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ああ、なんてみじめな

 私は幾子が妊娠していることを第六週くらいで確信しました。
 私たちは不妊治療をしていて、彼女の基礎体温をグラフにつけるのが私の役割でした。ですから、私には、幾子の月経周期や排卵日や高温期の長さなどがおおまかにわかっています。高温期が十四日を越えることはいままでになかったので、第三週を越えた頃から、妊娠しているのではと思いました。そして、そうだとしたら、いったい誰の子なのだろうと考えはじめたのです。不妊治療をしていたにもかかわらず、この半年近く私たちは性交をしていなかったからです。
 幾子自身も妊娠していることを自覚していたと思います。堕胎を考える時間は十分にありました。ところが、堕胎どころか、彼女は喜んでいました。明るく元気になり、皿洗いをするときなど鼻歌を口ずさむほどです。私はこのまま知らんふりをして、自分の子として育ててもいいかなと思うようになったのです。

 私たちは大学のサークル、児童文化研究会で知り合いました。二人とも子どもが大好きです。幾子は理論派で「子どもの権利条約」などを論じていました。私はたんなるお調子者でボランティアで児童館に行って子どもたちと遊ぶことを楽しんでいました。大学時代は同じサークルのメンバーというだけでお互い恋愛感情をもっていなかったと思います。少なくとも私が好きだったのは幾子とは別の女性でした。
 卒業後、同窓会で再会します。私たちは三十代になっていました。そのときの幾子のさびしそうな様子に接して、放っておけないような気持ちになりました。あとできくと数年にわたる彼女の恋愛が終わったときだったのです。ともかく、私たちはつき合うようになり結婚しました。その頃、幾子は翻訳のアルバイトをしていて、私は塾の講師をしていました。子ども好きな二人なので、自分たちの子どもをもつことが目標になりました。ところが、三年経っても子どもができません。病院に行き、お互いに子どものできない体ではないとわかり、不妊治療を開始したのです。

 妊娠七カ月目に入る頃、弘前に住む幾子の両親が遊びにきました。彼女は母親に何でも話す人だったので、嘘をついていることに耐えられなくなったのでしょう。明るい調子で、「お腹の中の子は須藤君(私)の子じゃないの」といいました。母親は「おろしなさい」と大きな声で怒りました。彼女は母親の剣幕に驚き、床に手をついて「産ませて下さい」といいました。目の前で行われている母子の会話が、どこか芝居じみていて、私はしらけていました。それで、私が母親に「自分の子ではないと知っていました。それでもかまわないので私の子として育てたいんです」といいました。
 その日の夜、母親の追及で、幾子は相手の名前を口にしました。パク・ジョヒョクという韓国人でした。映画関係の仕事をしていて、文通で知り合い、韓国旅行をしたときに会い、惹かれあったのだといいます。ただし、パクには奥さんがいて、結婚はできないのです。両親が帰るとき、母親が私に「申し訳ありません」といって頭を下げました。

 深夜、幾子が手紙を書いています。パクにです。彼からも手紙が来ているのを私は知っています。私は見て見ぬふりをしています。しかし、あるとき、いたたまれなくなって、酒を飲んだ勢いで、「文通を止めろ、アイツの写真は捨てろ」と怒鳴りました。彼女は黙っているだけです。
 これまで一度も、幾子は私に謝っていません。

 十一月十日の早朝に久は生まれました。私は病院の近くの神社に行き、手を合わせ、〈私を父親にして下さい〉と祈りました。
 大人の都合なのに、相手への不満を子どもにしわよせしてはいけないというのが、私たち夫婦の一番の約束事です。
 出産から続く育児の日々はあわただしく過ぎていきました。
 久への授乳や夜泣きにも慣れてきた頃、私は性交をしたいと思い、彼女の体に触れました。彼女は大きな声で「眠いからイヤ」と拒否しました。その後、何度か手を出し、拒否され、そのたびに、幾子と私の間に透明な壁が築かれていきました。彼女に触れるのが怖くなったのです。このままでは、いっしょに暮らしていくことが難しいと考え、思いきって、「私がさわるとイヤっていうのはどうして?」とききました。「体が受けつけない」といいます。「それは生理的にダメってこと? 正直にいっていいから」
「パクさんと出会ってから、あなたと男女の関係を結べなくなったんです」といいます。そして「でも」とすぐにつけ加えました。「女としての相手はできないけど、妻や母としてならいっしょに生活できると思う」
 私は、「正直にいっていいから」といっておきながら、幾子から正直な気持ちを告げられると、自分がみじめになり、パクと幾子に憎しみを覚えたのです。
 パクが実父であるという事実、彼女と肉体関係をもったという事実は消えません。そのことを思うと、はらわたが煮えくり返るようになります。

