娘は二十一のまま
京成線の柴又駅の改札口を出ると、目の前に「フーテンの寅」の像が建っている。
「土日はこのあたりに立って、『よろしかったら柴又をご案内します』って声をかけてるんですけどね」小林賢二さん(六十九歳)が笑う。茶色のハンチングをかぶり、グレンチェックのブレザーを着ている。小林さんは柴又で生まれ育った。大手の電子計算センターに勤めていたが、六十三歳で定年退職したのち、「葛飾区シニア観光ボランティアガイド」をしている。
私たちは踏切りを渡り、帝釈天とは逆の住宅街の方へ向かう。以前、小林さんが住んでいた家を目指している。ひとつ目の交差点を右に曲がる。
「私はここをまっすぐに行ってたんですが、今日は順子が毎日歩いてた道で行ってみますね」小林さんがいう。
「はい」私は答える。
順子さんは小林さんの娘だ。
「こうやって歩いていると」彼がいう。「そこの角のあたりから、ひょこっと順子が出てきそうな気がするんですよ」
一九九六年九月九日、雨が降っていた。
上智大学四年生の順子さん(当時二十一歳)は、シアトル大学へ留学するため、二日後には日本を発つ予定だった。荷物の準備などをしながら家にいた。夕方から銀座の店で美容師をしている母親の幸子さんは、順子さんに声をかけて午後三時五十分頃家を出た。看護の仕事をしている長女の亜希子さんが早番だからもう帰ってくる頃だと思い、鍵はかけなかった。
その後、男が侵入し、順子さんを殺し、家に火をつけた。出火は午後四時三十五分頃だと確認されている。四十五分間の犯行だった。
消火活動のために飛び込んだ消防隊員により発見された順子さんは、Tシャツに短パン姿で、口と両手、両足を粘着テープで、また両膝をストッキングで縛られ、首を数カ所刺されていた。両手には争ったときにできた刃物傷があった。司法解剖の結果、死因は首からの出血によるものだと特定された。
当日、出張から帰る新幹線の中で順子さんの死を知った小林さん(当時四十九歳)は、呆然として家に着いたところ、いきなり車に乗せられ亀有警察署に連れていかれた。そこにいた妻の幸子さんは泣いて立っていられず、亜希子さんや友人たちに支えられていた。遺体の確認、事情聴取が行われ、解放されたのは夜の十時近くだった。
「なぜうちの娘が、なぜ我が家がってことが頭の中で渦巻いてましたから」小林さんがいう。「そのときになってはじめて、家が燃えてしまって、帰るところがないことに気がついたんです。ホテルなんかないところだったし、途方に暮れてたら、家内のママさんバレーの仲間が『よかったらうちに来ませんか』って声をかけてくれたんです。ありがたかったですね」
翌日から、現場検証に事情聴取、葬儀、罹災手続、新しい住まいの手配と、次々にやらなければならないことが押し寄せてきた。結局、友人宅に一週間世話になり、アパートへ引っ越した。
「最初の頃は、毎日刑事さんが来てたし、こっちからも行ったりして、この事件はすぐに解決するって感じだったんです。それが、刑事さんが来るのが一週間に一回になり、二週間に一回になり、新しい情報がなくなるから、だんだんと足が遠のいていったんです。こっちは〈本当に捜査してくれてるんだろうか〉って疑心暗鬼になったりしました」
一年半が経ち、担当の刑事が異動になった。
「自分の在任中に絶対ホシをあげてやるっていってたから、彼自身悔しいんです。それに遺族に対して申し訳ないって気持ちもあるんでしょうね、『(辞令という)紙切れ一枚で動く、そういうところなんですよ』っていってました」
そんなふうにして一年が経ち二年が経ち、時が過ぎていった。
駅から百メートルくらい歩いたところで表通りから一本なかの道に入ると、住宅街になる。二階建ての家が並び、二階のベランダに洗濯物が揺れている。チッ、チッ、チッと小鳥が鳴いている。
「そこの角を曲がったところです」小林さんがいう。
角に電信柱があり、縦長の看板が括りつけられている。そこには「平成八年九月九日夕方柴又三丁目で女子大生が殺され放火される事件が発生しました。現場付近で不審な人・車または犯人に心当たりがある方、情報がありましたらご連絡下さい。亀有警察署」と書いてある。私が看板の文字を書き写していると、小林さんがつぶやいた。
「犯人がいまもどこかで同じ空気を吸ってるんですよ」
