プロローグ
二人は、暗い夜道を必死に歩いていた。
風は凍るように冷たく、固くつないだ手も、感覚を失いそうなほどかじかんでいる。
どっちも口をきかないのは、そんな余裕がないせいでもあったが、呼吸するにも辛いような北風を吸い込みたくなかったからだ。
街灯一つない、山の中の道である。曲りくねった自動車道路の両側は、歩道などなく、すぐに深い森だった。
二人とも若い、男と女だった。
男の方は寸足らずの上着とワイシャツで、女もブラウスの上に薄手のカーディガン、スカートという軽装だった。二人とも、コートも手袋もマフラーもない。
ただひたすらに、半ば顔を伏せて、少しでも風から逃れようと空しく努力しながら歩いていた。
女がハッと顔を上げて、
「車だわ!」
と、震える声で言った。「追って来た!」
「隠れるんだ」
男が手を引いて、二人は森の木々の間に身を潜めた。
車が一台。こんな夜中にどこへ向かうのか、ライトを木々に伸して、走り過ぎて行った。
「──大丈夫だ」
と、男は言った。「僕らを追ってるんじゃないよ」
「良かった!」
と、女が全身で息をつくと、「足が痛い」
「ああ。爪先がね。僕も痛いよ。仕方ない。もう少し頑張ろう」
「もう少し?」
「いや、僕にも分らない」
と、男は首を振って、「でも、ここでぐずぐずしてたらまずいってことだけは確かだ」
「ええ、分ってるわ」
女は自分を励ますように、何度も肯いて、
「行きましょう」
道へ出ると、二人はまた歩き出した。
風が一段と強くなった。
「──まずいな。このままじゃ、体温を奪われて倒れるよ」
「でも、休んでる暇は──」
と言いかけて、「ね、見て! 小屋だわ!」
道端に、一体元は何だったのかと思える小さな小屋があった。
「入りましょう」
と、女の方が言った。「少しでも風がおさまってくれれば……」
「うん、そうだな」
追われている身だ。のんびり休んではいられない。しかし、この寒さでは……。
その小さな小屋は、何か物置のようなものだったのだろう。ドアが外れかけていて、その脇にかすかに〈工事〉という文字の見える札が掛かっていた。
ドアを引張ると、きしみながら開いた。二人は中へ入って、ドアを閉めた。
完全には閉まらないが、それでも風をよけることはできた。口笛のように鳴る風の音も、遠ざかった。
「──寒い」
と、女は手で体をこすった。
「こんなことになって……」
と、男が言いかけると、
「やめて!」
と、女は遮った。「もう謝らないで! あなたはずっと謝り続けて来たんだもの」
女がすがりつくと、男は力一杯抱きしめた。
「ああ……。このまま、どこかへ運ばれて行ったらいいのに……」
「本当だな。あの〈ドラえもん〉の〈どこでもドア〉だっけ? あれがあったらな」
二人はちょっと笑った。
すると──小屋の奥で、別の笑い声が上った。女が悲鳴を上げそうになって、
「──誰?」
と、暗がりへと訊いた。「誰かいるの?」
汚れた窓ガラスから、わずかに外の明りが入ってくる。月が出ているのだ。
目が慣れると、小屋の奥で立ち上る男が見えた。
「お熱いな。だが、この小屋は俺たちの方が先客だ」
床に座っていた女が、ゆっくり立ち上って、尻を払うと、
「──何だ、子供じゃないの」
と言った。
「俺たちも、あんまり寒いんでここへ入ってるんだ。まあ、ゆっくりしろよ」
「子供」と言われた二人は、身をすくめて、しっかり抱き合っていた。
「椅子はねえが、そこに材木が積んである。座って休め」
男は促して、「この辺で、誰か人を見かけたか?」
「いいえ、誰も……」
と答えて、「紀久ちゃん、座りなよ」
「うん……」
女の子は肯いて、材木の上に腰をおろした。
「あんたたち、十代だろ」
と、女が言った。「私はもう五十。この中じゃ長老だね」
「僕は十九。この子は十七です」
と、少年は言った。「国道へ出たくて。まだ遠いんでしょうか」
「地図だとほんの数センチだけどな。まあ、あと一、二キロってとこだろう」
男は、三十前に見えた。すり切れたジャンパーにジーンズ。
「これは私の息子。──あんたたち、恋人同士らしいけど、駆け落ちかい?」
と、女は言って、「まあ、別に知りたいわけじゃないけどさ」
少し間があって、
「──僕らは逃げ出して来たんです」
と、少年が言った。「僕はこの子の親の店で働いてて……。でも、彼女は四十過ぎの男と結婚させられそうに……」
「今どき、そんな話があるのね」
「古い、小さな町ですから」
と、女の子が言った。「この人と、どこかへ行って暮そうと思って……」
「だけど、その格好で? 金は持ってるの?」
「ほとんど、小銭しか……。突然のことで」
と息をついて、「お二人は……親子なんですね」
「そう。駆け落ちじゃないよ」
と、女は笑って、「でもね。私たちも、そうのんびりしちゃいられないんだ」
「母さん──」
「いいじゃないの。これも何かの縁ってものさ。人の縁は大切にするもんだ。──私は大堀美也子。こいつは広っていうんだ」
「私……松崎紀久子です。この人、小山栄治」
何となく四人は和んだ気分で笑った。
「お二人はどこへ?」
と、小山栄治が訊いた。
「あんたたちと同じ国道さ」
と、大堀美也子が言った。「こっちも逃げてる。もっとも、あんたたちのようにロマンチックじゃないけどね」
「ああ、追われてるのさ、サツにね」
大堀広の手に、幅広のナイフが白く光った。
『別れ道の二人』は全3回で配信予定