 久が一歳の誕生日を過ぎた頃。
 椅子の上に乗って天井の蛍光灯を取り替えていて、飛び降りた瞬間、バンと音がしました。右足が痛くて立ち上がれません。医者に行くと、アキレス腱断裂と診断されました。手術を受け、十日間の入院です。その後、リハビリが一カ月以上続きました。
 幾子はあれこれと私の身の回りの世話をやいてくれました。彼女のやさしさを感じた私は、〈幾子が浮気をしたのは人間が誰でも持っている弱さのひとつに過ぎない。それを彼女の負い目にあぐらをかいて、いたずらに憎悪をぶつけるのはつつしもう〉とノートに書きました。
 入院から一カ月後、松葉杖が取れました。
 突然、幾子が「パクさんが子どもを見たいといっているので、韓国に行ってくる」といいます。まるで、ちょっと隣の家に遊びに行ってくるというような調子です。「何を考えてるんだ」と怒ったのですが、彼女は私を無視して旅行の用意をし続けています。

 一カ月ぶりに塾に行きました。私の代わりの人が授業をしています。塾長に会ったら、受験の一番重要な時期に先生がケガをしたので困った、代わりの先生を探してきたが、この人が案外良くやってくれている、できれば、今後も彼でいきたい、申し訳ないが先生のいる場所はなくなるかもしれない、といわれました。私は、数学以外にも教えられるし、事務職でも何でもよいので置いて下さい、一歳の子どもを抱えているんです、と頼みました。二月に契約更新の相談があるので、そこで話し合いましょうということになりました。ただ、最後に塾長が、いまのところ無理して出てこなくていいので、次の仕事を探してみて下さいとつけ加えたのです。やはり解雇です。不安が胸をしめつけます。
 こんなときになぜ、幾子がそばにいてくれないのだと思いました。今頃、幾子はパクと会って何をしているのでしょう、私がどん底にいるというのに。

 十日後に、幾子と久は帰ってきました。久の上の歯がはえはじめています。「タアタア、タアタア」といいます。〈可愛くなったなー〉と思い、この子のためにも、一刻も早く次の職を見つけなければと思いました。失職のことを幾子にいうと、「あなたなら大丈夫、どこの塾でもほしがるわよ」と励ましてくれました。
 久が真っ赤な上下を着ています。「おい、いいの着てるな」と久にいうと、横から幾子が「パクさんのお姉さんが買ってくれたの」といったのです。パクだけでなく、パクの親兄弟ともつき合っているのだと知って、いっぺんに気分が悪くなりました。
 パクは私にひどいことをしたと思っていないのでしょうか。
 その夜、幾子を詰問しました。「久にとって一番よい生き方を選ぶことが大人の責任だ。久に不倫の子だと告げるのは酷だと思わないか、もう、パクのことはあきらめろ」と、子どもを人質にとった迂遠で、イヤらしいいい方をしました。
 私は、自分のこうした陰湿なところが嫌いです。たぶん、こういう態度で接していると幾子も私のことが嫌いになるでしょう。わかってます。わかってますが、幾子を寝取られたと思うと、どうしようもなく自分がみじめで、こんなふうにしつこく彼女にからみたくなってくるのです。

 幾子が行こうというので、久を連れて、「トイザらス」にオモチャを買いに行きました。砂場での遊び道具が必要になったからです。オモチャを選ぶ私たちを外から見ると、仲の良い幸せそうな家族です。こうしたことを平気でやれてしまう彼女の気持ちが私には理解できません。彼女は、母、妻、女を独立させて演じることができるようです。