事件から十二年後の二〇〇八年、小林さん六十歳のとき、十五年の時効が迫ってきていた。
「あと三年だと思うとじっとしていられなかったんです」小林さんの声が大きくなる。「順子のために何かしないと絶対悔いが残ると思いました」
彼は「時効廃止」の行動をしようと考えた。
「遺族というのは、今日、犯人が捕まるか、明日、捕まるかということを望みに生きてるんです。時効が成立してしまうと、警察は犯人を捜してくれない、証拠物は返される、警察から縁を切られる形になるんです。もし、時効を廃止できれば、永久に犯人を追えることになる」
小林さんの思いを、知り合いの新聞記者に話すと、記者は小林さんに元警視庁成城署長の土田猛さんを紹介した。土田さんは「世田谷一家四人強盗殺人事件」を担当し、未解決のまま退職したことで、無念な思いを抱いていた。二人は会ったその日に意気投合した。
時効撤廃・停止を求める遺族会「宙の会」を発足させた。署名活動を開始し、政府に嘆願書を提出し、新聞やテレビを通じて訴えた。その結果、政府も動き出した。途中、政権交代による足踏みもあったが、被害者遺族の強い思いが人々を動かし、二〇一〇年、国会で時効を廃止する法案が成立した。事件発生から十四年、小林さん六十三歳のときだ。
「後日談ですけど」小林さんが小さく笑う。「最初に会ったとき、土田さんは『やりましょう』とはいったけど、正直、あと三年では厳しい、国の法律を変えるんだから、最低でも五年はかかると思ったっていってました」
現在、「宙の会」は小林さんが会長となり、「民事損害賠償請求代執行制度」の成立を目指している。簡単にいうと、必ずしも十分とはいえない被害者遺族への損害賠償の実態を踏まえ、国が一時的に立て替えて被害者遺族を救済できるようにしようというのだ。
角を曲がると、間口三メートル、奥行き八メートルくらいの二階建ての家が二軒並んでいる。その隣に同じ間口にコンクリートの駐車場があり、少し奥まったところに、消防団の格納庫がある。
「ここに隣と同じような私の家が建ってたんです」小林さんがいう。
ここが事件の現場だ。
放火され焼け落ちた家を、犯人が捕まるまではと思い、一年半近くそのままにしていた。その後、やむなく解体し、さら地のままで十数年放っておいた。
「時効廃止は多くの人に応援してもらってできたんです。そのお礼の意味で社会貢献をしたいと考えて、地元消防団へ土地を提供したんです」
格納庫の一階は倉庫で、二階は集会室になっている。手前スペースの一角に銅板の屋根の小屋があり、中に地蔵が安置されている。「順子地蔵」という。左右に赤や黄色の花が手向けられている。
「今日、お見えになるというので、家内が活けておいたんです」そういうと小林さんはしゃがみ、線香に火をつける。私も隣に座り手を合わせる。地蔵の前に二十五円と小石が積み上げられている。
「どなたかお参りしてくれる方がいるんです」
「順子地蔵」の横に一メートル四方程度の花壇があり、色とりどりの花が植えられている。
「消防署の女性職員の発案らしいんです。これが良かった。それまで家内はここへ来れませんでしたから、これができたんで花の手入れをしなくちゃいけないということで来れるようになったんです」
事件後、小林さんの妻、幸子さんは寝たきりの状態が続いた。ママさんバレーの仲間が交替でつきそった。
「絶対にひとりにしない、見える場所に刃物を置かないとかが、彼女たちの暗黙の約束だったとあとからききました」
友人たちは、幸子さんが順子さんのあとを追うかもしれないと心配していた。
「あるとき家内の姿が見えないと思って、隣の部屋のふすまを開けたら、骨箱を抱えて泣いてたんです」
その後、二年間、幸子さんは病院へ通い、カウンセリングを受け、徐々に快方へ向かった。仕事にも出られるようになった。
「手に職を持ってたから良かったんです。仕事に行けば、いっときでも気がまぎれますからね」
「事件前に通ってた銀座の美容院ですか」私がきく。
「ええ、いつも家を出るのが三時五十分ぐらいだったんですが、いまも同じ時刻に出てるかというと、そうじゃないんです。三十分から一時間早めに出てます。同じ時刻の電車に乗ると思い出しちゃうんです。あの時刻になると、いま犯人が家に入ったんじゃないか、いま順子が『お母さん助けてー』って叫んでるんじゃないかって」
