が並ぶ北大路橋を歩く。橋を渡り、信号を越える。
「食事しませんか」私がいう。
「ええ、この先の店、人気してるんですよ」神社さんが少し先にある店を見る。
 はせがわという洋食店だ。店内に入ると山小屋風の造りになっていて、ほとんどの席が埋まっている。店員が私たちを窓側の席に案内してくれる。
 テーブルに立てかけてあるメニューを二人で見る。ハンバーグ、チーズハンバーグ、ハンバーグと目玉焼き……、ハンバーグの専門店らしい。
「こういうものばかりですけど、大丈夫ですか」私がきく。
「ええ、外に出たときは好きな物を食べるようにしてるんです」
 私たちはハンバーグを注文する。
「いまは何を食べても問題ないんですか」
「問題ないです。家ではしっかり、野菜中心の粗食にしてますから」
「お母さんが作ってくれるんですか」
「はい」
 ハンバーグが運ばれてくる。神社さんは手を合わせると、嬉しそうに食べ始める。
 数年前、大腸の内視鏡検査をしたあと、医師が「おめでとう、これまで良く頑張ったね、もう大丈夫だよ」といった。
「この言葉をきいて、本来なら幸せいっぱいになるはずでしょう?」神社さんがきく。
「ええ」私が答える。
「僕、頭の中が真っ白になったんです」彼が両手で頭を挟む。「完治の夢が達成できた。でも、これからどう生きていけば良いかわからなくなったんです。クローン病に依存するようになってたんですね。病気は人生の通過点で、人生の目標は別にあるはずなんです」
 神社さんはイギリスに留学して勉強し、帰国後、大学や厚労省のキャリアカウンセラーの仕事に就き、二年前にカウンセラーとして独立した。

 雨は降り続いている。店を出た私たちは、商店街のアーケードを抜け、地下鉄の北大路駅に入る。階段を降り、ホームに立ち、電車を待っている。
「僕が絶食しているとき、母はよく『ごめんね』といいました」彼がいう。
「どうしてでしょう?」
「自分が代わってやりたいのに、代われないから『ごめんね』って。当時の僕は自分のことで精一杯で、母の気持ちを考える余裕はなかったけど、いま思うと、母は僕以上につらく、苦しかったのかもしれません」神社さんは傘の先から垂れる雫を見ている。水滴はゆっくりとホームの床に広がっていった。

 

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