 私は新しい塾に面接に行っては断られています。
 幾子は、母親の具合が悪いからといって、久を連れて弘前の実家に帰りました。彼女が家を出た直後、弘前のデパートから電話があり、「明日面接に来られるということですが、持参していただくものをお伝えしようと思いまして」といいます。一瞬、間違い電話かと思いました。少しして、〈幾子は私に内緒で弘前での働き口を探してるんだ〉と理解しました。ともかく、弘前のデパートから電話があったことを幾子に伝えると、「お手数をかけました」と他人行儀な返事です。腹が立った私はブチッと電話を切りました。
 私たちは離婚することになるのでしょうか。

 タンスの小物入れの中に、整理されないままに写真が入っています。私と幾子と久の三人で撮った最近の写真と、パクと幾子のツーショットの写真を見較べました。彼女の表情がまるで違います。私との写真では唇を引き締めて沈んだ表情なのに、パクといっしょの写真では明るく生き生きとしています。そのとき、もう、私たちは夫婦としてダメかもしれないと思いました。
 一週間後、幾子から「明日帰ります」と電話がありました。私はすっかり気分が落ち込んで、消耗しているくせに、「まあ、ごゆっくりどうぞ」と答えてました。

 弘前から帰ってきた幾子は離婚届を手にしていました。おそらく、母親と相談して決めたのでしょう。さらに、私がひとりで暮らすためのアパートも、すでに見つけていました。
 もう、彼女はすべて、自分で決め、自分でやってしまいます。

 彼女の両親がやって来て、引っ越しの手伝いをしてくれました。彼女のものは運送屋の車に載せ、私のものは父親がレンタカーで運びます。なさけないことに私が運転免許を持っていないからです。
 いろいろな手続きが終わるまで、幾子と久と私は八畳一間のアパートで暮らすことになります。幾子は台所にフライパンや鍋を置き、食器を片付け、布団をたたみ、手際よくひとり暮らしがしやすいように整えてくれました。
 夜、三人で川の字になって寝ました。これで幾子と別れることになるのかと思うと、私は眠れません。
 午前四時、彼女の上にのしかかるようにして、押さえ付け、首筋にキスをしました。彼女は抵抗します。私はカエルのように彼女にしがみつき、乳房をまさぐりました。彼女は私の右手の三本の指をきつく握りしめて拒絶します。指は私の体重と彼女の肋骨に挟まれたままです。私の指がしびれてきました。手を抜いて、はがいじめにします。暴れる足に足を絡ませて止めました。彼女の体から力がぬけました。能面のような顔をして天井を見てます。なんてみじめなことだろう。なんてイヤな男だろう。

 三月、幾子が子どもを連れて弘前の実家に帰るのを東京駅の新幹線ホームで見送りました。久は覚えたばかりの「バイバイ」──実際はうまく発音できなくて「ヤイヤーイ」だったのですが──をいって、しきりに手を振ります。彼女は泣き出しました。私も泣きました。ドアはなかなか閉まりません。子どもはうれしそうに「ヤイヤーイ」と手を振っていました。

 あれから四カ月が経ちました。桜が咲き、桜が散り、新緑となり、初夏のきざしが訪れ、そして梅雨です。が、どの季節の変化も私には遠いところで起こっていることのように感じられます。いくつもの疑問が心をぶ厚いカーテンのように覆っているからです。
 なぜ、幾子は他の男と寝たのでしょう。そのことで私にすまないと思わなかったのでしょうか。私を嫌いになったのなら、妊娠したときに、なぜ別れるといわなかったのでしょう。私が父親になるといったのを受け入れたときはどんな気持ちだったのでしょう……。
 なんだかずっと彼女の手のひらの上で術策にはまっていたような気がします。
 私の就職先はまだ決まっていません。家庭教師のアルバイトを掛け持ちして食いつないでいます。今日も午後四時になったら出かけなければなりません。先日、雨が降っているので長靴を出しました。左足を入れると突っかかるものがあるので、長靴を逆さにして振ると、メロンシャーベットのプラスチックの容器が出てきました。久のいたずらです。そのプラスチック容器はいまも玄関にころがったままです。

(一冊の大学ノートが送られてきた。ノートには上記の内容が書かれていた。ただし、出来事は前後し、論理は混乱し、怨嗟のことばで溢れていた。それらを整理し再構成した)