私たちは事件現場を離れ、小林さんの妻に話をきくために、現在の住まいの方に向かって歩いている。住宅街から表通りに出る。商店がぽつりぽつりとある。自転車店のガラス戸にポスターが貼ってある。順子さんの写真があり、その横に「犯人逮捕のための情報をお寄せ下さい。懸賞金八百万円」と書いてある。
「幼なじみなんです、協力してくれてるんですよ」小林さんがいう。
「今度の九月で事件から二十年が経ちます。自分の中で何か変わりましたか」私がきく。
「私は来年、もう古希です。でも、順子は二十一のままです。時が経って、変わっていくってことは、事件を忘れていくってことになりかねない、そういう意味で、変わっていく自分が怖いんです」
駅前の踏切りを渡ると、大型スーパーマーケットがある。店の前に何台もの自転車が並んでいる。その横の商店街を歩く。
「ちょっとコーヒーでも飲みましょうか」小林さんがいう。
店主ひとりで営業している小さな喫茶店に入る。
「ブレンドコーヒー二つと豆を二百グラム下さい」彼がいう。
私たちは窓側の席に座る。
「お願いがあるんです」小林さんがいう。
「はい」
「家内に、娘のことはいいんですけど、事件そのもののことはきかないでほしいんです。家内は、あのとき鍵をかけて出かけていたらと、ずっと悔やんでいます。それが原因じゃないんですけど、一生忘れることはできないでしょう」
店を出て十分ほど歩き、新しい五階建てのマンションに入る。エレベーターで四階に上がる。妻の幸子さん(六十九歳)がドアを開けて出迎えてくれる。彼女は金属フレームの眼鏡をかけ、グレーのセーターにジーンズをはいている。
部屋に入り、挨拶をしてから、仏壇に手を合わせる。それから居間のテーブルにつく。
「順子さんって、どんな娘さんだったんでしょう?」私が幸子さんにきく。
「買いものにいっしょに行こうっていう子でした。洋服とか靴とかの買いものによくつき合いましたね。それから、朝起きると『何食べようかなー』って、『パンケーキはどう?』っていうと、『うん』って、自分で作るわけじゃないんですよ。出かけるときも『洋服どれがいい?』とか、『お母さん髪結んで』とか、スカーフとかも『結んで』とか、だから、亡くなったあとで、順子の友だちが『一生分甘えちゃったんですね』って……」幸子さんは眼鏡をはずすと、テーブルの上のティッシュペーパーを一枚とって目にあてる。
「家の中では家内に甘えてるんだけど」小林さんが幸子さんの様子を見て明るい声を出す。「あとで友だちにきくと、学校ではリーダーシップがあって、あねご肌だったって、私たちはびっくりしたんです」
「順子とお父さんは性格が似てるからよくぶつかってたんです、ね」幸子さんが小林さんにいう。
「友だちと三人でホームステイしながらアメリカ旅行するっていい出したことがあった」
「ああ、あれね」
「何月何日に出発して最初にお邪魔するお宅はここっていう予定表を出しなさいっていったんです。『出さない』って、『出さないんだったらお父さん絶対に行かせない』『そんなこといったって順子行くもん』って、埒があかないから家内に『お前、親として心配じゃないのか』っていったんです」
「私はそんなに心配してなかったの。ひとりで行くわけじゃないし、友だちの親戚も向こうにいるっていうし」
「最後にちょこっとしたメモを出しましたよ。私は何かあったらいけないと思って、十万円、封筒に入れて『これ使いなさい』って渡したんです。ところが、帰ってきたらそっくり封筒ごと返された」
「あの子も意地張ってたのね。私が『みんなもお金持ってないから、私だけ使うわけにいかなかったの』っていって返しなさいって教えたんです」
まるで順子さんがいるかのように二人の会話は活気を帯びている。
「『お父さん向こうでこれだけ使っちゃった、おつり少ししかありません』とかいってくれれば可愛いよ。それをびた一文手をつけないで返すんだから、可愛げないよねー」小林さんがうれしそうに笑いながらテーブルを指で叩く。
「貧乏旅行の失敗話が面白かったわねぇ」幸子さんも笑う。
ふと二人の会話が途切れる。
小林さんは窓の外を見る。幸子さんはテーブルに載せた自分の手の指先を見つめている。